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第二の故郷、岡山へ・・・

 夫婦で温泉旅行に行くため、5枚綴りの青春切符を1冊購入した。兵庫県の日本海側にある湯村温泉旅行で4枚を使ったので、1枚が残った。使わないのはもったいないので、鈍行列車に乗って日帰りの一人旅をしようと、色々とプランを考えた。

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 結局、岡山へ行くことにした。ここは私が新聞記者の駆け出しとして6年間を過ごした第二の故郷である。実は、会社の幹部の子息が2年続けて岡山支局に赴任し、彼らを本社に送り出すため、私の異動は後回しにされ、岡山に6年間も留め置かれた。

 わが社の異動サイクルは3、4年だから、取り残されたような気分だった。だから縁故入社を快く思わなかったが、仕事が楽しかったので不満分子にはならずに済んだ。岡山という地で多くの人と出会い、思い出を紡ぐことができた。今から思えば、この6年が自分の行く末を決めたと言ってもよかった。

 午前7時、大津駅で新快速に乗った。通勤時間帯だったので電車は混んでいたが、新快速終点の姫路からは楽に座って行けるだろうと思っていた。ところが、青春切符の若者やシニア、高齢者で満員状態。乗り継ぎの相生駅でも座れず、岡山の手前で半時間ほど座れただけだった。

 これまで、乗り継ぎで岡山で降りたことがあるが、こうして岡山の街を歩くのは実に40年ぶりである。駅前の桃太郎の銅像は赴任する前からあったように思う。新幹線が開通した時の記念だったのだろうか。すぐ前の高島屋も、新幹線開通の時に開業したはずだ。

 何はともあれ、私が勤務していた岡山支局の当時の建物が残っているか確かめたかった。駅前のあの懐かしい路面電車に乗った。当時は煤けた車両だったが、今はピカピカである。田町という停留所で降りた。線路の東が支局のあったあたりで、西に行けば飲み屋街である。

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 支局があった場所まで行ったが、建物はきれいになくなっていた。しかし、当時と同じように子供のにぎやかな声が聞こえてきた。今もここに深柢保育園があり、ホッとした。近くの商店街には、なじみだった「KIMURAYA」というパン屋さんも健在だった。

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 当時の支局は、文化財級の木造建築で、ある時、事務所の床が抜け落ち、えらい騒ぎになった。その後、県庁の近くに移転したが、ここには2年ほどいたと思う。

 その当時、酒好きの支局長がいて、いつもストーブでスルメを焼いて飲んでいた。新人の私は酒に突き合わさることが多く、ストーブで餅を焼かされたこともあった。支局長は「お前、餅焼くのがうまいなぁ。乞食は早く食べたいので、餅をしょっちゅうひっくり返すんだよ。お前、乞食のようだな」と言われた。

 実はこの支局長、私たち夫婦の仲人である。今も存命だが、いつも江戸っ子らしく、べらんめえ調で冗談を飛ばしていた。仲人をしてもらったのはいいが、披露宴の前にかなりの酒を飲んでいたので、本番のあいさつではろれつが回らず、われら新郎新婦、苦笑ばかりしていた。

  支局の近くに、味噌カツを出す店があったが、今は影も形もなかった。当時、60歳を超えるような夫婦が営んでいた。不愛想な店だったが、味が良かったので繁盛していた。味噌カツと言えば名古屋のソウルフードだが、夫婦は名古屋の出身だったのだろうか。カツに濃厚な味噌をかけ、その上に生卵を載せていた。忘れられない絶品だった。

 このあたりをうろうろしていると、懐かしい看板を見つけた。居酒屋「成田家」である。当時は何軒かのチェーン店があり、私が通っていたのはこの店である。女将さんが店先に出てきたので聞いてみると、間違いなく50年前からここで営業していたという。

 確かこの店のお薦めは、牛スジを味噌やみりんで煮込んだどて焼きだった。同僚や他社の記者と毎晩のように飲み、口角泡を飛ばし、生意気な議論ばかりしていた。あの頃の活気は懐かしくもあり、ほろ苦くもある。今はもうその元気はなく、「ごもっとも、ごもっとも」と議論を避けたがる。

