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華やかに咲く

 生石高原に近いわが家の周りでは、ツツジが見頃の季節を迎えている。紫色の花を咲かせるミツバツツジくらいしか名前を知らないが、赤色、オレンジ色、白色、どれも瑞々しく、美しい。昔話だが、通っていた高校の最寄り駅のプラットホームには、大きな株のツツジが咲いていたことが妙に記憶に残っている。

 愛犬を連れて散歩に出掛けたついでに、わが家の近くに咲くツツジの写真を撮った。それが下の写真。

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 シャクナゲもツツジの仲間だ。わが家には美しい花を付けるシャクナゲの木が1本ある。山小屋を建てた際、家内が園芸店で購入し、植えた。だから20年以上経っている。しかし背丈は1・5mと低く、成長が遅い。ちなみにシャクナゲという名前は、丈が短いことから「尺なし」と言い、これが変化して「尺なげ」となったらしい。一つ賢くなった。

 5、6年前、顔見知りのお年寄りが軽トラでわが家の前を通りかかった。ちょうど道端にいたので、声をかけると車を降りてきた。すると、山小屋を見上げ、シャクナゲの花に目を止めた。

 「ありゃー、西洋シャクナゲやなぁ」。さすが植物に詳しいだけに、ずばり花の名前を言い当てた。続けて、「この山にない植物を植えると、生態系を乱すから気を付けないといけない」とお叱りを受けた。

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 確かに、植物も動物も外来種が入ってきて大きな問題になっている。琵琶湖のほとりに自宅があるので、外来魚のブラックバスやブルーギルの大繁殖に心を痛めている。小鮎や本モロコが壊滅的な被害を受けており、翁の言葉は耳が痛い。

 後日談だが、生石山にある翁の家を夫婦で訪ねたことがある。すると、広い庭に様々な植物が植えられており、その中には外来種と思われる花が咲いていた。西洋シャクナゲで注意を受けたことを思い出し、思わず家内と顔を見合わせ、苦笑してしまった。

 翁の悪口を言ってはならない。山暮らしの先輩のアドバイスである。不用意な発言は、自分自身に災いを招く結果になる。ブログを書く人間として言葉は十分に慎むべきだろう。小池百合子さんのことを何回も「嘘つき」呼ばわりしたこともあり、ごめんなさい・・・。

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イチ押しのピザ

 生石高原に近いわが家から紀美野町へ下る県道を20分ほど走ると、一気に森が途切れ、民家が見え始める。そのあたりの道沿いに「森のぱん屋さん」の看板が立っている。注意しないと見落とすこともある。板をつなぎ合わせた地味な看板だ。この店が今回紹介したいパン屋である。

 看板が立つあたりは変形の三差路になっており、脇道を上る。道幅は狭く、車のすれ違いが出来ないほどだ。対向車が来ないか、ヒヤヒヤしながら前に進むと、500mほど先にログ材で建てた家があり、これがパン屋さんだ。ここからさらに30mほど進むと空き地があり、5台ほど車が止められる。

 店は柿の木やクルミの木に埋もれるように建っている。店内から外を見ると、長い尾根の生石高原が見える。その中ほどに、大きな電波塔が建っており、この近くにわが家がある。標高800mの森の中である。冬は雪が降り、耐え難いほどの寒さだが、これからの季節は清々しい風が吹く。

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 パン屋さんは土曜、日曜限定の営業で、ピザやパスタなどの料理も食べられる。パンはクリームパンが美味しいという評判だ。天然酵母を使っているが、家内に言わせると「ぜーんぶ、美味しい」という。

 イチ押しはピザである。田舎育ちなのでピザを食べたのは結婚してからで、その美味しさを実感したのはこの店に来てからだった。つまりもう15年になる。

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 グルメ番組の歯の浮くようなお世辞は言いたくないが、ピザの絶妙の塩味、トッピングされたチーズにベーコン、何種類かのキノコが美味しい。生地には程よい分厚さがあり、もっちり感があって香ばしい。パスタもお薦めである。

 この店のオーナーシェフとは親しく言葉を交わす仲である。年齢は60前後だろう。どこで料理の見習いをしたのか、なぜ生石高原の麓に店を開いたのか、興味はあったが聞いたことがない。しかし聞かなくても、料理の味からはひとかどの料理人であることは分かる。

