菅総理になり代わり、御礼・・・

 世界からこれほど多くの善意の手が差しのべられている国が、かつてあっただろうか。東日本を襲った巨大地震に対し、133の国と地域、39の国際機関から救援の申し出があるという。有難いことである。

 申し出の中には、恥ずかしながら世界地図のどのあたりにあるかを知らない小さな国もある。その国力に見合ったささやかな援助だとしても、善意と親切に涙がこぼれる。外務省ではすべてを受け入れる体勢が整わず、混乱も見受けられるという。一つも無駄にせず、礼を尽くして有難く頂戴すべきだろう。

 援助の広がりは、地震の規模と無関係ではないだろう。世界の人たちも想像を絶する被害に深く同情していてくれている。しかも、福島第一原子力発電所は危機的な状況が続いている。明日は我が身と見ている国もあるだろう。

 世界一の援助大国だった日本に対し、その恩を返したいという気持ちが働いているのかもしれない。極東の島国ニッポンは、世界の中でそれなりの存在感を示してきた証しでもあると思う。

 しかしそれ以上に、世界の目は被災地における「美しい日本人」をちゃんと見てくれているのではないだろうか。災害に乗じて略奪や暴動が起きることはなく、冷静に、我慢強く、礼儀正しく、理性的に振る舞う被災者の姿が感動を与えているに違いない。だから温かい支援が相次いでいるのだ、と思いたい。

 支援国の中に、北方四島を不法占拠しているロシア、尖閣諸島に触手を伸ばす中国も含まれている。救助隊や物資も国力にふさわしく大きなものだ。それはそれで感謝しなければならないだろう。

 ただし、言うべきことは言わせてもらう。震災後、ロシア戦闘機が二度にわたって日本領空の近くに接近し、航空自衛隊機がスクランブル発進した。中国は東シナ海にミサイル駆逐艦数隻を出動させ、日本をけん制している。

 言い訳は何とでも言えるが、どう見ても両国の態度は紳士的とは言えまい。火事場泥棒、香典泥棒などと口汚く言いたくはないが、災害支援と軍の行動には落差があり過ぎる。ロシアや中国の支援は、国際社会に対するパフォーマンスなのかと、つい疑ってしまう。

 しかし、両国の善意は善意として信じたいと思う。軍部の行動はともかく、市井のひとり一人は温かい心、憐れむ心を持っているはずだ。

 被災地は復興する。それが3年後か、5年後か分からないが、見事に復興させることこそ、手を差し伸べてくれる国々への恩返しだと思っている。その暁には、援助してくれる国々の代表をすべて招き、復興の姿を見てもらおうではないか。沈黙している菅総理になり代わり、僭越ながら言わせてもらう・・・。
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菅総理、あんたは何をしているのか!

 東北、関東を襲った巨大地震から2週間余り経ったが、事態の深刻さは変わらず、ため息ばかりついている。遠くから惨状を眺めるだけで、忸怩たる思いが募る。鉛を飲み込んだように気分が重く、何をする気も起きない。

 しかし被災者の人たちは、気力を振り絞りその日その日を懸命に生きている。ある避難所では、久し振りに暖かい味噌汁が振る舞われた。60歳くらいの女性は、発泡スチロールのお椀からひと口すすると、「ああ、おいしい」と言って目頭を押さえた。この映像を目にして、またもらい泣きしてしまった。

 味噌汁はボランティアによるささやかな心遣いかもしれないが、疲れ切った被災者にとっては、心も温まる一椀なのだ。

 泣き崩れるご婦人を見て、「菅総理は何をしているのだ!」という怒りがむらむらと湧いてくる。一体、大震災以来、国民の前に何回姿を見せたのだろうか。一人オロオロしているのか、ただ引き籠っているのだろうか。国家の一大事というのに、指導者の姿が見えない。国民にとって何という不幸だろう。

 毎日とは言わないが、2、3日に1回はメッセージを伝えるべきだ。「私も全力を挙げています」などというつまらない言葉はいらない。今は、被災者の心を打つ言葉が必要なのだ。そして、将来に希望の灯をともさなければならない。

