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驚くべき刀剣女子・・・古都散策

 家内が友人と旅行するので、一緒に和歌山の山小屋から大津の自宅について帰った。金魚の糞、はたまた濡れ落ち葉のように思われるかもしれないが、商店も食堂もない山の中では、三度の食事を作るのが面倒なのだ。大津であれば、歩いて10分以内にスーパーやコンビニなどがあり、不自由しない。

 帰った翌日は、特に目的もなく、奈良に向かった。奈良には、どこを歩いても古代のドラマが転がっている。これらを思い起こしながら散策するのは楽しい。JR奈良駅から、まずは春日大社へ。30分から40分ほどかかるが、一袋150円の鹿せんべいを持って歩くと、鹿が寄ってきて退屈しない。ここの鹿は律儀で、せんべいをねだる時は、ちゃんとお辞儀をする。

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 春日大社からの帰り、奈良国立博物館を見学しようと思ったが、近く開催される国宝展の準備のため閉館中で、併設されている「なら仏像館」に入った。100体以上の様々な仏像を一度に見学でき、仏像ファンの聖地だ。静かにたたずむ仏像郡は壮観だった。

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 興福寺へも立ち寄った。この前来た時、再建中の中金堂はテントの中だったが、今は優美な姿を現していた。屋根の両端を金色に彩る鴟尾(しび)は、目が眩むほど輝いていた。中金堂は奈良時代の幕開けを告げるような巨大な建物だったが、江戸時代に焼失し、300年ぶりに再建された。遣唐使を描く井上靖の歴史小説「天平の甍」の情景が重なる。

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 次の日は、京都に向かった。途中、近所の奥さんと出会い、四条河原町の高島屋で開催中の日本伝統工芸展のチケットをもらった。この展覧会には何度か足を運んだが、昔は備前焼作家の出展が多かった。しかし今回は2人(多分)だけで、寂しかった。若いころ、岡山で勤務していたことがあり、備前焼に入れ込んでいた。

 京都国立博物館で開催されている「刀剣特別展」を見学するため、四条河原町から博物館まで歩くことにした。小一時間かかり、連日の歩行で疲れた。入館して驚いた。大して混雑はしていないだろうと高を括っていたら、50分待ちである。人の列の7、8割が女性なのだ。「刀剣女子」という言葉は知っていたが、これほどとは思っていなかった。

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 列は横に4人が並ぶのだが、そのうちの2人はこれぞまさに刀剣女子だ。いで立ちからが驚きである。和服のようなドレス姿で、ハンドバッグの代わりに風呂敷包みを手にし、靴は何と地下足袋なのだ。そば耳をたてていたが、2人は東北から来たようで、話の内容は実に専門的だ。さすが刀剣女子である。

 会場も大混雑だ。ガラス越しの最前列で見るためには、数十分並ばなければならない。自分の番が来てもなかなか前に進まない。刀剣女子は双眼鏡を使い、隅々に目を凝らすからだ。そして、友達と意見を述べ合い、豊富な知識を披瀝し合う。女性が、男が腰に佩く刀剣に興味を持つのは微笑ましく、その研究熱心に敬服する。

 刀剣に無知な私があれこれ言うのは陳腐だが、ただ鍛冶師の匠の技は冴え渡り、瞼にしっかり残った。展示された刀剣には、刃こぼれなどの傷はなく、多くは奉納、贈答用、家宝として大切に受け継がれてきたのだろう。

 欲を言えば、私のような素人は、人を斬った生々しい刀を見てみたい。刃こぼれを見ると、ゾクッとする。刀の出来栄えはもちろんだが、むしろ刀にまつわるエピソードに興味がある。例えば、「徳川家に祟る」と言われる妖刀村正。何かの本で読んだが、西郷隆盛も村正を所持していたらしい。

 それはともかく、奈良、京都の古都を巡った二日間は楽しかった・・・。
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生石高原のススキ

 きのうの日曜日、ここ生石高原は多くの人でにぎわっていた。見ごろになったススキの草原を散策し、秋を満喫しようという人たちである。今年は台風の襲来が相次いだが、ススキの葉や穂はそれほど打撃を受けなかったようだ。

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 ススキは美しい花が咲く訳ではない地味な植物だが、それでも日本人は風になびく草原の情景に感じ入る。そんな美意識は、侘び寂(わびさび)にも通じるものがあるのだろうか・・・。