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 この近くには、岡山一の表町商店街がある。われら夫婦は生まれたばかりの子供を連れて、よく歩いたものだ。昔と変わらない華やかさがあり、天満屋は繁盛している風に見えた。ただ、映画館がなくなっていたのは、寂しかった。

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 商店街を北に抜け、右の道を進むと、後楽園があり、そして岡山城に至る。昔、天守閣には黒い板が貼られていたが、今はねずみ色の合板のようなものになっていた。岡山城の別名は「烏城(うじょう)」であり、私たちもそう呼んでいた。烏城はカラスのように黒いからそう名付けられた。金色の装飾がまばゆく、城の趣は昔と違っていた。

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 後楽園を右手に見ながら歩いていると、満開の枝垂れ桜の近くで弁当を広げる子連れのグループがいた。私たち夫婦もこのように子供を連れで後楽園に来て、弁当を食べたものだ。6年も過ごした岡山はどこよりも愛着があり、様々な思い出が巡る。

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 こんなことも思い出した。新婚時代を過ごした住居は、岡山市郊外にあった炭鉱離職者用団地の一室で、6畳一間だけ。風呂はその居間から直接、裸になって入らなければならない間取りになっていた。家賃は4000円。貧しかったけれど、いい時代だった・・・。

  
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恋に疲れた女がひとり・・・

 京都に数年間も駐在していたのに、西の郊外に点在する高山寺や神護寺、清滝などに行ったことがない。そこで春の陽気になった昨日、家内と一緒に古刹を訪ねながら15、6キロの道のりを歩いた。家内はこれまでに2回来ているので、私の案内人である。

 京都駅からバスで1時間余り、栂ノ尾の高山寺に着いた。この古刹は、鎌倉時代の名僧・明恵が開山した。明恵は和歌山県有田川町の平家の一門に生まれた。私は春から年末まで同じ有田川町の山小屋で暮らしており、明恵上人とは同郷の縁である。

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 駐車場から急な裏参道を歩きながら、1960年代にデューク・エイセスがヒットさせたご当地ソング「女ひとり」を口ずさんでみる。1番は京都三千院、2番が「♪京都 栂尾 高山寺 恋に疲れた女がひとり」・・・。私はデュークより、渚ゆう子の歌の方が切なくて、好きである。まぁ、どうでもよいことだが。

 受け付けで拝観料800円を払い、明恵上人時代の遺構「石水院」(国宝)に入った。高山寺の宝物と言えば、歴史の教科書にも載っている鳥獣戯画だ。全4巻のうち最も有名な「甲巻」を所蔵しているが、ガラスケースに入れて展示しているのは複製品だ。

 もう一つの国宝「明恵上人樹上座禅像」も複製品だった。石水院を丹念に見て回ってもほんの半時間ほど。800円払って有難く複製品を見せていただき、はい、それでおしまいだ。複製品は偽物であり、それ以上でも以下でもない。やらずぼったくりとは言わないが、余り品のいい話ではない。

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          ↓ 鳥獣戯画は複製である
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          ↓ 明恵上人の樹上図も複製
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 今、大阪の美術館で「明恵の夢と高山寺」という展覧会が開かれている。こちらは鳥獣戯画や座禅像などの本物が多数展示されており、料金は1300円。これなら普通の料金だろう。複製品を見せる高山寺の言い分はこうだろう。「紙の美術品は管理が難しいので仕方なく」・・・。

 明恵上人ゆかりの古刹は色あせて見えてしまい、足早に弘法大師が暮らした神護寺に向かった。そこまでは20分ほどだが、上りの石段が続き、息が上がる。拝観料600円を払って境内へ。しつこいようだが高山寺より200円安い。見るものはこちらの方が多いし、境内も広い。

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 神護寺の景観を代表する長い石段を登ると、朱に塗られた金堂が目に入る。堂々としたたたずまいだ。本尊の国宝・薬師如来像が正面の厨子に安置され、鋭い視線をこちらに向けていた。薬師さんを守るように、両脇には数々の仏像が並んでおり、内陣に入ってそれらを間近に拝観することができる。