 ところで、わが家から生石高原を左に見ながら南斜面を下ること30分。そこに弘法大師を祀る小さな祠があり、私の散歩コースの一つである。祠の左手に冷たい水が湧き出しており、両手ですって喉を潤すことにしている。年中枯れることがない。

 実は、この湧き水の場所で何回もあのシェフと出会うのだ。彼は料理やコーヒーに使う水を汲みに来ているのだ。私には水の味はもちろん、軟水だの、硬水などの区別もつかない。シェフが水にこだわっていることからもみても、料理に対する真面目な姿勢がうかがえる・・・。

殺生小屋

 なんと先日、愛知県小牧市の市街地にニホンカモシカが現れたという。高山の急斜面のような場所を好むので、大変珍しい目撃例だろう。ニホンカモシカは天然記念物で、郵便切手にもなっている。明治、大正期の乱獲がたたって一時希少動物とされたが、今は増え過ぎて獣害も出ていると言う。
 
 標高800mのここ生石高原のわが山小屋の周辺でも、ここ10日ほどの間に2回も目撃した。それぞれ別々のカモシカで、時々見かける顔なじみである。1頭は黒に近い灰色、そしてもう1頭は白い毛並みだ。

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 カモシカは交尾期を除き、単独行動といわれる。テリトリーは、山小屋の東側一帯が白い色のカモシカ、西側一帯がが黒っぽいカモシカだ。それほど離れていない場所で2頭を同時に目撃したことがあり、素人考えだが、ひょっとして夫婦かもしれないと思っている。

 それにしても、小牧市のような町になぜ来たのだろう。今は芽吹きの季節であり、ちょっと山に入ればイタドリなど食べ物に困ることはないはずだ。性格的におとなしいから滅多に攻撃はしないといい、人的被害はほとんど聞かない。それでも野生動物だから油断はできない。私もそれなりの距離をとって静かに見守ることにしている。

 ところで、カモシカやクマを狩る異色の猟師を描いた一冊の本がある。山本茂実著「喜作新道-ある北アルプス哀史」(朝日文庫)だ。主人公の山本喜作は明治時代、北アルプスを仰ぎ見る安曇野の貧しい家に生まれた。1年に100頭ものカモシカを仕留めたらしく、北アルプスからカモシカの姿が消えたと悪口を言われた。

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 喜作が生きた明治から大正にかけては近代登山の黎明期であり、頼まれれば北アルプスの案内人としても活動し、高額な料金に眉をひそめる登山者もいた言われる。ライチョウの剥製を作り、教材として東京に売り込むなど、彼の生毀誉褒貶(きよほうへん)の生きざまが生々しく描かれており、名著の一冊だと思う。

 何よりも、槍ヶ岳への最短ルート、いわゆる「喜作新道」を息子とともに切り開いたことで知られる。安曇野の中房温泉から合戦尾根を登り、燕岳から大天井岳を巻いて東鎌尾根を登るルートで、私たち夫婦もこのルートで2回目の槍ヶ岳登山をし、途中2泊で頂上に立つことが出来た。喜作新道が開通するまでは、常念岳から槍沢を登るので5、6泊しなければならなかった。

  ↓ 喜作が切り開いた槍ヶ岳への新道
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 この新しい道は、喜作が猟のためよく通った獣道だ。槍ヶ岳直下のこの場所に岩屋を造り、ここでカモシカを解体して毛皮を作っていたが、喜作の賢い所は、折からの登山ブームに便乗し、ここに山小屋を建て、槍ヶ岳を目指す登山者を呼び込んで大儲けしたことだ。

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    ↑ 赤い屋根が殺生小屋

 この山小屋の名前は「殺生小屋」である。何とも物騒な名前である。所有者は別の人だが、今でも山小屋として営業しており、槍ヶ岳からは赤い屋根の小屋を見ることが出来る。うろ覚えだが、安曇野地方では猟をすることを「殺生する」と言ったそうで、これにちなんで名付けられたのだろう。

 カモシカのことを書いていて、つい殺生小屋のことまで書いてしまった。猟師は生きていくためにカモシカやクマを狩り、その「殺生」が山小屋の名前として今も引き継がれている。カモシカのことを書く時、私はどうしても喜作の殺生小屋のことを思い浮かべるのだ・・・。

ある疑惑

 山小屋の暮らしを再開してもうすぐ1か月になる。その間、新型コロナの変異種の急拡大で各地に緊急事態宣言が発せられ、比較的安全な森の中で暮らしている私も何となく自粛ムードになり、外食をせず、家内の買い物にも付き合わず、里に下りることがめっきり少くなった。