 菅総理の言葉には、人の心を震わせるような響きがない。政治家としての真心と、復興に向けた政治の力を示さなければならないのだ。野党時代の弁舌は激しかったが、総理になったとたん、輝きを失った。うつろな目は宙を漂い、言葉に力もない。国民を引っ張る資質、人徳がないことが良く分かった。

 何としても被災地東北を復興しなければならない。果たして菅総理の下で、復興が進むのだろうか。身内ばかりで周囲を固め、出身大学の学者ばかりを重用し、やたら新しい政府組織を作る。政策協議など何の根回しもせず、自民党の谷垣総裁に閣内に入るよう要請。断られると、「はい、そうですか」と言わんばかりに、それで終わりだ。

 すべての英知を集めなければ、新しい東北として蘇ることはないだろう。国家の浮沈にもかかわる。野党は「民主党を利する」などというケチなことを言っている場合ではないと思う。与野党を交えた「復興内閣」を一日も早く成立させるべきではないだろうか。もちろん、国民の信頼を失った菅総理は交代すべきだろう。

 復興には「大いなる想像力」が必要だ。東北の文化と伝統を守りながら、安心、安全で、活力ある地域作りをどう進めるかは、大胆、ドラスチックでなければならないだろう。それは、日本の将来の青写真にもなると思う。

 偉そうなことを書いたが、何の役にも立たず、想像力もない自分にまた落胆している・・・。

 

岩を砕いて咲く桜のように、日本は変われるか

 「南部の桜は岩を砕いて咲く」――。どんな本で読んだか忘れたが、岩手地方に受け継がれる人々の心意気を桜の花に例えている。「コブシの花のように、北に向かって咲け」という言葉もどこかで読んだ。

 東北の人たちは我慢強く、困難にも粘り強く立ち向かう。大震災の無残な光景を見るたびに、岩を砕いて咲く桜や北に向かって咲くコブシの花を、耐え忍ぶ被災者の姿に重ね合わせ、「挫けないで」と祈る日々である。
 
 先日、東京で暮らす旧友から電話をもらった。彼は、私のブログを丹念に読んでくれている一人である。「被災地に見る美しい日本人」の記事に「涙がこぼれた」という感想をもらった。そんな風に、たとえ一人でも同じ心が通じればうれしい。
 
 大手商社に勤めていた彼は現地駐在員として世界を飛び回り、世界をよく知る男である。「お前が書いたように、被災者の折り目正しさ、忍耐強さはすごいと思う。諸外国では絶対見られない」と言い、「この日本人の見事な姿は、これからの日本を変えるような予感がする」と話していた。

  「日本を変える」・・・。この言葉が私の心を揺さぶっている。

 今回の震災によっては福島原発が破壊された。津波は、世界に誇った高さ10メートルの防波堤を軽々と越えた。文明というものが、音を立てて崩れるように見えた。そしてその対極に、被災者の見せる礼儀正しさ、節度、忍耐といった気高い価値観が浮かび上がった。もちろん、温かい支援の輪の広がりも忘れてはいけない。

 戦後日本は驚異的な復興を遂げ、世界第二の経済大国になった。GDPでは中国に抜かれたものの、経済大国はゆるぎない。しかしその反面、教育が危うくなり、自然が壊され、自殺者が増え、向こう三軒両隣の共同体意識が薄れた。良き日本の姿がメルトダウンし続けている。

 日本はこのままでいいのか。そんな焦燥感に追い立てられている。国民が食べていくために経済が大切なことは言うまでもないが、日本が営々と培ってきた精神の復興はそれと同様に大切だと思う。困難に耐え、助け合い、強い意志で未来を拓こうとする東北の人々。その寡黙だが粘り強さに精神復興の手掛かりが見えて来るのだ。

 国家が世界から尊敬されるのは経済力でも政治力でもない。弱い人を助ける心、自然を慈しむ心、恥を知る節度、足るを知る心・・・数え上げればキリがないが、このような「徳」を備えた国こそが尊敬されると思う。

 硬い岩をこじ開けて咲く桜、冷たい北風に向かって咲く白いコブシ。そして、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩、藤沢周平が描く貧しくとも義に篤い東北武士の姿・・・。どれも精神復興のキーワードだ。苦境のこの時期に言うべきでないだろうが、未曾有の震災は「日本が変われるかどうか」を試そうとしていると、あえて言いたい・・・。