 ここを訪れる人たちを見ていると、20代の若い人が結構多いのだ。若者が自然の中でこのような時間を過ごす姿に、何かホッとするし、うれしくもある。

 それに比べ、自分の20代のころを振り返ると、休みの日はアパートでゴロゴロするばかりで、味気ないものだった。自然にそれほど興味はなく、季節の移ろいにも鈍感だった。

 この年になって自然を求めて山野を歩き、草花を愛でる。空疎な青春時代を取り返すかのようでもある。大海原のようなススキの草原を眺めながら、そんなことを思い浮かべた。

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ナメコが出た

 山で暮らしていると、季節の移ろいを敏感に感じることが出来る。2月末から3月にかけて、ウグイスの初鳴きが春を告げてくれる。山菜が採れ始めると、もう春爛漫だ。やがてアサギマダラという美しい蝶が舞えば、夏はもうそこだ。

 そして10月も半ばに近づくと、まずは原木栽培しているナメコが出てくる。秋だなぁとしみじみ実感する。続いて、ヒラタケ、クリタケ、ムキダケが順次発生する。最後にシイタケが出てキノコの季節が終わる。

 山小屋裏の杉林で、キノコの原木栽培を始めてもう10数年が経つ。この季節、毎朝キノコ畑を見回るのが日課で、発生が始まると、わくわくする。キノコには不思議な魔力があると思う。

 1週間ほど前、数十本はあるナメコの原木のうち2本から、マッチ棒の先ほどの大きさのナメコが出てきた。すると、みるみる大きくなり、1週間ほど経つと500円玉ほどの大きさに成長し、収穫できるようになった。

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 ナメコの初物は、朝の味噌汁にした食べた。市販のものよりぬめりが格段に強く、ツルンと喉を通った。夜は、大根おろしにポン酢で食べた。独特の歯ごたえがあり、山の風味がしみわたる。とっておきの飛騨の地酒を燗にして楽しんだ。 これがまた燗酒によく合うのだ。

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 キノコには魔力のようなものがあると書いたが、実際、魔物に取り付かれた人は多い。長野県では10月11日現在、キノコ狩り中に16人が遭難し、死者は何と11人に達しているという。他府県の状況は分からないが、長野県だけでこれである。

 今年はキノコが豊作で入山する人が多いため、遭難者も増えたのだろう。多くは無我夢中でキノコを探しているうち、急斜面や崖から転落するというケースが多いらしい。キノコがある場所は親子の間でも秘密とされており、人に場所を知られたくないので単独行が多く、だから危険も増すのだ。

 毒キノコを食べて命を落とす人も後を絶たない。私も近くの山を歩いていて、美味しそうなキノコと出くわすことがある。採りたいという誘惑にかられるが、やはり命が惜しい。その点、自分で菌を打ち、栽培している分には安心だ。キノコが出そろえば、キノコ汁を楽しみたい。


猿が狂喜、人も狂喜・・・幻のサルナシ

 この日は、滅多に行かない森の道を散歩した。半時間ほど歩き、ふと足を止めて上を見ると、ナツメのような大きさの果実が鈴なりになっていた。そこで立ち止まったのは、まったくの偶然だった。神の導きだったのだろう。

 登山用のストックを持っていたので、これで実を叩き落とした。家内が拾って、恐る恐るかじってみた。「すごく甘い。キウイみたい」と言った。そして、「これサルナシじゃない?」とも言った。

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 えっ?と思った。どうして家内がサルナシのことを知っているのだろう。家内によると、野生の果実と言えばサルナシしか思い浮かばないというから、ふーんとうなった。後で調べたところ本当にサルナシで、家内が食べたのはこれが初めてとのことだ。この実は、サルが狂喜して食べるから「猿梨」というらしい。

 私も食べたことはないが、実は30年以上も前、京都の奥地に広がる芦生の森を歩いている時、たまたま出会った地元の老人からサルナシのことを教えてもらった。実をいっぱい付けた蔓を持っており、「これは甘いよ。孫に食べさせるため採ってきた」と話した。一粒食べさせてほしかったが、言い出せなかった。

 その時の印象では、サルナシの実はピンポン玉くらいの大きさだと記憶していたが、実際は2㎝前後だから、私の記憶はいい加減なものだ。サルナシを輪切りにして断面を見ると、キウイとよく似ており、味もそっくり。甘くて程よい酸味があり、実に美味しい。