 行動範囲を狭められると、私のような老人は時に孤独感にとらわれるが、そんな無聊を慰めてくれるのが、もはや友人とも言える野鳥のヤマガラである。朝起きて居間のソファーに腰を下ろすと、たちまち飛来し、ガラス戸の網戸に爪を引っ掛けてホーバーイングし、存在をアピールするのだ。

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 これは毎朝の儀式のようなもので、まずは手のひらにヤマガラを乗せ、ヒマワリの種を与える。儀式が終わると、一つかみほどの種を餌台に置き、後は勝手に食べてちょうだいである。

 5、6年前までは、餌台に餌を置くと次々とやって来た。多い時で20羽は下らなかった。中には、私の薄くなった頭の上に止まり、頭頂部を軽くコンとつつく愛嬌のあるヤマガラもいた。ところが、次第に飛来する数が減り、今年は夫婦とその子と思われる3羽にまで減ってしまった。

 なぜなのか・・・。様々なことを考えてみた。第1に、この一帯でヤマガラの個体数が減った。第2に、ここよりもいい別天地が見つかった。第3に、ヘビなどの天敵が多くなった・・・。実は、樹木の低い場所に設置した巣箱にヘビが巻きついていていたという話はよく聞くのだ。

 「ある疑惑」という思わせぶりなブログのタイトルを付けたが、どうしてもこの疑惑をぬぐい切れないのだ。

 あれは2016年5月13日だった。目の前で、わが家の巣箱から5、6羽の雛が次々と巣立ったのを目撃した。その様子は飛んだというより、落下したと表現する方が正確かもしれない。たまたまカメラを持っていたので決定的瞬間を撮れたが、もしこの場所に蛇が待ち受けていたら、恐らく大半は食べられていただろう。

            ↓ 巣立ちを促す親鳥
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            ↓ 草むらに着地
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            ↓ 波板の屋根に不時着
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 これまでに生まれたヤマガラの雛はヘビに食べられ、現状のように数が減ったのではないか・・・。突飛な考えかもしれないし、被害妄想かもしれない。しかし昨年、家内が巣箱の直下でマムシを見つけて半殺しにし、私がとどめを刺したことがあった。それだけで疑惑を膨らませるには無理があるかもしれないが、ヤマガラが数を減らしているのは事実である。

山頂の人影は・・・

 この春、山小屋生活を再開して以来、愛犬ぴ~との朝の散歩は欠かしたことがない。家から小さな峠まで20分ほど歩くのだが、そこから真正面に生石高原の主峰、生石ケ峰の山頂が見える。まだ朝が早やいのに、山頂に登山者が佇んでいるのが見えた。次の日も、その次の日も人影が見えた。

 コロナ禍の影響なのか、登山をする人が増えたのだろうと思っていた。しかし、人影が毎日見えるのはどうもおかしい。山頂に立てられた標柱を人影と見間違えたのかもしれない。標柱は昨年末まではなかったのだ。

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 そこで、その正体を確かめようと、家内とともに山頂を目指した。高原からはやはり人影のように見えたが、山道がきつくなると山頂は見えなくなった。頂上へは二つの急坂があり、肩で息をしながら登った。

 あえぐようにして山頂直下にたどりついた。やっと正体が分かった。予想していたように高さ1m余り、直径10㎝ほどの丸太の標柱だった。プレートには「生石ケ峰山頂 870m」と書かれていた。

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 ここは測量の起点となる一等三角点があり、360度遮るものがなく、紀伊水道から和歌山市内、泉州方面、そして高野山方面など紀伊山地が見渡せる。そもそも山頂には三角点を示す小さな石があるだけで、山頂の標柱がなかったのもおかしなことだ。

 山頂へはわが家からは片道3、40分ほどだ。4、5年前まではほとんど毎日のように登っていたが、やがて2日に1回、3日に1回と減り、昨年はひと月に1回も登らなかったことがあった。今回は半年ぶりの山頂登山だが、足の衰えを実感し、しみじみと落胆させられた。家内もかなりきついと言っていた。

 4年前までは毎年北アルプスにを登っていたが、一気に足が衰えてしまった。最後の北アルプスは2018年の蝶ケ岳だった。山頂に着いた時は足がもつれ、「あぁ、これで北アルプスは終わった」と思った。槍・穂高の絶景が記念碑のように脳裏に刻まれた。