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 この寺にも昨年9月の台風24号の爪痕が残っていた。和歌山のわが山小屋にはスギの大木が屋根に倒れかかり、大騒ぎしたが、こちらは境内の木々がなぎ倒され、復旧もままならないほどの大きな被害だ。つくづく、あの台風の強烈さを思い知った。

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 神護寺を後にし、京都一周トレイルの道をたどりながら紅葉の名所・清滝に向かった。道沿いを流れる清滝川は、飲めるほどに澄んでいた。やがて美しいスギの木立が現れた。見事な幾何学模様だ。神護寺から1時間20分ほどで清滝に着いた。ここの小さな店で、大きな餅が二つ入ったぜんざいを食べ、腹ごしらえをした。

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 清滝の峠を越え、トンネルを抜けると嵯峨野である。昔、この地に庵を結ぶ尼僧を訪ねて行ったことがある。名前は書かないが、誰でも知っている小説家だ。ある裁判にまつわる原稿を依頼したが、原稿料が高く、くだらない内容だったので腹を立てた。今でも尼僧がテレビに映ると、チャンネルを変えたくなる。余談だが、秘書の若い女性は美人だった。

 あだし野の念仏寺も拝観した。8000体を数える石仏、石塔はこの地に葬られ、無縁仏となった墓石である。おびただしい石仏を眺めていると、何か無常感にさいなまれる。地蔵盆の夜、石仏にロウソクを供ええる千灯供養は、嵯峨野の夏の風物詩だろう。

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 嵯峨野からさらに1時間以上かけ、JR嵯峨嵐山駅まで歩いた。家内のスマホの万歩計は2万歩を軽く超えており、かなり足が疲れた。それにしても、外国人観光客の多さに驚いた。人力車も土産物店も大いに繁盛し、レンタル着物店も笑いが止まらないだろう。嵐山の渡月橋のあたりでは人が多く、まともに歩けないほどだった。

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 静かだった嵯峨野の風情は失われ、もはや日本の風景でなくなった。インバウンドなどと言って、喜んでいていいのだろうか・・・。

わが子は天才か・・・思い出の湯村温泉へ

 昔話になるが、小学生の頃、父に連れられて時々京都に行った。北陸から京都までの車中、家々の壁に貼られた「仁丹」の看板がいくつあるか、一つ二つ三つと数えたのをよく覚えている。多分、私が退屈しないよう、父がそのように数えさせたのだと思う。いつも、何枚あったかを父に伝えた。

 昭和20年代から30年代にかけての記憶だが、その頃、仁丹の看板はものすごく多かった。仁丹に飽きると、清酒の看板なども数えたことがある。そのような少年時代の経験からか、今でも電車やバスの車窓の風景を眺めるのが好きで、折角持ってきた文庫本を読みそびれる。

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 今頃の季節、私は家内と一緒にJR青春切符を利用し、毎年のように鈍行列車の旅に出る。信州や山陰地方へ行くことが多く、何度も通った路線でも新しい発見がある。民家の庭先には季節の花が咲き、家のたたずまいや屋根の色などは地方の特徴を表している。鮎釣りが趣味だから、川の相を見るのも楽しい。

 前置きが長くなったが、今年の青春切符の旅行は山陰の名湯と言われる湯村温泉(兵庫県美方郡新温泉町)へ行くことにした。大津駅を朝8時過ぎの電車に乗り、京都駅で駅弁を買って一路日本海側へ向かった。亀岡、園部、綾部といった主要駅を過ぎ、福知山駅で緑色のレトロな電車に乗り換えた。

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 やがて電車が兵庫県境に近づくと、「下夜久野」「上夜久野」という駅に停まった。夜久野という地名はどこかミステリアスだ。妖怪が飛び出して来そうな雰囲気があり、美しい星空も連想させる。かつて、漆の生産が盛んだった古い集落だそうだ。

