沢庵にも切り方がある?

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  沢庵はどのように切ればいいか・・・。私たち夫婦の間でくだらない論争をしている。お互いが自説を曲げないので、なかなか決着がつかない。馬鹿げたことだと思うが、この問題を世に問うてみたい。

 実は先日、信州からブログを発信されている「心何処」の管理人アガタ・リョウさんから、手作りの沢庵漬けをたっぷり送っていただいた。女房は娘たちと旅行に行っていたので、私は三度、三度、不慣れな食事を作らねばならない。そんな時に送られてきた沢庵はまことに有難い。早速いただくことにした。

 まずは沢庵を長さ4センチほどに切る。これを縦に二分し、幅1センチほどの棒状に切っていく。これが私の切り方である。母親もそのように切っていたので、それを真似ているのだ。沢庵は手間と工夫、加えて信州の風土が育んだ素朴な味わいがあり、絶品だった。

 数日後、女房が帰ってきて、食卓に出してくれた沢庵は輪切りだった。私に言わせれば、手抜きのぶつ切りである。ラーメンライスを注文すると、真っ黄色で薄っぺらい沢庵がふた切れ付いてくる。これも輪切りにしてある。このようにして出されると、ラーメン屋の沢庵を思い出し、味もそっけもない。

 女房が沢庵を輪切りにするのは今に始まったことではない。やんわりとたしなめたが、思わぬ反撃を受けた。「男たるもの、そんな些細なことを・・・」。女房のプライドを傷付けたかもしれないが、「男たるもの」とは聞き捨てならない。

 問題はどのように切れば、美味しく食べられるかである。そもそも沢庵は、大根の皮のパリパリ感、身のポリポリ感が混然一体となって味わいが広がるのだ。だから、輪切りにすると、そのバランスが悪くなる。スティック状に切れば、皮の面積と身の体積がちょうどいい具合になり、噛むたびにいい音が出る。

 料理は素人だが、食材を切るという点ではちとうるさいのだ。それに、自慢じゃないが、愛用の包丁は越前の作家が打った名刀である。これ一本で魚をさばき、刺身も作る。沢庵もこれで切る。包丁を研ぐのも趣味にしているので、いつもよく切れるようにしてある。

 私が釣るアオリイカなどイカ類も正しい切り方がある。刺身を作るには、胴の部分を縦に切って左右の二つに分ける。片身を横向きに切り分け、頭から足の方向に包丁を入れて刺身にする。イカは繊維が横に走っているので、このように切ると、繊維を細かく切るので食感が良くなるのだ。

 しかも、刺身にする前、身に2、3ミリの幅で斜めに浅く包丁を入れておくと、一層美味しくいただける。テレビの食べ物番組で、バカなタレントはどんな魚を食べても「プリプリしている」「コリコリしている」などとほざいている。魚の本当の美味しさは、舌と歯にまとわりつくもっちり感がいいのだ。イカに斜めの包丁を入れるのもこのためだ。

 浅田真央ちゃんの涙を見ながら、夫婦で口角泡を飛ばしているのは馬鹿げてはいるが、平和な証拠かもしれない・・・。

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梅の花が満開、春はそこまで・・・

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  ここ生石山の中腹まで下ると、南に面した山の斜面ではいま、梅の花が満開だ。紀州名産梅干しの実を収穫するため、何千本もの梅が植えられている。この梅林の道は、山に暮らす私たちの生活道路であり、ここを通るたびに梅の花が春の足音を実感させてくれるのだ。

 梅林のそばに車を止めると、何とも表現しがたい香りが漂って来る。まさに春の香りだ。寒い冬を過ごしてきただけにウキウキする。蜜蜂が盛んに羽音を立て、蜜を吸っている。のどかな季節がもうそこまで来ている。

 梅と桜とどちらが好きかと問われれば、私は梅の方に心が傾く。花のボリューム感は桜が圧倒的だ。しかし、点描のように咲く梅は、桜のような華やかさはないが、奥ゆかしい趣がある。

 花の色合いも、梅がいい。ピンク系の白色の桜に対し、黄色い花芯を包む梅は同じ白でも黄色味を帯びている。「美しい」という表現だけでは、かゆい所に手が届かないようなもどかしさがある。桜のように色彩が浮き立つのではなく、自然に溶け込む静けさがある。この色彩の妙は尾形光琳の絵筆をもってして、さてどうだろう・・・。