決死の放水・・・「暴力装置」の自衛隊

 仙石元官房長官が「暴力装置」と言い放った自衛隊は、今、福島第一原子力発電所で決死の放水作業を続けている。放射性物質に身をさらす隊員には親も家族もいるだろうが、それが国家と国民の生命財産を守る自衛隊の任務なのだ。「過酷」「かわいそう」などと言っては、余りにも情緒的だろう。

 未曾有の大震災に臨み、自衛隊員一人ひとりの士気は高く、危険な放水作業を志願する隊員も少なくないと言われる。政府高官から「暴力装置」と言われた当時は切ない思いだったろうが、今はひるむことなく原発の最前線に立っている。

 「仙石は自衛隊に謝れ」との声も多く聞かれる。しかし彼が本心から謝ることはないだろう。そもそも、自衛隊は違憲であるとの思想的立場なのだから、「暴力装置」は彼の信念なのだ。うわべだけの反省ははなはだ自衛隊に失礼だろう。それよりも、決死の自衛隊員の姿を瞼に焼き付けた方がいいのではないか。

 そんな仙石元官房長官が、官房副長官として官邸に入った。忙しい枝野長官をサポートし、省庁間の調整に当たるという。参院で問責決議を受け、長官を更迭されたばかりである。それがなぜ、官邸入りなのか。民主党には他に人材がいないのか。指導力のなさを批判されている菅総理の打つ手は、またも分からない。

 現地に投入された10万といわれる自衛隊員は、この人事をどう思っているだろう。いや、彼らにそんな余裕などなく、任務遂行に全力を注いでいるに違いない。自衛隊にひどいことを言った人物を震災対策の中枢に据える・・・。自衛隊の最高指揮官でもある菅総理の配慮のなさ、無神経ぶりに唖然とさせられる。

 官邸入りと言えば、元社民党の辻元議員を首相補佐官としてボランティア活動を仕切らせるという。社民党が政権離脱した時、「もっと仕事がしたかった」と涙を流した彼女である。ピースボート出身の経歴を買われ、再び活躍の場を与えられたのだから、さぞや喜んでいるだろう。

 彼女のその思いは挫くたくはないし、しっかりやってもらいたいと思う。ただ、仙石副長官と同様、菅総理はなぜまた元社会党の人材を重用するのか。社会主義、社民主義に親近感を持っているのか、そこのところが分からない。今は与党だの野党だのと言っている場合ではなく、ここは大局に立ち、野党からの人材も登用すればいいと思うが、どうだろう。

 このような大災害の時は混乱もあるだろう。政府に批判が向かうこともよくあることだ。ただ「暴力装置」などと言ってはばからない人物をまたも重用して、命を張っている自衛隊員の心を逆なでする人事をしているようでは、政府への批判、不信が増幅するばかりではないか・・・。
  


「私について来い」と言ってもらいたい・・・震災の指揮官

 「被災地に見る美しい日本人」--とのタイトルで、大震災の記事を書いた。すると、すぐに信州発のブログ「心何処」のアガタ・リョウさんからコメントが届いた。いま、大震災について書かなくてどうするのだ、という内容だった。

 それは有難い叱責であり、叱咤であった。ハッとして身が引き締まった。未曾有の巨大地震を前にたじろぐばかりで、ブログも当分書くまいと思っていたが、アガタ・リョウさんに背中を押され、少しずつでも書いてみようという気になり始めた。

 私は、何の役にも立たない老いぼれである。いくばくかの義援金をひねり出し、外出を控え、節電に努めるくらいしかなす術がない。テレビ映像を見ていても、無力感に押しつぶされそうになるだけだ。ブログに思いをぶつけることで、自分の中で被災地の人たちとの距離が少しでも縮まるのではないか。切ない願いだが、それくらいしか思い浮かばない。

  さて、一にも二にも三にも、不幸は震災被害者に降りかかっているが、誤解を恐れずに言えば、もう一つの不幸は、日本のリーダーに菅総理を戴いたことではないか。批判するのは簡単だと分かっている。背後から矢を射るようなこともしたくない。しかし彼は最高責任者であり、様々な声を甘受しなければならない立場だろう。