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 まだ昼には少し早いが、駅弁を広げることにした。缶ビールをグイッと飲んだら、幕の内弁当をつつく。やはり駅弁はおかずが多い幕の内に限る。新幹線こだま号のビュッフェは出張帰りの楽しみだったが、廃止になって久しい。最近は、列車の車内販売もめっきり減った。逆に、駅で売られる駅弁が充実したのは喜ばしい。駅弁は日本の食文化だ。

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 日本海が見えてきた。風が強いのか白波が立っていた。列車はしばらくすると、地上40mにある空中の駅・余部駅に着いた。もう30年近く前になるが、私が勤める新聞社の編集局に衝撃の一報がもたらされた。回送列車が強風にあおられて転落したのだ。車掌と、直撃を受けた海産物加工の従業員の計6人が死亡した。

 見るからに危なっかしい橋梁だったが、事故は本当に起きてしまった。私は、夕刊勤務を終え、ホッとしたのもつかの間、電話取材に忙殺されたのを思い出す。昨年2月にもこの地を訪れたが、下から鉄橋を見上げ、余りの高さに頭がくらくらした。明治の終わりごろに建設されたらしいが、鉄道開通によって陸の孤島に住まう人たちに新しい生活が開けたのだ。

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 列車に揺られて7時間、浜坂駅に着いた。湯村温泉の玄関口である。駅の正面には、昭和のひなびた商店が軒を連ねており、私のような寅さんファンにとっては、今にも本人が現れそうなロケーションである。映画なら、温泉街の大衆劇場の踊り子に恋をした寅さんは恋破れ、切なく街を去るストーリーだろう・・・。

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 湯村温泉を訪れるのは、これが二度目である。最初は40年ほど前で、私が岡山に赴任していた頃だ。その前年に長女が生まれ、まだ這い這いしか出来ない娘とともに買ったばかりの車で山陰旅行をし、湯村温泉に泊まった。その旅館は家内が覚えていた。今はリゾート会社に買収され、派手な外壁に塗り替えられていた。

 今回、湯村温泉に決めた理由は、次のような思い出があるからだ。部屋に通されてゆっくりしていると、娘は部屋のドアまで這って行き、鍵を鍵穴に差し込もうとしたのだ。まだ1歳である。初めての子にしてこの賢さだ。私たちはトンビがタカを産んだと思い、喜び合った。しかしその後分かったことは、凡庸な私たちの血は争えないということだった・・・。

 バスで温泉に着き、まだ時間が早かったので、長い階段を下りて湯が湧き出す「荒場」に行った。この温泉は、平安時代、慈覚大師によって発見されたとされる。98度の熱湯が大量に湧出しており、生卵を湯の中に吊るしておくと、10分ほどで茹で上がる。私たちも卵を三つ茹でてみたが、味は普通だった。

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 湯村温泉は、1980年代のNHKドラマ「夢千代日記」三部作の撮影場所だ。被爆という暗い過去を背負った芸者(吉永小百合)の哀歓を描いた作品で、脚本は作家の故早坂暁さんだ。私は仕事の関係で早坂さんと知り合い、住まいとしていた渋谷のホテルの1階喫茶店でよく打ち合わせをしたものだ。そんな縁から「夢千代日記」には思い入れが強い。

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 湯煙が漂う道を上って行くと、「湯村温泉劇場」という看板を掲げた建物があった。今は空き家だった。大衆劇場かストリップ劇場だったのだろう。このたたずまいは、まさに昭和の情景である。先に登場願ったフーテンの寅さんは、ここの踊り子に恋したと想像したら、何だか実感が湧く・・・。

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 温泉は、夕食までに2回、食後に1回、翌朝1回、計4回は楽しもうと思う。元を取ろうというケチ臭い考えだ。ナトリウム炭酸泉で、まぁ、何にでも効く。湯量は豊富で、家内が泣いて喜ぶ源泉かけ流しだ。無色無臭でさらりとしたお湯である。少し春めいてきたので、どっぷりと露天風呂に浸かった。