 体力の衰えは数年前まで、緩やかな曲線のように下降線を辿ったが、近頃はガクッ、ガクッと階段を下りるような感じだ。これではいけないと焦燥感に駆られる。せめて月2、3回は生石の山頂に立ちたいと思う・・・。
 

変な春

  今年の春は、いつもと少し様子が違う。山小屋の真正面に枝を広げるの山桜の古木は、例年と同じころに花を咲かせ、散っていった。それと入れ替わるように、カエデやエゴなどの広葉樹が次々と新芽を出し始めた。しかし、例年通りとは言えないのが、山菜の生育状況だ。

 例えば、昨年の4月15、6日ごろの写真の日付を見ると、タラの芽もコシアブラも小指の先ほどの小ささだったが、今年は同じころに食ごろのサイズになっている。そして、ゼンマイは次々と新芽を出し、先日には少し収穫した。

 山菜は保存するのが難しい。ワラビは慣れた人だと実に上手に塩漬けで保存する。長野県小谷温泉の女将に教えてもらったが、何回も挑戦したが成功したためしがない。山ウドも塩漬けで保存するらしいが、これもうまくいかない。

 その中で、ゼンマイとイタドリだけは上手に保存出来るようになった。ゼンマイは採ったらすぐに綿を取り、熱湯で7分ほど湯がいた後、ストーブの灰をまぶし、天日干しにする。時々ゼンマイを丸めるようにして揉んで柔らかくする。

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 冷凍食品を入れるフリーザーパックに入れ、常温で保存する。干しゼンマイは水で戻し、鷹の爪を少し入れて甘めに煮る。一袋で4、5日分のおかずになる。酒の肴としても相性がいい。

 シーズン中にパックで10袋くらいを目標に採取する。これがまたなかなかしんどい作業で、3、4日ごとに採りに行かなければならない。採る人の競争も激しく、私たちは朝の6時ごろには家を出る。正直うんざりもすることもある。

 ただ、それだけの価値は十分ある。赤茶色の中国産のものが多く出回っているが、国産ゼンマイとは似て非なるものだ。その点、東北産は味も歯触りも断然いい。私が作る干しゼンマイは及第点だと思う。東京から遊びに来た友人にゼンマイを振る舞ったが、鉢いっぱい全部食べてしまった。後で私も食べようと思っていただけに、少々、ムッとなった。

 先日はあられが降り、朝の気温が0度近い日も。しかし今週になって気温が上がり出し、山菜も大きく育つだろう。これから1年分のゼンマイを採らなければならず、忙しくなる・・・。

東舞鶴へ日帰り旅行

 30年前の1991年。湾岸戦争でばらまかれた機雷を除去するため、海上自衛隊の掃海部隊がペルシャ湾に派遣された。戦前から培った日本の掃海技術は優秀で、6月から9月にかけて34個の機雷を爆破処理した。一連の作戦を終え、部隊は9月11日、母港の呉港に帰還した。自衛隊の海外派遣は憲法の制約がある中で行われ、国内では賛否が渦巻いた。

 それだけにメディア各社は現地の状況を詳しく伝え、呉基地への帰還の際も多くの取材記者を派遣した。私もその一員として同僚たちとともに本社から出張した。呉の沖合に隊員500人を乗せた6隻の掃海部隊が姿を見せると、音楽隊が軍艦マーチを演奏した。その時、思わず胸が熱くなったのを覚えている。

 取材を済ませた翌日、私はフリーになったので、江田島の旧海軍の施設を一人で見学した。中でも、レンガ造りの海軍兵学校の建物の美しさに驚き、今なお記憶が蘇るほどだ。レンガは黄色に近い独特の色合いだった。その一つ一つが工芸品のようだった。イギリスからパラフィン紙に包まれて輸入されたと聞いた。当時のエリートが学ぶにふさわしい風格を備えるため、贅を尽くしたのだろう。

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 以上は前置きである。実は1週間ほど前、家内と電車で京都の舞鶴へ日帰りの旅をした。前々から舞鶴の軍港に建つ赤レンガ造りの倉庫群を見てみたいと思っていた。30年前に江田島で見た海軍兵学校の記憶が強く残っていたからだと思う。