 日本人は古来から、花に人生観、死生観を重ね合わせる。西行は「願わくは 花の下にて春死なむ」と詠み、草木が萌える満月の頃がいいと、加えている。梅と言えば菅原道真で、大宰府に左遷された時に詠んだ「東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名で、人生の悲哀が滲む。

 私には、短歌や俳句の才がないので、気のきいた歌など詠めない。せいぜい、花を愛でながら、女房が作る梅干くらいしか思い浮かばないバカである。ついでに言うと、バカの諺はいっぱいある。「バカにかまうと日が暮れる」「バカを見たくば親を見よ」「バカは一芸」「バカには勝てない」・・・。

 「桜切るバカ、梅切らぬバカ」もその一つだ。女房は、桜を切ってはいけないと信じている。切ればその部分から腐ってくるというのがその理由だ。梅は枝を切って剪定しないと、枝が伸び過ぎるからである。

 実は私もそのように信じていたのだが、以前、大学の先生が書いたエッセイを読んで間違いであることを知った。この本には、桜は切らずに折るのがよい、梅は折るより切るのがよいと書かれていた。つまり、桜は折りやすく、反対に梅はねちっこい木なので折れにくいというのだ。

 梅や桜に限らないが、花々を眺めていると、根性がひん曲がった私でさえも妙に素直になれる。わずらわしい人間社会と違って、自然は何と素晴らしいことか・・・。

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女の叫び・・・ああ恐ろしや

  いやー、女の叫びはすごい。叫びというより、絶叫、咆哮である。色っぽくもあり、恐ろしくもあり・・・。そう、バンクーバー五輪の女子カーリングだ。すっかり、この競技にはまっている。 

 こんなに長い時間、冬の五輪をテレビ観戦しているのは初めてだ。4年前のトリノ五輪の時は仕事が忙しかったし、時差の関係で放映が未明だったりして、フィギュア女子の荒川選手が金メダルに輝いたことくらいしか記憶にない。カーリングもチラッと見ただけだった。

 今や私はブログタイトル通りの「ひまじん」になっているから、3時間に及ぶカーリングは格好の暇つぶしである。しかも、囲碁やチェスのように戦略性の強いスポーツなので、観戦しながらあーでもない、こーでもないと考え、競技に参加しているような気分になる。ボケ防止にもなる。

 何といっても、女の色気がムンムンしていて、鼻の下が伸びる。とくに、30メートルほど先のストーンを見つめる目がいい。目線は女の要諦であり、武器でもある。大抵の男たちはそんな目で見つめられると、グラッとくるはずだ。老いぼれの私でさえ、大いなる勘違いをしそうである。

 いやはや、選手の声量はすごいの一語に尽きる。先日の英国との戦いでは、英国女性の凄まじさに度肝を抜かれた。スキップと言われる司令塔の金髪女性は19歳の若さ。可愛い顔をしているのだが、ストーンが滑り出すと絶叫は大きくなるばかり。失神すのではないかと心配になるほどだった。将来の夫婦生活にちょっと興味が湧く。

 今日も早起きしてロシア戦の後半を観た。日本は中盤、大量点を許し、あー負けたかと思ったが、終盤に逆転して延長戦で勝った。「ダー、ダー」と絶叫するロシア女性も迫力があった。彼女たちも総じて美人揃いだっただけに、タイムアウトの時に出てきた女性コーチを見て妙に安心してしまった。目は猛禽類、体型はトド(失礼!)。

 クリスタルジャパンは全員が若く、美しい。特に、大和撫子の気品が香り立つ。外国選手が発する獣のような咆哮が飛び交う中で、撫子たちの「コースよ~」という掛け声も、便所掃除のように氷をこする選手に送る指示の声も、どこかしとやかな響きがある。

 大和撫子はしとやかさだけではない。秘めた芯の強さこそ、その真骨頂なのだ。決勝トーナメントに進出できるか予断を許さないが、午後のドイツ戦にも勝って、もう一歩前に駒を進めてほしい。さあ、大和撫子の底力を・・・。

1年半後への投資

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  利回りの良い銀行に、たっぷりお金を預けた気分だ。満期になる1年半後が待ち遠しい・・・。

 いえ、いえ、お金の話ではない。キノコのホダ木をいっぱい作ったという他愛ない話である。1年半後の秋には一斉にキノコが出てくるのだ。種駒と呼ぶキノコ菌にかかった費用は約8000円ほど。その何倍にも値するキノコが収穫できるのだ。