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 そこで翌日、その場所に行ってみた。軽トラの荷台に立てかけた脚立に乗り、高バサミで蔓を切った。一度に10個以上も採れる蔓もあった。半時間ほどで重さにして2キロほど採れた。その足で、果実酒にするためホワイトリカーと氷砂糖を買うため、山を下った。

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 家内はサルナシを水洗いし、なるべく硬いものを選んだ。実1キロに対し、ブランデー仕立てのホワイトリカーを1・8リットル、氷砂糖を少し多めの700グラム入れて漬け込んだ。ひと月ほどで飲めるが、やはり黄金色になるまで3か月以上は熟成させたい。美味しさは折り紙付きとの評判だ。残りの熟したものはおやつ代わりに食べている。

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 スーパーフードと言われるように、効能も実に多様だ。疲労回復から生活習慣病の予防、前立腺がんや胃がんの予防、美肌効果もあり、挙げればキリがないが、うれしいのは免疫力を高めることだ。先にノーベル賞を受賞した本庶佑さんの研究によって、人が持っている免疫力の凄さを知った。

 サルナシは標高600m以上の山に自生しているとされ、見つけるのがなかなか難しい希少植物だ。今回、われら夫婦が見つけたのは奇跡みたいなものだった。まさに「幻の果実」である。自生している場所は、絶対秘密にしておかなければならない。口の軽い家内に「誰にも言うな」とにらんでおいた・・・。

台風24号で避難したが・・・

 台風24号が接近する9月30日は夜明け前に起き、テレビに映し出される進路予想図に見入った。点線で表示される中心線は、私たちが暮らす生石高原の真上に重なっていた。和歌山に影響が出るのは、この日の午後から夜にかけてという予測だ。

 高原のわが家に留まるのか、大津の自宅にいったん避難するのか、判断を急がなければならない。9月4日に紀伊半島を直撃した台風21号の悪夢が蘇った。

 裏の杉林では何本も木が倒れたり、途中で折れたりし、うち1本の大木がわが家の屋根に倒れかかった。幸い木の枝がクッションになり、それほどの被害にはならなかった。しかしまともに倒れていたら、屋根に穴が空いていても不思議ではなかった。

 木が倒れる少し前から停電になり、湧き水をポンプアップしているモーターも止まり、断水した。停電だけならヘッドランプやロウソクでしのげるが、水がなければどうにもならないので、3日後には大津の自宅に逃げ帰った。

 さて、24号はどのような影響をもたらすのだろう。21号の進路と酷似しており、1週間も続いた停電、断水の再来があるとすれば、もはや高原の家に留まる理由はないし、森の一軒屋だから危険でもある。

 朝食を済ませ、半時間ほどで避難の準備をし、大津に向かった。大津も台風の進路と重なっていたが、停電が起きても県庁所在地なので復旧は早いはず。生石高原のような山奥での復旧作業はどうしても後回しにされるから、やはり避難は賢明だろう。

 大津には昼過ぎに着いた。テレビを見ていると、和歌山県南部の市町村に出される避難指示や避難準備情報を伝えていた。しかし、進路予想図は当初よりも少し東側になり、生石高原は直撃を免れそうだった。

 翌朝、高原で暮らしている外人のPに電話すると、「風、吹かなかったよ。電気もついているよ」という意外な言葉が返ってきた。なるほど、反時計回りで風が吹く北半球の台風は中心線より東側で被害が大きくなるので、Pの話は納得できた。

 その翌日、生石高原に帰った。家の周辺を見回ってみたが、落ち葉が少し多いくらいで被害はなかった。台風が西を通るか、東を通るかでこれほどの違いがあるのかと、改めて思い知った。

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     ↑ キノコの原木に降りかかった葉や枝はこの程度で済んだ

 21号の時は、飛んできた木の枝や葉っぱを取り除くのに何日もかかった。家の裏の杉林では、何種類ものキノコを栽培しているが、スギの葉が原木を覆い、これを取り除くのに苦労した。今回はそれほどでもなく、間もなく収穫期を迎える。

 20号、21号、24号と相次いで和歌山を襲った台風。もう大概にしてほしいものだ・・・。

 

蝶ケ岳から下山し、福地温泉へ

 去年の今頃、高校時代の友人3人とともに、わが国有数のカールが見られる北アルプスの涸沢に登った。事前の打合せで、登山だけでは芸がないので、下山したら温泉に入ろうということになった。

 そこで、ホテルを2軒も経営している同級生Nに「どこか知っている温泉宿があるか?」と聞いてみた。すると、「家内がいつも泊まる福地温泉の長座という旅館なら知っている」と言った。「家内がいつも泊まる」というセリフがグサリ胸に刺さった。