 舞鶴に向かったその頃は、関西で新形コロナウイルスの感染が爆発的に広がりつつあった。不要不急の外出を咎める風潮が日増しに強まり、私たちは大津駅でこそこそと電車に乗った。そして京都駅から一路北上したが、通勤通学の人たちで電車は満員だ。飛沫感染を防ぐため、マスクでがっちり防護した。

 やがて綾部駅に到着した。ここは舞鶴方面と福知山方面への分岐点だ。1時間ほどの待ち時間があったので、駅のアンテナショップをのぞいてみた。地酒のコーナーにメルヘンチックなラベルの吟醸酒があった。「星降る夜の夢」。酒造会社の女性社員が名付けたのだろうか・・・。いいフレーズだと思ったので、少し高かったが買った。

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 終点の東舞鶴駅は舞鶴湾の奥深くにあり、日露戦争当時、東郷平八郎率いるほとんどの艦船がここから出航し、ロシアのバルチック艦隊を迎え撃った。「岸壁の母」で有名な引き揚げ船の桟橋も近い。駅前の真っすぐな道路を歩くと、ほのかに潮風が匂う。東舞鶴は日本海側の防衛を担う海上自衛隊と海上保安庁の基地の町である。

 まずは、12棟が建ち並ぶ赤レンガ倉庫群を見学した。国の重要文化財にふさわしく、まことに見事なものだった。明治34年に舞鶴に鎮守府が創設され、明治、大正を通じて旧日本海軍によって造られた。倉庫には魚雷などの兵器や軍需品が貯蔵された。建物すべてが真新しく見え、明治の建物とは思えなかった。

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 隣接する「赤れんが博物館」も見学し、世界のレンガ史について学び、少し賢くなった。お腹もすいてきたので、レンガ倉庫の中のレストランで、海軍カレーを食べた。そもそもこのカレーは脚気予防策として明治時代に海軍が給食に取り入れたもので、作家吉村昭や司馬遼太郎の小説にも出て来る。私が食べたカレーは、高速のサービスエリアで食べるものと変わらない味気ない物だった。

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 レストランの建物で、軍港巡り遊覧船の切符が売られており、乗ってみることにした。船着き場に行くと列が出来ており、満員のようだ。近頃は若い人に人気があるらしい。まずはミサイル艦に接近した。艦は以外に小さいが、ミサイルは舞鶴から名古屋あたりまで飛び、目標を攻撃できるという。

 遊覧船はマニアが泣いて喜ぶほど艦船に接近し、いくらでも写真を撮ることができる。恐らく、海上自衛隊はファンを増やすため、遊覧船とタッグを組んでいるのだろう。その証拠に、遊覧船が艦に近付くと、乗組員が手を振ってくれた。この日は高性能レーダーを備えたイージス艦2隻が停泊していたほか、巨大な輸送艦、ヘリコプター搭載の護衛艦などを間近に見ることが出来た。

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 帰宅の時間を考えると、そろそろ帰途につかなければならない。小浜線で小浜駅を経由して敦賀に向かい、ここから北陸線、東海道線を乗り継ぎ、大津に帰る。日帰りの旅だったが、なかなか面白かった・・・。

文章の手書きが有効

 「森に暮らすひまじん日記」と名付けた当ブログは、書き始めてこの4月で13年目に入った。人気のブログに比べれば、取るに足らないものだが、長く続ければ訪問して下さる人の数も積み上がり、先日には累計30万人に達した。皆さんにお礼を申し上げたい。

 30万人と言えば、私の自宅がある大津市の人口とそれほど変わらない。市民のほとんどがブログのドアを叩いてくれた計算になる。それにしても、こんなに長く続られるとは思わなかった。気取った言い方をすれば愚直。悪く言えば、余程の暇人ということになる。

 13年前、ITに詳しい娘が山小屋へ遊びに来た。私が暇を持て余していると見た娘は「新聞記者だったから文章を書くのは苦にならないでしょう。ブログでも始めてみたら?暇つぶしになるし、上手くすれば小遣いを稼げるかもしれないわよ」と言った。

 その小遣い稼ぎという言葉に釣られ、ブログを始めてみる気になった。パソコン音痴なので、娘がブログを開設してくれた。文章や写真のアップの仕方なども教えてもらった。「森に暮らす・・・」というタイトルも娘が名付け親である。

 身近な出来事、花鳥風月、政治の話題、釣行記などを思い付くままに書き、ブログに載せた。最初の頃は1日のアクセス数が100~200ほどあったが、徐々に減り、今は30~50件の低空飛行である。娘に言わせれば、それでも結構いい数字だと言う。

