目は口ほどに物を言う

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 今、わが山小屋には、1匹の犬が居候している。名前は「ピー」と言い、シーズのオスである。3歳半だから、人間の年齢だと成人になったばかりだろう。関西に暮らしている娘の愛犬だが、時々こうして借りてきて可愛がっている。

 私たち夫婦によくなついていて、枕を並べて眠るのが日課である。居間に置いている回転式の座イスが私の席になっているのだが、ここで居眠りしたり、本を読んだりしていると、ピーは胸の上に飛び乗って来て私の目をじっと見つめるのだ。

 女房とはなるべく目を合わせないようにしているが、こうしてピーに見つめられると、心が和んでくる。目が大きいシーズの瞳には、人を癒す光がある。純真であり、無垢である。

 福島原発の放射能汚染で、牛が避難地区からトラックで運び出されるテレビ映像を見た。牛の黒く、大きな目が悲しげに見え、思わず目頭が熱くなった。荒涼とした地震の被災地をさまようペットの犬や猫の目を見た時も、同じように涙がこぼれた。

 動物たちの目に比べて、人間のそれはどうか・・・。髭を剃る時、鏡に映るわが目を見て落胆し、目をそむけたくなることが多い。若い頃は、女性たちから「何と涼やかな」と言われたものだが、今は濁っている。白内障ではないが、長く生きてきて、人生の垢のようなものが目にも絡みついているのだろう。

 目は口ほどに物を言う。目が笑っている。目が怒っている。目は心の窓。目は心の鏡・・・。人間の目については、様々な比喩表現があり、手と足の指を足してもあり余るほど思い付く。目を見れば人間が分かるとも言う。猜疑心に満ちている、凶暴な光がある、善良そうに見える、幸せ薄い、クセが強い・・・。

 とくに人間の女性は、目に関して欺瞞に満ちている。親からもらった目をプチ整形して二重瞼にする。付けまつ毛でパタパタと風を切る、目のぐるりを七色のアイシャドーで塗りつぶす。挙句の果ては、色のついたコンタクトレンズを入れて西洋人っぽく見せようとする馬鹿者もいる。

 まあ、悪態をつくのはこれくらいにしたいが、ついでに余計な事を一つ。菅総理の目は、苦境にあえぐ日本を一層暗くしているように思うが、どうだろう。彼の目には生気がない。目の奥には、権力欲という「黒い輝き」を見て取るのは私だけだろうか。どうか、生き生きとした目の光を取り戻してもらいたい。

 人間には百八つの煩悩があり、限りない欲望がある。それらが目の表情に表れるのだろうか・・・。
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高橋克彦さんが描く東北の心・・・

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 東日本巨大地震が起きる数日前、書店でたまたま手に取った文庫本が高橋克彦著「風の陣」だった。東北地方で平和に暮らしていた蝦夷と、黄金が眠る陸奥を支配しようとする奈良朝との暗闘を描いた物語である。小説の舞台は東北地方と奈良の都にまたがり、過酷な地震の被災地に思いを馳せながら読んだ。

 著者はこの続編を次々書いている。「風の陣」に続く第二部は、「火怨-北の耀星アテルイ」(上下巻)。第三部は「炎立つ-北の埋み火」(5巻)。第四部の「天を衝く-秀吉に喧嘩を売った男九戸政実」(三巻)で完結するのだが、これらをまとめて「東北四部作」と呼ぶにふさわしい壮大な歴史小説だ。

 先ごろ、全15冊をすべて読み終えた。時に涙し、年甲斐も泣く嗚咽もした。随所に独特のユーモアも散りばめられていて、ニヤリとさせらることもあった。著者は岩手県の生まれで、郷里に腰を据えて文筆活動を続けている。郷里への贔屓もあろうが、東北の「精神性」の高さが一貫して描かれていた。

 このほど世界遺産に登録されることになった平泉は、藤原清衡が築いた黄金の都であり、東北の楽土を目指すものだった。今、辛酸をなめている被災地の復旧と復興を願わずにいられないが、この四部作を読んで清衡が理想としたような平和な東北が、この地の人々の手で必ずや達成されるとの思いを強くした。

 出版元の回し者ではないが、興味のある人はぜひ四部作を読んでもらいたいと思う。物語はおおむね史実に沿っており、被災地の地名もふんだんに出て来る。本には地図も添えられているので参考になる。涙あり、笑いあり、人情あり・・・。とにかく面白いし、被災地の歴史もよく分かる。