 「私がすべての責任を取る」「国難を乗り越えるため、私についてきてもらいたい」・・・。

 総理の第一声は、こうあるべきではないか。被害者も国民も、総理の覚悟と胆力に期待しているのだ。「全力で対応しています」「国民の協力をお願いします」などと繰り返すばかりでは、情けない。

 国民を一つにまとめ、国難を打開して行く総理の指導力こそ、今最も求められているのではないか。まずは、そのグランドデザインを示すべきだ。例えば、マニフェストで約束した諸々の予算を凍結し、「被害対策と復興に20兆円を投じる」と言えばいい。大風呂敷は無責任だが、必要な資金額について躊躇なく具体的に言及すべきだろう。

 震災の2日目、総理は福島原発へ飛んだ。迎える原発側はさぞや迷惑だったろう。猫の手も借りたい中で、総理の移動、視察に人手もかかったはずだ。スタンドプレー、パフォーマンスはいい加減にしてもらいたい。原発に自ら行くことで国民に安心感を与えようと目論んだのだろうが、その後の原発の経過を見れば、軽はずみもこれ極まれりである。

 「イラ菅」の異名通り、いつもイライラしているらしい。原発の現状について東京電力から思うような情報が入って来ないため、東電幹部を叱りつけているという新聞報道もあった。将たる者、どっしりしていなければ兵は浮き足立ってしまう。ああだ、こうだは官房長官や閣僚、官僚に任せておけばいいのだ。

 この国難の時こそ、政治の力量が試されるのだ。その総理の発信力に、被害者も、国民も、世界の目も注目している。演説したら記者の質問を振り払うように、そそくさと壇上から下りてしまう。失言したくないと思うのか、度量が小さい。

 困難を切り拓く揺るぎない覚悟と指導者としての威厳・・・。菅総理には、そんな姿を見せてほしい。今からでもいい。

被災地に見る「美しい日本人」

 東北関東を襲った巨大地震--。惨状を前に、同情の言葉など幾万回並べても陳腐である。静かに、息をひそめて、ただ祈るしかない。しばらく、ブログを書くのもやめようと思い、パソコンは閉じたままにしていた。

 しかし、被災地における「美しい日本人」の姿を目の当たりにして、ブログを読んで下さる皆さんと思いを共有したいと考え、書くことにした。

 生き延びた人々の節度、折り目正しさ、我慢強さ・・・。何と見事な姿だろう。肉親を失い、さぞ悔しかろう。空腹、寒さは辛かろう。明かりの見えない将来への不安はいかばかりか。しかし避難場所で、言葉を荒げる人など見かけない。テレビの取材には「有難う」と言って応えている。こうした映像を見る度に、熱いものが込み上げて来る。

 ある新聞コラムにこんなことが書いてあった。阪神淡路大震災の時、アメリカの記者から「なぜ日本では略奪や暴動が起こらないのか」との質問を受けたという。適当な言葉は思い浮かばず、結局「それは日本人だから」と答えるしかなかったという。

 そう、私も「日本人だから」だと思う。自然災害に直面した時、日本人の多くは物静かに耐えている。興奮したり、無理難題を口にすることもない。地震や台風などの自然災害に対し、日本人は「仕方ない」という諦念を持ち続けている。

 西洋文明は、自然を支配することで発達を遂げてきた。しかし日本では、自然との関係を対立としてではなく、人間も自然の一部として考えている。だから日本人の底流に、人との和、潔さ、我慢強さなどといった精神文化を培ってきた。

 外国の人たちは、日本を「異文化の国」として皮肉を込めて言った時期があった。しかし今では、日本の美徳、美意識にある種の畏敬の念をもって眺めていると思う。次の新聞記事がそれを裏付けている。

 英紙ザ・タイムズは「泣き叫ぶ声もヒステリーも怒りもない。日本人は黙って威厳を持ち、なすべきことをしている」と最大の賛辞を送っている。インデペンデント紙は日本語で「がんばれ日本、がんばれ東北」と励まし、デイリー・ミラー紙も日本語で「日本、みなさんは一人じゃない」と書き、「日本は復活する」としている。

 米紙ロサンゼルス・タイムズは「非の打ち所のないマナーは、まったく損なわれていない」との見出しを掲げた。お隣韓国の各紙も、異例の日本語で哀悼の意を表している。これらはほんの一部の報道で、世界の多くの国が大地震に耐える驚異的な日本人に敬意を持っているのだ。