 今回買い求めた種駒は、シイタケ600個、ヒラタケ400個、ナメコ400個、タモギダケ200個、計1600個である。用意した長さ90センチほどの原木は50本に上る。

 雪がちらつくき、寒風が吹き付ける中、毎日、毎日、鼻水を垂らしながら原木に電気ドリルで1600個の穴を開け、種駒を打ち続けた。木槌をたたいた数は1万回近いだろう。マラソンの有森さんのセリフじゃないが、「自分を褒めてやりたい」。

 山小屋裏のスギ林の中には、何年も前から栽培しているシイタケ、クリタケ、ヒラタケ、ナメコのホダ木が80本ほどあるので、今年の分を加えると130本になる。ちょっとしたキノコ農場だ。朝起きると、煙草をくわえながらホダ木を見て回るのが日課で、豊かになった気分を味わっている。

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蓮舫さん、銀メダルの悔しさが分かるか?

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  昨日、久しぶりに生石山を下り、女房と買い物に出掛けた。車で30分ほど走ると、「オークワ」という大きなスーパーがある。時々、売れ残りの国産牛が半額になることがあり、女房はこれがお目当てだ。うまい具合に特売になっており、どっさり買い置きした。

 女房の後をついてぶらぶら歩いていると、女房が「ナマコ売ってるよ~」と言って手招きしている。和歌山産の赤ナマコだ。中型の2匹が入って380円。ナマコが店頭に並ぶことは珍しく、隅っこに2パックだけあった。大好物なので、もちろん買った。

 黒ナマコより赤の方が美味しいとされている。昔、釣りをしていて黒ナマコが引っ掛かってきたことがあり、持ち帰って食べたが、美味しかった。煙草を吸うので味覚が鈍っており、赤だ、黒だと言っても、微妙なところは分からない。

 その夜、ポン酢にモミジおろし、ネギもたっぷり入れて食べた。グロテスクな姿からは想像もつかない美味である。この気味悪い軟体動物を最初に食べた勇気ある人を表彰したい気分だ。中華料理では古くから使われているそうだから、何でも食べてしまう中国人かもしれない。

 ナマコを肴に焼酎をすすりながら、五輪スピードスケート500メートルの再放送を見た。長島、加藤選手が初のメダルをもたらしてくれたのだから、まことにめでたい。しかし、両選手にとって銀と銅のメダルを心から喜んでいるように見えなかった。金をめざして血の出るような練習を積んできたのだから、むしろ無念だったのだろう。

 唐突に、新政権の事業仕訳を思い出してしまった。仕訳人の蓮舫議員はスパコンの予算をめぐって「なぜ二番ではいけないのですか」というトボケたセリフを吐いた。研究者たちを馬鹿にした無知から来る発言は、各方面から批判を浴びた。

 五輪の選手強化費用も国家予算だが、蓮舫議員のような人が事業仕訳に出てきて、「国家財政が厳しいので、金を目指さなくても、銀でいいんじゃないですか」と言ったとしたら、どうだろう。

 かつてスパコン世界一になった日本の研究者も、トップレベルのアスリートも、世界一、金メダルをめざして頑張っているのだ。二番手が目標なんてあり得ない。長島、加藤選手の無念と喜びが半々の気持ちがよくわかる。

 蓮舫さん、研究もスポーツも、当人にとっては二番じゃいけないんですよ。分かるかなあ・・・。分からんだろうなあ・・・。 

 

国母選手も、野鳥カケスも行儀が悪い

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  山小屋のウッドデッキに置いている餌台には、ヤマガラとシジュウガラが入れ替わり立ち替わりヒマワリの種をついばみにやって来る。冬は昆虫類など餌が乏しいので、食餌は一層活発だ。

 ところが最近、カケスが餌台を占領することが多い。カケスにとっても餌不足なのだろう。鳩ほどの大きな野鳥なので、ヤマガラなどは怖がって梢に止まって立ち去るのを辛抱強く待っている。

 カケスは一夫一婦で、いつも二羽で行動している。一羽が食べ終わると、もう一羽がやって来る。ヤマガラはヒマワリの種を一個くわえるだけだが、カケスは一度に10個くらい食べる。横柄で無遠慮な鳥だ。