 「風の陣」は、「立志篇」「大望篇」「天命篇」「風雲篇」「裂心篇」の五巻で構成されている。陸奥で金が発掘されると、これに目を付けた奈良朝は陸奥の支配に乗り出す。蝦夷の平和を守るため暗闘が繰り広げられるが、謀略渦巻く奈良朝の権力闘争や弓削道鏡の欲望も描かれていて、古代のサスペンスとしても楽しめる。

 第二部「火怨」は、蝦夷の若きリーダー・アテルイが熱い思いを胸に、東北を辺境の地と蔑み、そこに住む人々を俘囚と呼んで差別する朝廷の大軍に遊撃戦を挑む。敵将は征夷大将軍の坂上田村麻呂だ。アテルイや彼に従う多くの将たちは強大な権力の前に散って行ったが、蝦夷の心は後世に受け継がれる。

 それから百年の時を超え、第三部「炎立つ」では安倍一族と源氏が相まみえる宿命の戦いが始まる。いわゆる「前九年の役」である。結局安倍一族は滅びるが、その子孫が「後三年の役」を呼び起こす。この乱を治めた藤原清衡は、平泉に黄金の都を築いて栄華を誇った。しかし孫の秀衡の時代、源頼朝が陸奥に暗い影を落とす・・・。

 最後の第四部「天を衝く」は、勇猛かつ知将で知られる九戸政実が太閤秀吉を敵に回す痛快な物語だ。10万の秀吉軍に対し、居城の二戸城に5千の兵で立てこもり、敵を翻弄する。いかに秀吉が理不尽な男かを知らしめるための戦だった。最後は城を明け渡し、自らの首を差し出すのだが、多くの兵を密かに逃す策略が面白い。

 偶然手に取った本だったが、巨大地震の被災地とを重ね合わせながら、東北を舞台にした長編小説を読むことが出来た。武者の姿を通し、義に篤く、我慢強い陸奥に生きる人間像を描いている。今回の震災で、節度を失わなかった被災者の姿が世界から称賛されたが、この小説の描こうとしたものと通じているように思えた。誇らしい、日本人の心の原風景・・・。

満を持して・・・有田川の鮎釣り

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 気が付いてみれば、山小屋を囲む森は濃厚な緑色に彩られている。あちらこちらで、ササユリがピンと背筋を伸ばし、日に日に茎を伸ばしている。茎の先には大豆ほどの花芽がついており、6月に入れば、甘く、かぐわしい花を咲かせるだろう。

 このような季節を迎えると、若鮎が私を誘惑する。紀州有田川では例年5月26日が解禁日だったが、今年から5月1日に早めたのだ。この漁協の金儲け主義になびきたくないという思いで、これまで釣りをぐっと我慢してきた。

 川の水がぬるんでこその鮎釣りだと思う。鮎は1年しか生きられない年魚であり、遡上してきたばかりを釣り上げてはかわいそうだ。5月の初旬では、「若鮎」の季語にもふさわしくない。偉そうに言う訳ではないが、四季に恵まれた日本ならではの季節感を大切にしたい。

 いや、一般の釣り人は責められない。待ちに待った解禁となれば、何を差し置いても出かけたいのは人情だろう。入川料収入を多くしようと解禁日を早めた漁協がさもしいのだ。有田川漁協には、魚への慈しみの心、川を守ろうという姿勢が見られない。

 ひとくさり言わせてもらったが、いよいよ今年初めての鮎釣りだ。仕掛けをたくさん準備し、竿を磨いてこの日を待ち続けてきた。先日来の雨で有田川の水かさは高いが、何とか竿を出せるだろう。

 支流の五村川に入ったのは10時を過ぎていた。朝のうちは水温が低いので、これくらいがベストタイムだろう。見た目よりも流れは強く、苦戦が続く。やがて、泡立ちの中にオトリを沈めると、目印が走った。玉網でキャッチした鮎は、かわいそうなほど小さい。その後、4匹を追加したが、どれも小型ばかりだ。

 川を100メートルほど下り、別のポイントに移動した。川に木が垂れ下がっていて釣り難いが、いい型の鮎が潜んでいるはずだ。竿を水平に寝かせながらオトリを大石に誘導すると、一発で掛った。対岸に勢いよく走る。思っていた通りの中型だった。2匹目も同じようなサイズがすぐに来た。