 これらの記事を読んで、涙もろくなった瞼にまた涙が滲んだ。いつの日か、被災地に希望の火が灯るのを祈りたい・・・。

巨大地震・・・静かに祈る

 巨大地震による大津波・・・。テレビから流れる目を覆うような映像、ラジオが報じる死者や行方不明者のおびただしい数。すべて夢を見ているような感覚に陥っている。この残酷な現実を認めたくない思いが、そうさせているのだろう。

 惨状を前に、ブログで1万字、10万字を連ねても何の意味もない。同情の言葉など陳腐であり、愚かなことだとも思う。

 これは、国家と国力の総力を上げる闘いだ。災害対策、復興には、気の遠くなるような時間と資金が必要だろう。論議が多い子供手当ても高校無償化も凍結すべきだ。これら数兆円に上る予算のすべてを被災地に投入しなければならないだろう。

 今こそ、政治の力量が問われている。

 無力な私には、祈りしかなす術がない。静かにして、その行方を見守ろうと思う・・・。

「武士の情け」を欠く政治状況

  昨今の政治状況について私なりに思うところがあるので、それについて書こうと思うが、その前にまずはこの物語を紹介してみたい。これは新渡戸稲造の「武士道」に引用されている。

 時は12世紀末の源平合戦。その須磨の激戦で、平家追討に武功を上げた熊谷次郎直実は一人の敵に追いついた。兜をはぎ取ると、現れたのは髭も生えそろわない少年だった。この屈強の武者は「若殿よ、母のもとに落ちよ。わが刀を血で染める訳にはいかぬ。早く逃げのびたまえ」と言った。

 しかし少年は立ち去ることを拒否し、「二人の名誉のために、この場でおのが首を斬ってくれ」と求めた。直実はいたいけな命を奪う事が出来ず、何度も逃げるよう説得した。だが少年は「首をとれ」と言うばかりだった。そのうち味方の軍勢が押し寄せ、「もはやこれまで」と念仏を唱えながら刀を打ち下ろした。

 直実は戦が終わり凱旋したが、報償や功名に心を傾けることなく仏門に入った。以後、念仏行脚を続けたという。

 この話が実話かどうかは定かでないが、弱い者、劣った者、敗れた者への「仁」こそ武士の真髄として須磨の激戦の一幕を紹介しているのだ。「武士道」の本に貫かれているのは「惻隠の情」「憐憫の情」であると、私は思う。つまり、強い者は優しく、愛ある者は勇敢であるという真理なのだ。

 なぜこんなことを書くかと言えば、先日のNHK「ニュース9」の大越キャスターが、菅総理をはじめとした民主党政権に欠けているのは「武士の情け」であると述べたからだ。大越キャスターといえば東大野球部で活躍した硬骨漢だが、さすがうまいことを言うなあと感心し、思わず膝を打った。

 つまり、民主党の面々は野党を刺激し続けてばかりいるので、野党は前原前外相の違法献金問題で首を取りにくる。「武士の情け」をわきまえて政権運営していたら、ここまで追い込まれることはなかったと解説するのだ。彼は多分、「武士道」を精読していて「武士の情け」を持ち出したのだと思う。

 菅総理は「熟議」と言いながら、予算案への反対は「歴史への反逆」とまで言い切った。枝野官房長官も野党を挑発するような理屈をまくし立てている。稚拙といえばそれまでだが、その奥に政権交代という驕りの影がちらついている。武士道は古来、人間の驕りをもっとも戒めているのだ。敗れた者を慈しみ、驕れる者をくじき、平和の道に立て--孔子だか孟子だかがそうも言っている。

 私の若いころの上司は酒に酔うと、「なあお前、人間を追い詰めてはいけない。必ず逃げ道を開けておいてやれ」と言うのが口癖だった。耳にタコが出来るほど聞いた人生訓は今も懐かしく思い出し、背筋をのばしてみる。「武士の一分」「泥棒にも三分の理」・・・。これらに耳を傾ける度量は、「武士の情け」にも通じるだろう。

 特権階級だからこそ、武士は厳しい規範と徳を求められてきた。人の上に立つ政治家とて同じだ。武士は雨が降っても走らない、蓄財しない、背を向けて逃げない、外出の時は死を覚悟する・・・と心得は色々あるが、政治家たちにとって耳に痛いことばかりだろう。

 与野党が激突する中で、理のない妥協は政治を歪めかねない。しかしそこは人間同士のぶつかり合い、情の機微を通じ合えば殺伐とした状況は生まれないだろう。「武士の情け」は、この日本が生み出した「和」の精神文化だと思うが、どうだろう・・・。

前原外相の辞任は美し過ぎないか?