 泊まったことはないが、福地温泉なら私もよく知っている。上高地・北アルプスの玄関口、平湯温泉から新穂高温泉に向かって車で15分ほどの所にある。何度か寄り道し、温泉街を見に行ったことがある。奥飛騨の名にふさわしい落ち着いた温泉街だった。

 「長座」という宿も聞いたことがあり、家内が一度は泊まってみたいと言っていた。しかし私たちは、登山が目的なのでそんな贅沢な宿には泊まらず、安い宿ばかりを泊まり歩いていた。素泊まりの宿を利用することも少なくなかった。

 先日、北アルプスの蝶ケ岳に登ったが、下山したら福地温泉の「長座」に泊まることにした。たまには贅沢するのもいいだろう。それに、Nが言った「家内の定宿」という言葉が耳にこびり付いていたから、対抗心みたいなものがなかったと言えばウソになる。

 蝶ケ岳から下山したその日、福地温泉に向かった。車は家内が運転していたが、長座はすぐ分かった。敷地の入り口には、宿の案内人の若い男性が立っていた。案内人は私たちに不審な目を向け、頭を下げることはなかった。軽トラで乗り入れた宿泊者など珍しいのだろう。しかも、外れかけている車のバンパーにガムテープがペタペラ貼ってある。

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 家内は、駐車場の一番手前の目立つ場所に車を止めた。しかも、隣の車は赤いベンツで、余りにも落差が大き過ぎる。案内人が近寄ってきて、慇懃に「いらっしゃいませ」と言った。「珍しい客やろ?」とからかってみたが、「いえ、そんなことはございません」と生真面目に答えた。

 仲居さんが眺めの良い部屋に通してくれた。何はともあれ温泉に入りたい。旅館から100mほど離れた別棟の温泉に行った。すぐ近くを川が流れ、激流が岩を噛む音がした。この風呂では石鹸の使用が出来ず、ここが源泉なのだろうか。湯につかり、蝶ケ岳からの絶景を思い浮かべた。疲れた足がじんじんした。

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 本館にある大浴場と露天風呂に再び入った後は、食事である。囲炉裏のある個室に通された。料理はいっぱい出てきた。飛騨牛や岩魚は囲炉裏で焼いて食べた。家内は料理の一品、一品を吟味して食べていたが、私は料理が地酒に合えばいいのだ。奥飛騨の水で育まれた辛口を舌の上で転がした。

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 長座のような宿は心が落ち着く。古民家の燻された木材がふんだんに使われているし、あちこちに囲炉裏もある。雪深い奥飛騨ならではの雰囲気、つまり、「火」とともにある暮らしがここにある。わが家も囲炉裏を備え、薪ストーブで暖をとる「火」のある暮らしをしており、親近感を覚える。

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 翌朝、風呂から上がって大きな囲炉裏のある部屋をのぞいてみた。若い女性が新聞紙をくべたり、火吹き竹を使ったりし、薪を燃やすのに四苦八苦していた。この女性は、長座のホームページの写真に魅入られ、5日前に職を求めて千葉からやって来たばかりだという。

 なかなか燃えないので、ここは私の出番。ちょっとしたアドバイスをすると、燃え出した。女性はホッとしたのか、ぺこりと頭を下げた。幼げな笑顔がチャーミングだった。

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 長座での一夜は、老境に入ったわが人生の曲がり角になったかもしれない。これからは登山の行程を短くし、少々お金がかかっても、ちょっと贅沢な温泉を楽しみたい。思いもよらない心境の変化である。年齢相応という自然な流れだろう・・・。

槍・穂高の絶景に震えた・・・蝶ケ岳

  今年の夏山登山は、私事で何かと忙しかったので、お盆明けに挑戦しようと決めていた。目的の山は、北アルプスの槍・穂高連峰の真ん前に対峙する蝶ケ岳(2677m)だ。これまで夫婦で槍を始め、いくつかの穂高の山々に登ってきたが、自分たちの年齢を考えると、今回の山行は最後の北アルプスになるかもしれない予感があった。

 だから何としても登りたいと思い、お盆が明けると毎日何回もネットで天気予報をチェックした。私が重宝している予報サイトは「てんきとくらす」というもので、A、B、Cの3ランクで表示している。しかし最高Aランクの日はほとんどなく、そのうち8月24日には台風20号が本土に上陸、わが家では24時間も停電になった。