 食事は、カニに丹波牛、その他もろもろ。料理の写真を載せたり、こまごま書くと嫌味なので、省く。私たちが泊まる旅館は大抵、大広間で食べるスタイルだが、ここは部屋まで運んでくれた。昔、父は仲居さんに心づけを渡していたが、今はそんな時代でもなかろう。この夜はしたたかに食べて、飲んだ。

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 温泉旅の締めくくりは、湯村温泉からバスで15分ほどの所にある「七釜(しちかま)温泉」だ。この辺りでは最も効能が高いとされるナトリウム・カルシウム泉である。少し黄色く濁ったお湯で、何だか効能がありそうだ。ここでも露天風呂にはゆっくり浸かり、風呂を出ても長く体が火照っていた。 

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 鈍行列車の旅も終わりに近づいた。豊岡市内の蕎麦処で手打ち蕎麦を食べ、駅近くの喫茶店でサイフォンコーヒーを飲んだ。あとは鈍行に揺られながら忍耐の帰り道である。来年からは、往路だけ青春切符を使い、帰りは急行か特急にしようと、家内と話し合った。歳を取りたくないものだ・・・。

トルコ⑧・・・海峡にて(終わり)

 私たちのツァー一行を乗せたバスは、香料サフランの集積地として栄えた世界遺産サフランボルの街から一路西へ。出発から4時間余り、アジアとヨーロッパを隔てるラスボラス海峡が左側に見えてきた。旅はイスタンブールを振り出しに、エーゲ海沿いの遺跡の町々やトルコ山岳地帯を巡ってきた。広大な国土の西半分を1周した形だ。

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 とりたてて旅行社の宣伝をする訳ではないが、率直に言って12日間の旅行料金は安かった。それは観光のベストシーズンを外した閑散期の旅行だからだろう。世界遺産ではそれほど混まず、渋滞にも巻き込まれなかった。何よりも、今夜から2連泊したリッツカールトンやヒルトンなど、いずれも高級ホテルに泊まれた。

          ↓ リッツカールトン
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 リッツカールトンでは、朝食を済ませた後、ロビーのソファに座ってピアノ演奏を聞いていた。すると、10人ほどの一団がやって来て朝食の席に着いた。いかにも金持ちそうな黒人の夫婦と、へーこらする白人を含めた取り巻きたちだ。アフリカは地下資源が豊富で、利権も渦巻いている。そんな富豪なのだろうか・・・。バレないようカメラを向けた。

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          ↓ 金持ちらしい男性は何かにサインしている
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 さて、これから2日間にわたり、イスタンブール市内の観光だ。主にヨーロッパ側、つまりボスポラス海峡西側の旧市街で、宮殿やモスクなど見どころはたくさんあるらしい。最初に行った所は、ブルーモスクの名前が付いた美しいモスクだったが、由来などはほとんど忘れてしまった。確かに屋根は青かった。

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 この界隈を散歩するのは楽しい。トルコでもラッピングカーが走っていたし、楽しげな商店も多い。屋台の焼き栗やケバブを食べたかったが、一行はどんどん先に行き、買えなかった。ここが団体ツァーの泣き所。黒海産のカラスミが売られていたが、安いよと!言っていた割に高い。台湾の倍はした。

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 ローマカトリックの大聖堂アヤソフィアも見学した。ローマ帝国時代の建物だが、15世紀ごろ、キリスト教の痕跡が消され、モスクとして改修された。今ではキリスト教時代の色鮮やかな装飾が復活していた。日本でも、明治政府が廃仏毀釈という愚かな政策を進め、多くの仏教文化が失われた。以前登った北陸の霊峰・白山では仏教の痕跡が何もかも消され、ひどいものだった。

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 われら一行は、グランドバザールに向かった。ここは15世紀、オスマン皇帝の命で作られた市場。66もの街路が迷路のようになっており、4000の店があるそうだ。ガイドによると、迷路から抜け出せない人がいるとのことだ。案の定、中年女性の二人連れが迷い、集合時間に30分も遅れた。