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  昨夜は山小屋の屋根を打ちつける大きな雨音で、時々目が覚めた。朝5時過ぎ、寝床を抜け出して薪ストーブに薪を追加し、再び布団にもぐり込んだ。それからまた1時間半ほど眠りこけた。女房が友人と旅行に行っているので、何時に起きようが、何をしようが、気楽なものである。

 ストーブの前で背中を丸め、入れたてのコーヒーを飲んだ。外が明るくなり、そろそろヤマガラに餌をやる時間だ。居間のカーテンを開けると、何と一面真っ白である。昨夜の激しい雨が雪になったようだ。きのう6日は虫が這い出す「啓蟄」だったが、虫たちはこの雪にびっくりして土中に戻ったに違いない。

 テレビのスイッチを入れると、前原外務大臣の辞任を伝えている。外国人から献金を受けるのは政治資金規制法で禁じられており、しかもご本人は国益の最前線にいる外務大臣だから、献金が少額であれ、法律の趣旨に照らしても、遅かれ早かれ辞任しなければならなかっただろう。

 この辞任劇・・・。自民党などの野党は「ありゃー」と思っているかもしれない。国会でもっと追い詰め、その挙句に外相の首を取る。こんな算段ではなかったろうか。その点、前原さんは計算高く、機先を制した。

 野中広務前衆議院は「潔い決断だ」というコメントを新聞に寄せているそうだ。テレビがそう言っていた。野中さんはかつて自民党の実力者だったが、得体が知れないというか、正体不明のところがあって、発言は良く分からないことが多い。「潔い」のコメントにも違和感を持った。

 前原外相の辞任は、果たして潔いのか。潔さは日本人の美徳の一つであるが、前原辞任はどうも美し過ぎて素直に受け取れないのだ。菅内閣はもうボロボロであり、泥船から逃げ出すネズミなのか、次の総理を目指すために潔さを印象付ける狙いなのか。はたまた、これよりもっと深刻な問題が隠されているのか。

 もはや、辞任の背景を詮索しても無力感が残るだけだ。日本の政治はどうにもならい所に来ている。民主党内での反乱。予算関連法案が通らない。厚生労働大臣の問題発言。そして前原辞任。総理の任命責任も問われよう。

 内閣が総辞職しても、この日本の事態は変わらないだろう。衆院を解散し、政界の再編につながる旗を掲げて民意を問うてはどうか。与党も野党も目先の混迷に右往左往していては日本を滅ぼす。国家像をめぐる理念と理念をぶつけ合い、日本の将来を探る時期が来ていると思うが、どうだろう。

 気の毒なのは、献金していた焼き肉屋のおばさんである。善意でしたことが、思わぬ事件に巻き込まれうなだれている。要するに、政治が混乱するとこのような問題が噴き出てくる・・・。

予備校生だけを責められるか?

  携帯電話を使った大学入試の不正事件は、テレビや新聞が連日大きく取り上げている。きのう、19歳の予備校生が偽計業務妨害の疑いで京都府警に逮捕された。今日の各紙朝刊はこの逮捕を1面トップで伝えている。

 携帯電話とネットを使った手品のような事件だった。高度情報社会を象徴するような事件でもある。マスコミがこぞって大きく扱うのは、そのような背景があるからだろう。

 しかし誤解を恐れずに言えば、マスコミの一連の大騒ぎは行き過ぎだと思うし、予備校生に対しては切ない思いがしてならない。彼の生い立ちや学力をくどくど報道し、寄ってたかって袋叩きをしているようにしか見えないのだ。とくにテレビはひどい。沢尻エリカの芸能ニュースとどこがどう違うのか。報道の節度が感じられない。

 予備校生の犯罪容疑は、偽計をもって大学の入試業務を妨害したというものだ。公平であるべき入試制度を揺るがしたことは事実だが、人を殺したり、家に火を付けたり、振り込め詐欺でお年寄りを騙したりする悪質犯罪と本質的に違うのではないかと思う。