 8月中の登山が不能になったばかりか、今度は強力な台風21号が9月4日に上陸し、列島に強烈な風雨をもたらした。この台風によって、紀伊山地のわが家では1週間も停電と断水が続いた。しかも裏山の大木が家の屋根に倒れかかり、もはや登山どころではなかった。しかし、登山を諦めきれない。

 台風からしばらくすると、予報サイトに2日間だけAランクが表示された。その前後とも雨の予報になっていたが、1日目に頂上を目指し、2日目に下山すればいい。綱渡りのような日程だが、これを外せば当分好天がやって来ないかもしれない。「台風疲れでしんどいわ」と渋る家内を説得し、行くことにした。

 慌ただしく9月16日に大津の自宅に帰り、翌17日、上高地に向かった。その夜は、井上靖の小説「氷壁」の舞台になった徳澤園に宿泊した。ここには風呂があり、食事もまあまあなので人気がある。埼玉から来たというご夫婦と意気投合、酒を酌み交わし、ぐっすり眠った。夜明け前、外に出ると満天の星空だった。前日まで雲に隠れていた明神岳が険しい山容を見せていた。

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 朝の7時半、徳澤園裏手の登山道に踏み入れた。これから長塀(ながかべ)山(2565m)を越え、蝶ケ岳を目指す。長塀の名前の通り、長い急登が続き、まずは標高差1200mを登り切らなければ、その先の蝶ケ岳に到達できない。シラビソなどの樹林帯の根をまたぎ、梯子を登り、ぬかるみに足をとられながらひたすら登る。

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 展望がきかない単調な道だけに、嫌になるほど長く感じる。登山道にはゴゼンタチバナがたくさん自生し、その赤い実が少し気分を和らげてくれた。やがて平均的なコースタイムより大幅に遅れ、やっと長塀山の山頂に着いた。さらに1時間ほど歩くと池があり、ここからは蝶ケ岳山頂が近いと何かに書いてあった。

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 肩で息をしながら歩いていると、樹林の間から天を衝く槍ヶ岳が見えた。槍ヶ岳には二回登ったが、やはりこの岩の山は圧倒的な存在感がある。やがて森林限界に出ると、前方に常念岳、その向かいに槍ヶ岳が全貌を見せた。そして左手には荒々しい穂高連峰が連なる。

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 これはもう絶景である。感激の余り体が震え、魂をわしづかみされた。テレビなどでよくタレントたちが「絶景!」などとはしゃいでいるが、絶景という言葉を軽々しく使ってほしくない。手が届きそうなほどに迫る槍・穂高。これぞ正真正銘の絶景なのだ。これまでたくさんの山岳風景を目にしてきたが、間違いなく一番だ。

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 座り込んで疲れた足を休めながら、長い時間、山に見とれた。山では午後になると雲が湧き出すが、この日も頂上付近に雲がかかり始めた。しかも逆光なので霞んで見える。翌日も好天の予報だから、いい光景が期待出来る。朝日が頂上から下へと赤く染めていくモルゲンロートの夢のようなドラマを目の当たりに出来れば、もはや言うことない。

 蝶ケ岳ヒュッテで宿泊した翌日は、モルゲンロートを期待して午前3時ごろ目を覚まし、そわそわしながら5時25分の日の出を待った。外気は10度以下に冷え込み、寒さがこたえる。やがて東の空が明るくなり、まずは乗鞍岳が赤くなり始め、続いて穂高連峰へと移っていく。そして、ドカーンと槍ヶ岳の出番である。

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 乗鞍岳をはさんだ御嶽山と焼岳にも朝日が当たった。左へ首を回すと、富士山、その右に甲斐駒ヶ岳、北岳が見えた。まるで夢のような時間だ。家内はそんな絶景を背に、思わず万歳のポーズをしてみせた。

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 昔を振り返れば、家内は槍の頂上で立って歩くことが出来なかった。北穂高岳では、目の前で女性登山者が滑落、ヘリが救助に来た。奥穂高岳から見るジャンダルムは近寄りがたい異界の様相に見えた。目の前の山からは様々な記憶が蘇り、真珠のような涙が私の頬を伝った。

 3000m近い蝶ケ岳ではすでに紅葉が始まっており、ナイフの刃のような常念岳を眺めながら下山にとりかかった。長い下り坂を思うと、気持ちが塞ぐが、歩かねば帰れない。残り2キロほどになった時、丸太の梯子を前向きに降りようと、一段目に腰を下ろした時、激痛が走った。丸太に突起があり、これが尾てい骨を突いた。ズキン・・・。