 3匹目も掛ったが・・・。気を付けていたのに、糸が木の枝に絡んでしまった。魚が下流に走っているので、糸を枝から外そうと強めに引いたら、竿先が10センチほどポキッ。折角掛けた鮎は糸を引きずって下流に消えて行った。ああ、何というドジか。このポイントは、これがあるから厄介なのだ。

 たちまち戦意喪失。しばらく、河原に座り込んで川を睨んでいた。少し気持ちが鎮まってきたので、本流に転戦することにした。こちらの水量はさらに高く、腰まで水に浸かりながら不安定な姿勢で竿を出した。もちろん折れた竿は使えず、長さも足りないので今年買ったばかりの新品の筆下ろしである。

 オトリを引いていると、クッ、クッと目印が走った。掛った鮎は対岸に疾走、竿が伸びそうになる。耐えて竿を立てると、今度は下流に走られた。転びそうになりながら少しずつ川を下る。鮎が浮き、空中を飛ばして玉網でキャッチした。鮎はそれほど大きくはないが、水流がきついので引きが強く伝わって来るのだ。

 夢中になってスリリングな釣りを楽しんだ。これが鮎釣りの醍醐味である。急流に耐え、今年も元気で鮎釣りが出来た喜びが込み上げて来る。釣果は計18匹だった。多少不満ではあったが、シーズンは始まったばかりである。

 若鮎にふさわしく、滑らかな肌合いだ。胸の黄色の追い星が何と鮮やかなことか。真っ黒の背びれは垂れ下がるほど長く、顔はツンと細長い。まさしく天然遡上の海産鮎だ。

 久し振りに食べた塩焼きは、ほどよく脂が乗り、ほろ苦く、美味しかった。さあ、鮎釣りが始まった・・・。

漁船に乗って大アジに挑む

 紀伊水道の海上に、やや強めの風が吹いてきた。ボートが上下に揺れ、時折、波しぶきがかかるようになってきた。こんな状況では、釣りを続けても面白くない。昼前に、1キロほどのアオリイカを釣っているので、一応納得して帰港することにした。

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 漁港にボートを上げ、帰り支度をしていると、懇意にしている漁師が姿を現した。「今、大きなアジが釣れるよ。今日はアジが70匹、大サバが10匹ほど釣れた」と、ご機嫌である。

 「どれくらいの大きさや?」と聞くと、手を広げて「これくらいや」と言う。40センチ近いサイズである。作家の開高健氏は「釣り人から話を聞く時は、相手の両手を縛って聞け」と書いていた。つまり、釣り人の話はどんどん誇張されるという真理を突く名言である。失礼ながら、この漁師もこの傾向が強い。

 話が2割引きとしても、聞き捨てならない情報だ。私の目の輝きを見てか、「どうや、船に乗せてやるから明日一緒に行こうか?」というお誘いである。「朝4時半の出航」とは少々辛いが、どうせ金など取らないから、二つ返事で乗せてもらうことにした。

 翌日漁港に着くと、すでに漁船は出漁の準備をしていた。「あんたが船に乗るというので、ワシも一緒させてもらうことにしたわ」と、顔見知りの船釣りのベテランも同行することになった。人数が多ければ、アミエビの撒き餌が良くきくので魚が集まりやすい。40センチは大袈裟としても、それに近いアジが釣れるとあれば胸が高鳴る。

 紀伊水道のポイントには、数隻の漁船が集まっていた。東の空が真っ赤に染まり、大きな太陽が上がってきた。100号の鉄火面にアミエビを詰め、60メートル近い海底に落とし込む。大アジだから、当たりも大きいはずだ。人差し指に神経を集め、魚信を聞く。

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    ↓ 船釣りのベテラン
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 やがて、「グイッ」という当たりが伝わった。大きく合わせると、糸が激しく引き込まれた。しかし、糸を手繰る途中で軽くなった。「あっ、外れた!」・・・。再び同じような当たりが来た。強い引きを楽しみながら糸を手繰ったが、また外れた。

 こうなると平常心が失われる。漁師の釣り方を見に行くと、快調に釣り上げている。生け簀にはすでに5、6匹のアジが泳いでいた。当たりがあれば強く合わせず、糸をスーッと引いて、驚くほどゆっくり手繰っている。うーん、なるほどなあ・・・。