 その鳴き声は、オシドリのように美しい姿からは想像もつかない下品さである。「ギャー、ギャー」と甲高く鳴き、森の静寂をかき乱している。しかも、顔つきは猛禽類のようにふてぶてしく、まるで愛嬌というものがない。

 姿、態度と言えば、バンクーバー五輪のスノーボードに出場する国母選手が、服装、髪型、態度のどれをとっても噴飯もので、ひんしゅくを買った。競技連盟はこの選手の出場辞退を申し出たが、橋本聖子団長の裁定で出場することになった。

 出場か辞退かは悩ましい問題だろう。本人の努力で五輪選手になったのだから、服装や態度くらいで出場させないのは非情だと考える人が大半かもしれない。ひょっとしたら、メダルをとってくれるという期待もあるだろう。

 逆に、スポーツマンシップに反するのだから、「かわいそう」という感情論を排除して厳格に対処すべきという意見も少なくないと思う。私は、こちらの側である。かつての社会党の土井党首ではないが、「駄目なものは駄目」なのだ。

 スポーツの品格、選手が代表する国の品格は重んじられるべきである。個人の自由はある程度、抑制的にならざるをえないのは当然だろう。スポーツはルールとマナーが両輪になって成り立っているのは言うまでもない。マナーの悪い選手は強くても尊敬されない。

 仮に国母選手がメダルをとっても、世界の人はすぐに忘れてしまうだろう。しかし、同選手の行儀の悪さは日本という国の印象として記憶される。国を代表するということは国の品格をも背負うということだ。

 スポーツの素晴らしさは、強さと同時に、品格を備えたスポーツマンシップの美しさだ。ドンジリでも完走した選手に惜しみない拍手が送られるのもそのためだ。

 自らが五輪選手だった橋本団長の裁定は、なんだかんだと言っても選手の心情を汲み過ぎ、甘やかせることになったのではないか・・・。

名誉と恥・・・南州を思い起こした国会中継

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  桜が狂い咲きしそうな暖かい天候は、やはり長続きしない。今日は一転して氷点下になった。朝の一服を吸うため山小屋の外に出ると、美しい霧氷の世界が広がっていた。

 霧氷の最も美しいのは、朝日に照らされる無垢の輝きだが、今日はあいにく深い霧に包まれている。それでも、自然が創り出す造形の不思議に、いつも見入ってしまう。

 寒くて外へ出る気もしないので、衆院予算委員会でも見ようとテレビをつけると、民主党の伴野とかいう議員が質問に立っていた。何とお粗末な議員がいるもんだと、驚いた。本人は晴れ舞台に立てたことを喜んでいるかもしれないが、視聴者の失笑を買っただけだろう。

 猿芝居という言葉があるが、もしお猿さんが伴野議員の慣れ合いの質問劇を見ていたら「もうちょっと上手だわい」と怒るだろう。鳩山総理に対し「お人柄を尊敬している」などと歯の浮くようなお世辞まで飛び出し、本人が苦笑いするほどだった。

 どうもこの議員は、党と政府の関係がいま一つ分かっていない。いくら与党でも、政府との間には緊張関係がなければならないし、党として質すことはいくらでもあるだろう。各大臣を持ち上げ、どうでもいいような答弁をさせているのは、質問時間を浪費しているにすぎない。

 次に登壇した自民党の与謝野さんは、役者の違いを見せつけた。年の甲というのか、与謝野さんの話術は父親が子どもを諭すようでもあり、巧みだった。私は自民党ファンではないが、鳩山さんと小沢幹事長の資金疑惑に納得していないので、与謝野さんの追及は小気味がいい。不謹慎かもしれないが、下手な漫才や落語より格段に面白かった。

 1年半前、与謝野さんが鳩山さんの弟で自民党議員の邦夫さんと交わした話に及んだ時、鳩山さんの怒りの興奮は最高潮に達した。その話とは「兄が子分にあげるお金に困ってお母様に泣きついている」という内容だった。

 話の信ぴょう性は分からないが、政治家の国会での発言だからそれほどいい加減なものではなかろう。しかし、鳩山総理は実の弟への怒りか、身に覚えのない話への怒りか、体が震えていた。答弁の際、同僚議員から何度も「冷静に」と優しい声をかけられるほどだった。

 殊勝なことを書くが、私は国会論戦を面白がっているばかりではない。心のどこかに、いつも「日本人とは何か?」との思いがある。そもそも日本人は名誉を重んじる国民だと思う。名誉とは、社会的地位を手にする名声ではなく、個人の尊厳を重んじることだ。