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 尾てい骨の痛みに耐え、以前から悪かった左足の膝をかばいながら歩いた。快調に下る家内とは対照的に、私は見苦しい老いぼれ登山者である。悲しいというより、惨めであった。北アルプスの神々から「もう来なくていい」と、引導を渡されたような気持ちになった。もう、終わりにしようか・・・。

停電、断水、倒木・・・台風21号

 やっと停電が復旧した。台風21号で停電になって以来1週間ぶりだ。ここ生石高原で暮らす仲間から、避難していた大津の自宅に復旧の朗報が入り、急いで高原に上がって来た。これでパソコンが使えるようになり、こうしてブログを更新している。

 2週間近くブログを休んでいたが、私たちを心配してくれた友人や知人から多数の安否確認の電話とかメールを頂いた。お陰様で、家内が屋根から転落したくらいで大したことはなかった。この場を借りてひと言、お礼を・・・。

 今回の台風は、北海道地震の陰に隠れてしまい、それほど詳しく報道されなかったのが無念だった。被害は地震ほどではなかったとはいえ、それでも関西の停電や高潮の被害は甚大だった。特に和歌山の山間部を中心に今なお停電が続いており、僻地で暮らす高齢者など「災害弱者」を直撃している。

 誤解を恐れずに書けば、テレビメディアにとって地震の映像は被害の大きさを如実に切り取れるのに対し、停電による暗闇の生活などは絵になりにくい。だから台風被害は脇に押しやられ、停電がどこで発生し、いつごろ復旧するのかといった情報はほとんど伝えられなかった。メディアの社会的使命について考えてもらいたいと、つくづく思う。

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 さて、時計を巻き戻す。9月4日朝、わが家から見渡す紀淡海峡は実に穏やかだった。和歌の浦あたりに鮮やかな虹がかかり、わが家のデッキにはヒマワリの種をついばむヤマガラが多数飛来した。これが嵐の前の静けさなのだろうか。しかし、足の速い台風は確実に海峡の西を北上していた。

 風はあっという間に襲ってきた。午前10時ごろから次第に風が強くなり、わが家の南側にある杉林からちぎれた枝や葉っぱが空を舞った。たちまちデッキは葉で覆われ、雨も横殴りになってきた。しばらくすると、電気が消えた。10日ほど前の台風20号の時は15時間ほど停電したが、今回も同じくらいの停電は覚悟しなければならないだろう。

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 携帯ラジオの台風情報に耳を傾け続けた。それによると、正午前の今頃、台風の目は紀伊水道に達しているはずだ。葉がこすれ合い、木々がギーギーと不気味な音を立てていた。南に面している玄関は強風をまともに受け、外に出るのは危険だ。家内と一緒にロフトに上がり、窓から森を見た。

 木が弓なりになり、今にも倒れそうだ。相変わらず葉がちぎれ、空を舞っていた。すると、家がグラッと動いた。一瞬、家が持ち上げられたような感じだった。風で音がかき消され、風以外の音は聞こえなかった。「今のなんやろ?」と家内と顔を見合わせた。

 ともかく、こんな強烈な台風は初めてだ。雨戸を閉め切り、外の音を聞きながら耐えるしかなかった。午後4時ごろ、やっと風が弱まってきたので様子を見るため外に出ると、息を飲んだ。裏の杉林の大木が山小屋の屋根に倒れかかっていたのだ。家がグラッとしたのは、木がのしかかったからだろう。

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 カッパを着込んで外に出た。倒れた木は直径30㎝を超す大木だ。これ以上木が屋根にのしかかっては壊滅的だ。長い脚立を木の下に差し入れ、もっと倒れるのを防ぐことにした。効果はないかもしれないが、それくらいの知恵しか浮かばなかった。杉林では10本以上が倒れたり、途中から折れていた。

 そして、長い夜が来た。ロウソクと登山用のヘッドランプだけが頼りだ。停電のため冷蔵庫の中の食料を食べ切らなければならない。贅沢だが、2回分の肉を囲炉裏で焼くことにした。こんな緊急時なのに、肉がまことに美味しかった。何か、後ろめたい気分だった。酒を飲み、早めに床に就いた。