 ただ13年目なのに、これまで1円の稼ぎもない。ブログの余白部分に様々な広告が入っており、ここから読者が買い物をしてくれれば何がしかの収入が得られるシステムだ。たが、小遣い稼ぎというのは、やはり動機が不純だろう。

 ブログを書くもう一つの動機は、ボケ防止である。パソコンのキーボードを叩くという指の細かい動きや、文章を練る行為は、共に脳の活性化に役立つと思っていた。ところが最近、手書きで文章を書く方がはるかに脳の働きを活発にさせることを知った。

 ブログ歴13年なんて自慢にならない。間違ったことを延々と続けていたのだ。早くから知っていたら、紙に文章を書き、パソコンで入力したいたし、手紙や年賀状も手書きにしていただろう。そうしていたら、脳の衰えを少しくらい抑えられていたかもしれない。

 大声で名文を音読すのも効果があるらしい。山小屋では誰憚ることなく大声を出せるし、夫婦のののしり合いも遠慮がいらない。手始めに、ブログを書き終わったら、家内に大声で読んで聞かせてみよう・・・。

季節の走りを食べる

 生石高原の山小屋に引っ越してきて4日が経った。前にも書いたが、この冬の間に給湯器からの配管が凍結し、破裂して水漏れを起こしていた。この修理がやっと終わり、風呂に入ることが出来るようになった。やっと落ち着いた気分になり、日常を取り戻した。

 気分にも余裕が出来、山小屋の周辺を歩き回った。以前借りていた畑に行くと、ワラビが少しだけ出ていた。長さ20㎝ほどのものを20本ほど採った。これだけあれば、晩酌の肴になる。

 山小屋から20分ほど歩いて雑木林に行ってみた。ここは日当たりが良いので、タラが群生しており、出たばかりのタラの芽を少しとった。食べるには小さ過ぎたが、人に取られれば悔しいので、恥を忍んで頂戴した。

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 ワラビもタラの芽も旬の山菜だが、しかも旬の中の旬、つまり「走り」である。このような恵みにあずかれるのは、山に住んでいるからこそだ。

 今夜のおかずは、タラの芽と裏の杉林で栽培しているシイタケの天ぷらで決まりだ。昨年秋に釣った小さめの鮎も添えた。灰汁だしして煮たワラビには半熟の目玉焼きを乗せ、黄身をたらりと垂らす。これがたまらんほど美味しいのだ。

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 山菜が本格化するのはこれからだ。あと10日もすればコシアブラの芽がふっくらし、山ウドも赤紫色の茎が地上に顔を出すだろう。年を取るにつれ、春が充満していく様には気持ちが昂る。

山小屋暮らし再開

 きょう4月1日、紀伊山地の生石高原で、山小屋暮らしを再開させた。ちょうど4か月ぶりだ。今年も元気でこの日を迎えられたことがうれしい。

 大津から茶の産地の宇治田原を経由し、奈良から京奈和道路を走ってきた。今年は暖かいので沿道の木々の芽吹きは早く、鮮やかな緑がまぶしかった。

 遠くの山々は黄砂で霞んでいた。家内は喉が敏感で、しばしば咳き込んでいた。自然現象だから文句は言えないが、何かと腹が立つ隣人である。

 山小屋は黄色のスイセンが花盛りだった。家内が何年もかけて株を増やしてきた。高原に向かう人たちの目を楽しませており、足を止める人もいる。

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 山小屋裏で原木栽培しているキノコの様子を見に行くと、大きなシイタケが傘を広げていた。20個ほど収穫した。山菜はやはり例年より早そうだ。タラの芽は4、5日すると食べられそうだ。コシアブラは小指の先ほどでの芽を出していた。こちらはまだまだ。

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       ↑ タラの芽

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    ↑ コシアブラ

 京奈和道路の葛城あたりにアンテナショップがあり、高原に向かう途中、立ち寄ってみた。すると、入ってすぐの目立つ場所にワラビ、タラの芽、コゴミが売られていた。手が出そうになったが、ぐっと我慢した。

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 つまりこれは、私流の「矜持」というやつである。山菜が採れる生石高原に暮らしているのだから、やはり初物は地元産をに拘るべきだ。浮気しない。操を立てる。節操を守って志を変えない。自慢するほどのことではないが・・・。

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