 同じような動作を真似て、当たりを優しく合わせる。今度はしっかりアジが掛ったようだ。強い引きに合わせて慎重に引き揚げる。海中に白い魚体が見えた。タモですくったアジは、漁師が言ったように40センチ近い大物だ。バタバタと暴れるアジを抑え付け、包丁で絞めてクーラーボックスへ。

 それからは余り失敗もなく、6匹釣った。この時期、私はボートを出してアジやイサギを釣っているが、いつものポイントは水深が約40メートルだ。しかしここは60メートルと深く、ダイレクトに引きが伝わって来ない。だから強引に対応し過ぎるうえ、アジのサイズがひと回り大きく、弱いことで知られる口が切れてしまうのだ。

 前半戦を終えて、漁師が釣りたてのアジをさばき、刺身を作ってくれた。これが実にうまい。ビールもうまい。

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 後半は当たりが小さくなり、難しい釣りとなったが、何とか5匹釣れた。併せて11匹。ベテランさんが12匹だから、遜色のない釣果である。しかし、漁師は軽く倍以上釣っているし、見事なマサバも生け簀に数匹泳いでいた。さすが生活のかかっている職業漁師は違う。「また、釣りに来いよ」と行ってくれた。次は一升瓶を差し入れよう・・・。

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老齢化する別荘地

 私たちが暮らしている山小屋の東隣に、築後35年ほどの別荘が建っている。かなり老朽化が進んでおり、早目に補修をした方がいいのになあと思って眺めていたが、ついに取り壊されることになった。

 解体工事は1週間ほど前から始まり、家の中の物が次々運び出された。家主さんが太っ腹なのか、まだ十分使える大型冷蔵庫やテレビ、家具、ワインなどすべてを廃棄すると言う。この様子をウッドデッキから眺めていて、「それ、貰えんかなあ」と言いかけたが、ぐっと我慢した。それにしてももったいない・・・。

 邪魔になる木を伐採して重機が上がってきた。屋根瓦をはがすと、重機が物凄い威力で壊し始める。わずか1日で瓦礫になってしまった。建築するのに時間はかかるが、解体はあっという間で終ってしまう。営々と築いてきた会社や人間の信用が、何かのつまづきで一気に瓦解するのと同じように、壊れるのは速い。

 私たちが山小屋を建てたのは17年前だ。当時、隣の家主さんは週末になると、息子さん、娘さん、お孫さんらとともにやって来て、大層にぎやかだった。しかし、5、6年前から、姿を見なくなった。もちろんまだ健在なのだが、高齢になってここ生石山に上がって来るのが辛くなったのだろうか。

 生石山の一角にこの別荘地が開発されたのは、高度成長期の真っ只中だった。多くの人が土地を投機目的で買ったので、総区画数の1割程度しか家が建っていない。開発当時に建てられた別荘は老朽化が進み、放置されているものも少なくない。他の古い別荘地は、どこも同じような状態と聞く。

 隣の家が解体される様子を見ていて、いずれわが山小屋も同じような運命を辿るのだろうと思いながら、少し切なくなった。手入れさえきちんとしていれば、あと20年やそこらは大丈夫だと思うが、その先が心配だ。息子や娘がこの土地を引き継ぎ、新たに家を建てて活用してもらいたいと願っているが、さて子供らにその気があるかどうか・・・。

 ここでの暮らしが気に入っているので、軒を接するようなせせこましい自宅には帰りたくない。しかし、もっと高齢になれば、山小屋への階段を登れなくなるだろう。その日が来れば、山を下りる決心をしなければならないだろう。健康を維持し、なるべく長く森の生活を続けたいと思っているのだが・・・。

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干しゼンマイを作る

 私の郷里では、法事や祝い事の席に出される惣菜の中に、必ずといっていいほど干しゼンマイがあった。少し苦くて、少し甘くて、しかしその歯ごたえには独特のものがあった。干しゼンマイは、田舎で暮らしていた少年の頃を思い出させてくれる懐かしい味である。

 雪深い山あいの郷里には、小さな食料品店が一軒あるだけだった。時折、北陸から汽車に乗ってやって来る行商のおばさんから、母親は干物や魚を買っていた。今のように多様な食品はなく、塩サバ、ニシン、焼きガレイなどがご馳走だった。

 そのような食糧事情だったので、干しゼンマイは貴重な保存食だったのだろう。しかし、山に自生しているゼンマイはワラビのように多く採れるものではなく、作るのにも結構な手間がかかる。だから特別の時にしか食べられなかったのだろう。郷里を出て都会に住むようになり、滅多に干しゼンマイを口にすることはなかった。