 この日の委員会で、ある議員が総理に向かって「あなたはお母様のスカートの陰に隠れている」といった。これまでにも、尊厳を傷つける心ない発言を何度か聞いた。一国の総理としてではなく、一人の人間としてどうして耐えられるのか不思議だ。

 お母様から12億円余りのお金をもらい、しかも脱税だと言われている。日本人が最も忌み嫌う「恥」に違いなかろう。傷つけられた尊厳に加えて、自らの恥・・・。西郷南州は「恥も座するを恥ずる」といった内容の言葉を遺している。鳩山さんには、日本人の身の処し方を今一度思い起こしてもらいたい。

 正直言って、はからずも鳩山さんに同情もするし、かわいそうにも思ってしまうのだ。何が真実かを主張するのもいいが、このまま名誉を傷つけられ、恥を晒し続けていいのかと思う。ここは潔く・・・。

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さあ、キノコに種駒を打ち込もう

  このところ、気持ちが悪いほど暖かい。東京では20度を超えたらしい。ここ生石山でも、日中は12、3度もあり、間違って桜の花が咲きそうな気候だ。燃やし続けている薪ストーブの熱がわずらわしくさえ感じる。

 昨夜、注文しておいたキノコの菌が宅急便で届いた。そろそろホダ木に菌を打ち込む季節なのだ。シイタケ、ナメコ、ヒラタケ、タモギダケの4種類である。原木栽培の場合、3~5年ほど続いてキノコが出るが、もっと収穫量を増やそうと毎年ホダ木を作り続けている。

 キノコの種類によって、適合する木が違う。この森に自生する木でいえば、シイタケはコナラ、ナメコ、ヒラタケ、タモギダケは桜がいい。すでに原木を伐り出しているので、あとしばらく乾燥させれば、菌の打ち込みを始めなければならない。

 毎年、この作業は寒さに震えながらやっているが、結構楽しいものだ。ホダ木に専用の電気ドリルで20~30か所穴を開け、種駒という煙草のフィルターほどの菌を木槌で打ち込んでいく。「コーン、コーン」という乾いた音が心地よい。

 女房は野菜作り、私はキノコ栽培で、言ってみれば分業だ。私がキノコにこだわるのは市販のキノコに比べて格段にうまいからだ。その上、ナメコ以外は冷凍保存でき、しかも冷凍すれば味が良くなる。買い物へ行くにも不便な山奥に住んでいる私たちにとって、貴重な食材なのだ。

 女房が栽培する新鮮な野菜も暮らしを支えている。畑作りに注ぐ女房の情熱はすごいのひと言だ。日がな一日、畑にいても飽きないらしい。暗くなるまで落ち葉を集め、有機肥料作りも熱心だ。時々畑を覗くことがあるが、黙々と作業を続けている姿は実に幸せそうに見える。

 時々、女房から畝作りや肥料入れを手伝ってほしいと言われるが、私にはまるでその気がない。木株に腰かけ、煙草をふかして眺めているだけである。女房が畑作りを始めた20数年前からいつもそうだから、女房はすっかり諦めている。畑では髪結い亭主なのだ。

 キノコも野菜も収穫まで長い時間がかかる。特にキノコはふた夏が過ぎた秋から発生するので、じれったい。しかも、日頃から水をかけるなどホダ木の管理は難しく、こまめに世話をしなければならない。それだけに、収穫の喜びはひとしおだ。

 森の暮らしは、何事につけ気長に構えなければならない。キノコの栽培を通じて、色々と教えられることが多い。

    ↓シートをかぶせて乾燥中のキノコの原木
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    ↓宅配便で届いたキノコの種駒
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夢・・・森の五右衛門風呂

  4日ぶりに山小屋に帰って来た。大阪でも凍りつくような寒さだったが、今日は一転して暖かい。標高の高い山小屋でも外気は10度近くあった。三寒四温と言うには少し早いが、やがて、こうして春が近づいてくる。寒さもあと二か月の辛抱だろう。

 しばらく留守にしていたので家の中の温度計は5度と低く、寒い。さっそくストーブに火を入れ、体を温めるために風呂を沸かした。湯に浸かると、足の先がジンジンと痺れた。風呂場の空気は冷え冷えとしているので、顎まで浸かった。