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 翌日は、屋根に倒れた木を取り除く作業だ。長い梯子を屋根に差し掛け、チェンソーで木の先から細切れに切っていくしかない。すると、奇跡というか、屋根に損傷が見られない。密集した枝がクッションになったのだろう。長さ20~30㎝ずつ切り落とし、1時間ほどで屋根に掛かっている部分を取り除いた。

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 一段落したので、家内が屋根の枝や葉を取り除くため、梯子を上った。私が下から梯子の根元を押さえていたが、コンクリートブロックの上に置いていた梯子の足がずれ、家内が屋根から落ちた。私は身を挺して家内を受け止めようと、飛び込んで腹ばいになり、カエルのような格好になった。

 わが家では、軒下のもう一段下に長さ3mほどの波板を張り、冷凍庫や洗濯場の空間を設けている。家内は屋根をずり落ち、1m余り下の波板の上に落ちたのだ。ここで止まったからいいものの、下まで落ちておれば、家内はもちろん、勇敢にも飛び込んだ私も負傷していたかもしれない。家内の体重で波板に穴が開いたが、不幸中の幸いだった。

 次の日、情報を集めると、高原のふもとの集落など和歌山の中山間地では各所で電柱がバタバタと倒れ、停電の回復はかなり先になるとのことだった。停電が続けば、湧き水をポンプアップしている水道は断水、もはやここでで暮らすのは困難だ。幸い大津に自宅があるので、やむなく山を下りることにした。

 その際、私たちが暮らす森を見て回った。そこには、目を覆うばかりの光景が広がっていた。あちこちで木が倒れ、へし折られ、道路を塞いでいた。電柱からは、電線や電話線が垂れ下がり、復旧の困難さをうかがわせた。山を下りる決断は致し方なかった・・・。

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      ↓ どこからかコンテナが飛んできた
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決死のスズメバチ退治

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     ↑ 叩き落した巣に執着するスズメバチ

 先日、家内が朝食に添えるミョウガを採りに行った。ミョウガは山小屋のすぐそばで栽培しているが、しばらくすると、血相を変えて帰って来た。ミョウガを引き抜こうとした時、二の腕をハチに刺されたというのだ。刺したハチは、服にしがみついたまま離れなかったという。

 ハチは結構大きく、黄色だったそうだ。恐らく、スズメバチだろう。昨年7月、大津の家に帰った時、不用意に傘立てに手を入れ、そこにハチの巣があったため腕に6か所も刺された。幸いスズメバチではなかったが、それにしても、家内はハチとの相性がいいみたいだ。

 その時に病院で処方され抗生物質の軟膏を塗りまくった。頻繁に塗ると治療効果が上がるという。やがて腕が腫れ上がり、翌日にはかゆみがひどくなった。腫れは手首の近くまで下がってきた。スズメバチの毒は、アレルギー反応がひどい場合、ショック死するケースもあるらしい。

 家内は割と執念深い性格で、仇をとろうとしたのか軒下をくまなく見て回った。すると、ウッドデッキの軒下にスズメバチ特有の丸い巣があるのを見つけた。直径はまだ15センチほどと小さく、スズメバチが頻繁に出入りしていた。

 デッキはわが家の生活空間の一部であり、すぐそこに物騒な代物がぶら下がっているのだから危険極まりない。ホームセンターへスズメバチ専用のスプレーを買いに走った。これは3、4m先の巣を攻撃し、スズメバチを皆殺しにするほどの威力があるそうだ。

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 家内とは長く連れ添ってきた仲だから、仇を打ってやらねばならない。しかし私は、ハチやヘビ、カエル、ヤモリなどの生き物に臆病で、本音を言えばやりたくないが、やるからには身を守るため完全防備で臨むことにした。

 横道にそれるが、当ブログの2013年8月17日付け「暁の奇襲作戦」を読んでいただきたい。わが山小屋の大きなスズメバチの巣を駆除する記事である。暁の午前4時過ぎ、山で暮らす仲間のPが勇敢にもスプレーと棒で駆除してくれた。私はと言うと、なすすべもなく家の中で怯えていたのだが・・・。

 それでもまぁ、一応経験があるので対処方法は分かっている。まずは服装だ。ボート釣りで着用するウェーダーをはき、厚手の防寒着を羽織る。手袋はハチの針が刺さらないようゴム手袋をはめた。そして、帽子の上から鮎釣りに使う玉網をかぶるのが究極の防御策だ。家内はこの堂々たる姿を見て噴き出した。