 楽しみにしていたバザールだったが、ちょっと失望した。私は市場特有の臭い、猥雑な雰囲気を期待していたが、そんなイメージとはかけ離れていた。メインの通りはと宝飾店が並び、まばゆいばかりだ。路地に入ると、絨毯や香辛料を扱う店はあったが、肉や果物などを売る店は見つからず、日常生活の臭いはなかった。

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 夜は、待ちに待った日本食である。 10日近くもトルコ料理を食べていると、いくら何でも食傷気味になる。この店は、寿司カウンターもある日本食レストランだ。出てきた料理は、刺身に天ぷら、ナスの煮付け、味噌汁などで、涙が出るほど美味しかった。

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 夜の街に出かけてみた。ホテルから15分の所にステージが設けられ、それまで何かの催しが行われていたらしい。多くの店が営業中で、花屋や古本屋もあり、観光客が大勢出ていた。少し先に行くと、薄暗い公園の近くに長い行列が出来ていた。そこではホームレスや貧しい人のための無料の炊き出しが行われていた。世界中で見られる負の光景だ。

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 いよいよトルコ最後の日が来た。まず見学したのはトプカプ宮殿だ。15世紀から19世紀までオスマン帝国の君主が暮らした宮殿で、今は博物館として保存されている。オスマン帝国は東ヨーロッパから西アジア、北アフリカなど広大な地域を支配しただけあって、絢爛豪華だった。ハーレムもあった。

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 トプカプ宮殿や博物館には、自動小銃で武装した軍隊が配置されていた。トルコでは2015年以降、ISなどによるテロが続発した。彼らが狙うのは、観光地やレストラン、コンサートホールなど警戒が手薄ないわゆるソフトターゲットだ。厳戒は続いており、知人たちからエジプトやトルコなど危ない所によく行くなぁと言われるが、家にいても災いはある。

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 トルコ最後の観光は、ボスポラス海峡のクルーズだ。これはオプショナルツアーで一人7000円。参加したのはたったの6人だけだった。イスタンブールと言えば、ボスポラス海峡に尽きると思う。ここを知らずに帰るのは実にもったいない。

 ここから黒海とエーゲ海がつながり、ヨーロッパとアジアが出会った地でる。世界地図を広げると、極東の日本から何と遠くまで来たもんだと思う。シルクロードの時代から日本ともつながるその遥かなる旅路を想うと、感慨ひとしおだ。

 イスタンブールは軍事的にも通商においても要衝であり、かつては海峡を制する者が勝者だったのだろう。クルーズ船からは、海峡を威圧する堅牢な要塞が見えた。海のエリートを育てた海軍兵学校はさすが瀟洒な建物だ。小高い丘には裕福な人が暮らす建物がひしめいていた。

 海峡をクルーズしながら、何世紀も前に人々がなぜこの地を選んで定住したのか、よく理解できた。美しく、物資に富み、世界につながっているいるからだろう。旅の最後にふさわしい景観だった。そして、波に揺られながら楽しかったトルコの12日間を終えようとしている。
 
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           ↓ 海峡ににらみを利かせる要塞
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           ↓ 海軍兵学校
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トルコ⑦・・・洞窟で暮らした人々

 カッパドキアと言えば、奇岩と洞窟の世界屈指の観光地だ。今回旅行六つ目の世界遺産である。カッパドキアの標高1000mほどの山の上に建つホテルに2連泊し、観光する予定だ。「洞窟ホテル」という名前が付いていたが、一部にそういう部屋があるのかもしれないが、私たち一行の部屋はすべて普通の作り。ただ、部屋はとても広く、高級感に溢れていた。

             ↓ ホテルの夜景
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 朝食の後、ホテルから下り坂を歩いて15分ほどの山腹に、実際、洞窟で生活する一家を見学させてもらった。家族が手作りしたスカーフやアクセサリーを売っており、それを生計の一部に充てているようだ。洞窟の中はかなり広く、真ん中に薪ストーブが鎮座していた。洞窟は暑くもなく、寒くもなく、快適とのことだった。