 居候していた娘のマンションの風呂に入ったが、山小屋の風呂と違って湯船は倍ほどあるし、天井からは熱い空気が送り込まれて来る。ボタン一つでサウナにもなる。感心したり、驚いたりだった。風呂好き日本人に喜ばれる最新の風呂かもしれないが、古い人間の私にとっては、どうも落ち着かない。

 震えながら下着を脱ぎ、湯船にどっぷりと沈み込む。湯と空気の温度差が大きいので、もうもうと湯気が立ち上る。湯船が小さくても、この湯気がいいのだ。温風が降り注ぐ最新の風呂は湯気など立たないので、風呂の風情は今一つである。

 何年も前から山小屋の裏に露天風呂を作ろうと思い続けている。女房や子どもたちからも「早く作ってよ」と尻を叩かれているが、なかなか踏み切れない。風呂を作るようなノウハウを持ち合わせてないし、かなりの作業になるので億劫だ。

 温泉地のような石組みの露天風呂は大仕事だが、五右衛門風呂なら作れそうだ。ネットで調べてみると、様々な釜が売られている。五右衛門ファンが結構いるみたいだ。ただ、値段が高いので、知人に頼んで中古の釜を探している。

 釜を置く基礎を作り、その周りに耐熱煉瓦積み上げれば出来上がりだ。燃料の薪ならいくらでもあるし、水もタダ同然である。梢で遊ぶ野鳥や森の緑を眺めながらゆっくりと五右衛門風呂に浸かるのは、さぞ楽しいだろう。

 田舎の生家の風呂は、長い間、五右衛門だった。風呂を沸かすのは子どもの仕事で、薪をくべるのは面白かった。沸かしたての風呂は、湯船の鉄が熱く、体に触れないようにしなければならない。その上、体のバランスを崩すと底板が浮き上がってきて、おでこを打つようなこともあった。

 ああ、懐かしい。このように書いていると、五右衛門作りに走り出したい気分だ。しかし冷静に考えてみると、脱衣場は必要だし、女房のヌードを遮る囲いも作ってやらねばならぬだろう。そう思うとまた億劫になってくる。さて、今年中に五右衛門を楽しむことが出来るだろうか・・・。

ウツボは珍味、コラーゲンいっぱい

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  あのグロテスクで、気味悪い海のギャング「ウツボ」が、わが家の食卓に載った。なかなかの珍味だったのでウツボについて書こうと思うが、ウツボと言えば20数年前の交通事故をどうしても思い出してしまう。 

 夜10時ごろ、乗用車で京都と滋賀を結ぶダム沿いの国道を滋賀の自宅に向かっていた。急カーブにさしかかった時、対向車がセンターラインを越え、反対車線に飛び出してきたのだ。正面衝突。その後の事はよく覚えていない。

 救急車に乗せられ、宇治市内の病院に運ばれた。シートベルトをしていたので、大事には至らなかったが、私の車は大破し、修理不能になっていた。後でわかったのだが、BMWに乗っていた相手は飲酒運転で、覚せい剤使用の常習者だった。新車を弁償してくれたので、滅茶苦茶悪い男ではなかったが・・・。

 実は、和歌山の新宮市へウツボ料理を食べに行った帰りの事故だった。ウツボの特集記事を書くアルバイトだったのだが、事故で頭を強く打ち、その衝撃のためか、折角取材したウツボについての記憶がところどころ飛んでしまい、記事を書くのに困った。今振り返ってもどのような料理を食べたのか、味はどうだったのか、どうしても思い出せない。

 それ以来、ウツボを口にしたことはなかった。ところが先日、親しくしている農機具店のご夫婦が私たちの山小屋へ遊びに来られ、「これ食べるか?」と手渡されたのがウツボの切り身だった。ずっしりと重く、結構の量だった。

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 奥さんの実家は南紀で漁師をしていたそうで、今は弟さんが趣味で魚を獲っているという。このウツボも弟さんから届けられたもので、そのおすそ分けにあずかったのだ。

 私は若いころ、石鯛釣りに血道を上げていた。たまに、サザエの餌にウツボが食いつき、黄色と黒のまだら模様をくねらせて上がってくる。鋭い歯を持つ口を広げてのたうち回る姿は、不気味で寒気がした。かまれたら大変なので、仕掛けを途中で切って海へ消えてもらった。