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 午前6時ごろ、勇気を出してウッドデッキに出た。そして巣めがけてスプレーを噴射した。巣までの距離が遠かったし、スプレーもすぐなくなったので、効果はそれほどでもなく、死んだのは1匹だけだった。巣を叩き落すため竹の棒を振り回したら、古かったため三つに折れた。これで嫌気がさし、これ以上続ける気力をなくした。

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 デッキの上には巣の破片が散乱し、巣に対する未練なのか、何匹かが破片の周りを飛び交ったいた。デッキと居間を仕切るガラス戸にも、ハチが中を窺うように飛び交った。網戸越しとはいえ、不気味である。

 家内が畑に行ったので、ハチの様子を見るため網戸を開けてみた。すると、スズメバチ2匹が家の中に入ってしまった。吹き抜けの天井あたりを飛び交っている。外に出さないと、刺されかねない。そばにあった私のシャツを放り投げて追い出そうしたが、効果はない。落ちてきたシャツが囲炉裏の中に落ち、灰が舞い上がって情けなくなった。

 座して刺される訳にはいかない。ウェーダー、ゴム手袋、玉網の防具を身に着け、箒と蠅たたきを手にロフトに上がり、ハチを追い回した。するとハチは2匹とも出窓に追い込まれたので、蠅たたきで叩き落とした。半殺し状態になったので、息の根を止めるため蠅たたきのグリップでハチをグリグリとつぶした。

 これで一件落着だ。ハチを追い回して汗だくになり、玉網をかぶったまま居間に座り込んでいると、ちょうどそこへ家内が帰って来た。肩で息をする私を見て、「何、してんの」と笑った。こちらの苦労も知らず・・・。

菊と蝶と新撰組

 生石高原に至る道には、早くもノコンギクの花が咲き始めている。私はこの花が好きだ。野菊を代表するノコンギクの花は楚々としていて、そして何より花の色がいい。紫色でも藍色でもない、空色でもない。妙に心をくすぐる色彩だ。

 この花を「ノコンギク」と書いたが、もしかしたら「ヨメナ」かもしれない。この二つの野菊は、素人が見分けるのが難しいそうだ。私にとってはどちらでもいいが、「野に咲く紺色の菊」、つまり「野紺菊」の方が情緒があっていい。

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 さて今回ブログのタイトルを「菊と蝶と新撰組」としたが、察しのいい人はその心を「浅葱(あさぎ)色」と答えるはずだ。この色を辞書で引くと、「ごく薄い藍色のこと、現代では明るい青緑をこう呼ぶこともある」と書かれていた。ノコンギクの花の色もまた、浅い藍色に近い。

 私の場合、浅葱色と言えば、真っ先に思い浮かべるのは蝶のアサギマダラだ。何度も書いているが、アサギマダラは日本列島から南西諸島、遠くは台湾まで旅する蝶である。1000㌔、2000㌔に及ぶ旅の途中、夏から秋にかけてわが山小屋にも立ち寄り、美しい姿を見せてくれる。

 山小屋の山の斜面に、アサギマダラが好むフジバカマやヒヨドリバナを植え、蝶が舞う楽園のようなものを作ろうと思い立ったのが3年前。これがそこそこ功を奏し、今年も早いうちから一度に10匹近く現れたこともある。秋が深まれば、もっと数が増えるだろう。

 アサギマダラはフジバカマなどの花に止まり、羽を広げたり閉じたりしながら蜜を吸っているが、羽を広げた時のその色は息をのむほど美しい。蝶の名前の通り、これが正真正銘の浅葱色なのだと思う。老いぼれながら、羽の浅葱色を見ると、心がとときめく。

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 さて、新撰組と浅葱色の関係だが、新撰組が着用したダンダラ模様の羽織の色もまた、浅葱色なのだ。テレビドラマなどで見る羽織は、空色が鮮やか過ぎるきらいがあるが、本当はどのような色だったのだろう。現物が残っていないのが残念だ。

 新撰組ファンのはしくれを自負している私だが、子供の頃はただ「強い」だけで新撰組のとりこになった。成長するに従い、子母沢寛の新撰組三部作をはじめ司馬遼太郎、浅田次郎、女流では木内昇などを読み漁り、戊辰戦争に敗れた隊士面々と辛苦を共にした会津藩に心を寄せるようになった。

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 それはともかく、浅葱色は日本の伝統色であり、最も人気高い色の一つとされる。ノコンギクもアサギマダラも、そして新撰組の羽織も、日本人の心に響く色彩だと思う・・・。

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