 卑近な例ではあるが、鍵を掛け忘れて外出しているうち、空き巣に入られた。泥棒が悪いのは当たり前だが、鍵を掛け忘れていては、どうぞ空き巣に入って下さいというようなものだ。今回の問題は、それに似ている。

 つまり、携帯やインターネットが普及した今、このような新しいカンニングが予測できなかった訳はなかろう。大学側に明確ではないにしても、おぼろげな危惧があったはずである。きつい言い方をすれば、無防備過ぎたと言えるだろう。あらかじめきちんとした対応をしておれば、予備校生の誘惑を招くことはなかっただろう。

 真面目に勉強している受験生にとって受け入れ難い事件でもある。そこまでして京都大学に合格したいのか。学力にふさわしい大学でいいのではないか。そのような意見があることはもっともなことだ。

 ただ、予備校生の肩を持つ訳ではないが、彼は相当追い込まれていたのだと思う。ヤフー知恵袋の投稿や携帯電話の契約者を調べれば、犯人に辿り着くのは難しいことではない。そんなことは、彼だってよく分かっていたはずである。それなのにカンニングに及んだのは、平常の精神状態ではなかったのだろう。

 彼はまだ若い。逮捕されて反省もしている。これから刑事的、社会的な制裁を受けるのだ。彼の事はもういいではないか。大学が再発防止を本気でやればいい。予備校生に甘いだろうか・・・。

アカデミー賞「英国王のスピーチ」を観て・・・

  アカデミー賞の作品賞など4部門で受賞した「英国王のスピーチ」を女房と観に行った。山奥で暮らしていると、なかなか映画を観る機会がない。一番近い和歌山市内のシネコンまで車で1時間半もかかるのだ。昨日、山を下りる用事があったので、ついでにシネコンまで足を伸ばしたという訳である。

 この映画は、淡々とストーリーが展開していく落ち着いた作品だった。エリザベス女王の父ジョージ6世は、言語障害の悩みを抱え、うまく演説が出来ない。吃音、つまりどもってしまうのだ。国王が頼った矯正の専門家は、役者崩れでドクターの資格もない頑固者だった。

 この専門家は、障害を乗り越えるため国王に対等の関係を求め、時に無礼な言葉も投げつけ、信頼関係を築いていく。そしてヒットラーとの戦いを英国民に呼びかけるラジオ演説の日を迎えた。マイクの前に立つ国王は不安のうちに話し始めるのだが、次第に雄弁になり長文の演説を語り終えた。

 「この戦争を受けて立つ。国民は団結して立ち向かおう」という国王の言葉が国民を奮い立たせ、これを機にドイツとの長い戦争に突入していく。歴史の節目には必ず人々の心を打つ重要演説があり、これもその一つに数えられるだろう。

 有力候補を押さえて「英国王のスピーチ」がなぜアカデミー賞に選ばれたのか。私は、映画批評をするほど映画通ではないし、受賞理由や背景も見当がつかない。ただこの映画が、国や社会や人々を動かす「言葉」の持つ重みに光を当てたという点は間違いないと思う。

 そこで毎度のことだが、政治家の言葉に因縁をつけたくなる嫌なわが性格である。去年の6月だったか、鳩山さんが総理辞任の演説をした。これを聞いたジャーナリストの鳥越俊太郎は「名演説」と言って感極まっていたが、もはや鳩山演説はメッキが剥がれ、鳩山、鳥越のご両人、赤っ恥である。

 菅総理の言葉の軽さは、枚挙にいとまがない。所信表明演説で声を張り上げた「平成の開国」も軽過ぎる。環太平洋経済連携協定、つまりはTPPへの参加は、国の形、国あり方を問う重大問題だ。「6月までに参加するかどうか決める」と言っているが、「色々考えたが、やーめた」なんて言えるのだろうか。国会演説も覚悟を決めた事だけ言ってもらいたい。

 最近の菅総理のうつろな目を見ていると、少し可愛そうになってくるのでこれ以上言わない。ただ、強い言葉を語れば国民を惹きつけると思うのは間違いだ。言葉は、誠実、正直が一番よろしい・・・。

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