 それが今、目の前にある。交通事故の悪い思い出もあるし、切り身も気味悪いまだら模様が鮮やかで、食指が動かない。しかし、ご夫婦の好意をないがしろにする訳にもいかない。女房が唐揚げと甘酢仕立ての二種類を作り、食卓に載せてくれた。

 恐る恐る口に運んだ。白身は鶏肉とフグを足して二で割ったような味。訳が分からない言い方だが、要するに淡白な味でおいしい。皮がこれまた珍味である。皮の内側にはたっぷりコラーゲンが張り付いている。少し硬いが、噛めば噛むほど味わいが広がる。

 女房はコラーゲンを喜んで噛んでいる。お肌ツルツルを期待しているのだろう。私は今更ツルツルになっても、毛の薄い頭がテカテカ光るだけで、迷惑である。けれど、高タンパク、低カロリーの良質の食べ物だ。それに、醜悪な魚体に似合わず、実においしい。

 先日も書いたが、人も食べ物も見てくれで判断してはいけない・・・。

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言葉が気に食わない・・・私の偏見?

  昨今の日本語の使われ方に、もやもやしたものを感じている。私の勝手な思いかもしれないが、どうしても生理的な拒否反応が起きてしまう。その理由をうまく説明出来ないのでもどかしいけれど、思いの一端を少し書いてみたい。

 先日、鳩山首相の施政方針演説で「命を守る予算」と言ったとたん、嫌な感じがした。まあ、その意味は分からない訳でない。深刻な失業社会、年3万人を超える自殺者数、医療や社会保険など高齢化社会の不安、環境問題・・・このような社会状況を「人の命」という観点から政治を改めるという意味だろう。

 その「命を守る」については後で書くとして、まず「勇気をもらう」「元気をもらう」という言い方が気に入らない。スポーツ選手の活躍や人の立派な行為、ほほえましい場面に接すると、「勇気をもらった」「元気をもらった」と感想を述べる人が多い。繰り返すが、聞いていると、イライラする。

 一体、「勇気をもらう」とはどういう意味なのか。自分も一歩踏み出す勇気をもらったということだろうが、その言い方に、包装紙にくるんだ贈り物をもらうようなニュアンスを感じる。勇気は他者からもらうものではなく、自身の内側から湧き出る決意ではないのかと思う。

 「元気をもらう」も同じだ。スポーツ選手の活躍によって自分が元気になるという単純な話ではなかろう。「私は元気を出す」なら分かる。けれど、元気をもらって元気になるなら苦労はいらないと、嫌味の一つも言いたくなる。

 勇気も元気も人様からもらうものではないし、もらったからといってどうにかなるような話でもなかろう。「人をつなぐ」とか「人に優しい」も同様で、なるほどもっともらしい言葉だが、どこかマシュマロのようにふわふわしている。耳障りはよいが、余り意味がある言葉とは思えない。

 これらは、どれも主体がはっきりしない。自分はこうしたい、こうするという意思が伝わって来ないのだ。「よし、私も勇気を出そしてやってみよう」という言い方ならよく分かる。自分という存在を主張しない言葉の使い方は、この時代を映し出していると言えなくもない。

 さて、「命を守る予算」である。まずもって、命を粗末にする政治なんかあるはずがないのに、あえて「命を守る」を強調したのは、新政権がいかに前政権と違うかを言いたかったのだと思う。「コンクリートから人へ」のスローガンを鳩山さんらしい甘い味付けをしたに違いない。

 民主党は、前々回の総選挙で小泉さんが叫んだ「郵政民営化」の5文字によって大惨敗し、そんなトラウマが尾を引いている。だから、「政権交代」「チェンジ」などのワンフレーズにこだわっているのは良く分かる。

 しかし、施政方針という重要演説で「命を守る予算」などと、情緒的、抽象的な言葉をもてあそんでもらっては困るのだ。命というものは自分が自分で守るのが基本であって、「命を守ってあげる」などと大見栄を切っていいのだろうか。命という生々しい問題について、政治が大風呂敷を広げていいのだろうか。

 「命を守る」という言い方は、「勇気をもらう」「元気をもらう」と同じように、背骨のないフニャフニャした言葉に思える。「郵政民営化」(私は反対)、「政権交代」は明確で、分かりやすい。政治はリアリズムだから、言葉もそうあるべきと思うのだが・・・。

     ↓ えーっ!朝起きたら銀世界
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