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 この次は、密かにキリスト教徒が暮らしていた洞窟を訪ねた。3世紀半ばのローマ帝国時代、イスラム教徒によるキリスト教徒への迫害が始まると、カッパドキアの奇岩地帯に逃げ、岩山を掘り進めて住居や教会を造り上げた。バスの窓からは、教徒が生活していた穴だらけの岩山が見えた。

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 バスはやがてギョレメ野外博物館に到着した。ここには岩山を削って造られたいくつもの教会があり、そこに描かれたパステル画は信仰の深さを物語っていた。「ギョレメ」という地名は、見てはならないものという意味で、いかにも秘密めいている。

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 地下8階、2万人以上を収容できる巨大な地下都市も見学した。常に人が住んでいた訳ではなく、イスラム教徒が攻め込んできた時だけ地下にも潜ったとされる。ここには馬小屋やトイレ、ワイン醸造所、台所など生活に必要な施設が整えられていた。

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 次はバスで移動し、キノコのような奇岩が林立する丘に行った。入り口あたりにラクダが4、5頭並んで客待ちをしていた。ラクダの目はつぶらで本当に可愛い。そのうち大柄の女性が現れ、苦労しながら梯子でラクダにまたがったが、その巨大なヒップを見上げていると、ラクダが少し気の毒に思えた。

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 旅行に行く前、どのようにしてキノコのような奇岩が出来たのか、少し予習して行った。それでもなかなか理解するのは難しかったが、理屈抜きでその自然の造形にただ驚くばかりだった。

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           ↓ ラクダ岩          
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           ↓ 3姉妹 
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 先ほどから目の端にらチラチラ見えていた山が、先に行くとはっきりと見えた。エルジェス山と呼ばれ、標高は3916m。富士山よい高い。実に美しい山で、ガイドは「トルコの富士山です」と自慢げに説明した。山好きの私はその美しさに感激し、何枚も写真を撮った。

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 岩壁が夕日に照らされるビューポイントにも行き、その帰り、私はトルコの若者に呼び止められた。大抵、「ニイ・ハオ」と言われ、中国人と間違えられるのだが、この青年は私が日本人であることを見抜いていた。日本語がなかなか達者で、「これからお茶を飲みながら、仲間と一晩中踊るんだ」と言っていた。、

 ここも世界遺産の中だが、焚火をしていても誰も咎めず、この大らかさが好きだ。あれするな、これするなという禁止ばかりの社会は息が詰まる。私に踊る勇気があったなら、日本語で話しかけてくれた青年たちと一緒に踊りたい気分だった。

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 翌朝、ホテルのテラスにでると、たくさん気球が飛んでいた。カッパドキア名物の風景だ。気球に乗る料金は60分で3200円ほどらしいが、私はその何倍のお金をもらっても絶対乗らない。ガスバーナーの火が気球に燃え移ったらどうするのか、カラスのくちばしが突き刺さったらどうするのか、こんな心配ばかりするのだ。

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 私たちのバスは、気球を眺めながらカッパドキアに別れを告げ、一路北上した。黒海に近いサフランボルという街を目指すのだ。450キロのドライブだ。この街も世界遺産に登録されており、高価な香料サフランの集積地として栄え、17世紀に栄華を極めたという。

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 ここではたっぷり自由時間があり、街のあちこちを散歩した。何と言っても木造建築が美しく、窓の木枠が味わい深い。路上に出されたテーブルでトルココーヒーを飲んだ。銅製のカップを炭で温め、結構手間をかけていた。思ったほどクセがなく、美味しかった。

 この店の前の階段を高齢の女性二人が登って行った。息遣いが聞こえてきそうで、思わず写真を撮った。自分で言うのも何だが、高齢社会の人々の生活を切り取った好きな一枚である。

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            ↓ コヒーを売る屋台
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            ↓ お年寄りの息遣いが聞こえる
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            ↓ ここは公衆浴場
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 サフランボルは、落ち着いた街だった。土産物店の客引きは控え目である。路上に寝そべる犬も平和そのもの。この街に住んでみたいとも思った。そんな街にお別れをし、イスタンブールに向かった。旅はフィナーレに近づいた。

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