女房が、二階の和室でごそごそしている。へそくりでも探しているのか。いや、それにしては、物音が騒々しい。「山小屋に戻ったら、お茶でもたてようかと思って」と言いながら、茶道具を引っ張り出しているのだ。女房は、若い頃、何年も茶道を習っていた。
新婚当時、時々お点前を披露してくれたことがある。ひまじんは見栄を張って、「結構なお点前で」などと言いながら、粗相のないようちょっと緊張したものである。
わが家には、茶道具の家宝がひとつある。高名な作家による抹茶茶碗だ。ひまじんのような貧乏人が買えるようなものではない。
私が京都に赴任していた頃、三千家からそれぞれ新年恒例の初釜に招かれた。家元のお点前を拝見しながらお濃茶をいただくと、別室に席を移し、お屠蘇もいただくのだ。
そして最後に、これも恒例のくじ引きが始まる。30人ほどの客に、若い女性のお弟子さんがくじをのせた三方をうやうやしく差し出す。
ひまじんは最も若輩だったので、末席に座っていた。最後に残った1枚を押し戴く。くじを開くと、隣の京大工学部の先生が覗き込み、「カラやねえ」とおっしゃる。「空」と書いてあるので、なるほど空くじなのだ。
順次、「松のお方」「竹のお方」などと呼ばれた人が賞品をもらっている。最後に「くうのお方」と呼んでいる。えっ、「くうって、空のことか?」。そう1等賞の抹茶茶碗が当たってしまったのだ。残りものに福があるとはこのこと。ちなみに、その年の歌会始のお題は「空」だった。
なんぼくらいの価値があるか、野暮なことは書かないが、家元の秘書役は「家元から出たものは、売ったらあきまへん。そんなことしたら、すぐ分かります」と釘を刺された。骨董屋に飛び込みたいと思ったこともあるが、幸い家宝としてまだ健在なのだ。
来週、この抹茶茶碗など茶道具一式とともに山小屋に戻る。そして、お茶をいただくのだ。「侘び寂び」などという世界は、粗野なひまじんには無縁だと思うが、そんな境地に浸る真似事も悪くない。私たちの森の暮らしはまことに簡素であり、その点だけは「侘び寂び」の美意識に通じるところがある。