 あの味をもう一度という思いは、心のどこかに澱んでいた。ここ生石山の森に山小屋を建て、再び山菜に目が向くようになって17年になるが、そのころから干しゼンマイを作るようになった。農家のばあさんがむしろの上にへたり込み、ゼンマイを手でもむ仕草を思い出しながら、試行錯誤を繰り返した。

  今では、まずまずの干しゼンマイが作れるようになった。専門の農家が作ったものに比べれば劣るけれど、スーパーで売られている中国製よりもうんと美味しい。コンニャクと一緒に煮付けることにしているが、その素朴な山の幸の味わいは格別だ。

 そろそろ今年の分の干しゼンマイを作らなければならない。ゴールデンウイーが明けて山菜採りの人が少なくなったので、女房とともに近くの生石高原へゼンマイを採りに行った。太くて柔らかいものを探すのに苦労する。雄と雌があって、雌の方が美味しいとされるが、そんなことにこだわっていると多くは採れない。細いものも、雄も雌もごっちゃ混ぜである。

 とりあえず、2、3回は食べられる量を採った。綿を取り、柔らかい部分だけを摘み取る作業はなかなか面倒だが、干しゼンマイ作りは亭主の仕事と決めてかかっている女房は手伝ってくれない。野外で鳥たちのさえずりを聞きながら、黙々と作業に没頭するのどかな時間も悪くない。

 下ごしらえが終わったら、大きな鍋に湯を沸かす。煮立ってからゼンマイを入れ、しんなりするまで茹でる。湯を切ってストーブの灰をまぶして数十回揉みほぐす。水洗いしたあと天日干し。その間に何回も揉みほぐしておけば柔らかく仕上がる。2、3日すると、ゼンマイは真っ黒に干からびて完成だ。

 この干しゼンマイは、私を遠いふる里へ連れて行ってくれる・・・。

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アオリイカ・・・一進一退の攻防

 紀伊水道にボートを浮かべ、アオリイカの釣りを始めて40分ほどが過ぎている。さあ、そろそろ泳がせているアジにイカが食いつくぞ。そんな期待に胸を膨らませながら、竿先を見つめ続けた。

 やがて、「コン、コン、コン」とアジの動きを伝える竿先が、お辞儀したままピタリ止まった。すると、竿先がグイッと海中に引き込まれ、リールの糸が少しずつ出て行く。糸を派手に引き出すイカはそう大きくないが、このような糸の出方はどこか重量感がある。大型に違いない。腕時計を見ると午前7時45分だ。

 イカがアジを食べるのに夢中になり、警戒心が薄くなるのを待って寄せにかかるのが、この釣りのセオリーである。せっかちの私は、人より早目の2分くらいしか待たない。時計を見ながら待つ間は、胸が張り裂けそうになる。その間にも断続的に糸が出ている。止まってくれ! 走らないでくれ!・・・。

 いよいよ引き寄せの開始だ。竿を持ち上げ、リールをフリーにしたまま1秒1センチくらいの感覚で寄せる。それでもイカは抵抗を感じ、大量の水をジェット噴射しながら遠ざかって行く。少し寄せては、糸を引き出されるの繰り返しである。まさに一進一退の攻防だ。

 どれくらいの時間が経っただろうか。余り時間をかければ、イカがアジを食い尽して逃げてしまう。手をこまねいていても仕方がない。少し早いと思ったが、ヤエンという掛けバリを糸に装着して海中に送った。一か八かの勝負である。強引に寄せながらヤエンをイカまで送り込んで行く。

 竿に伝わる重量感、ジェット噴射の凄まじさからすると、かなりデカイはず。竿を寝かして強く引くと、竿が海中に持ち込まれた。うまくヤエンに掛ったようだ。「ジッー」という音を立て、リールのドラッグが激しく逆転する。こちらも必死だが、イカも死に物狂いだ。

 寄せては潜られ、潜られては寄せる。その繰り返しで竿を支える左腕は棒のようになってきた。手の付け根はコブラ返りの一歩手前。しかし、ここで慎重さを欠いては糸が切れるか、イカの身が切れるかだ。

 やがて10メートルほど前方でガバッと海面が割れ、イカの姿が見えた。デカイと思った瞬間、墨を噴射しながら海中に潜った。これを10回くらい繰り返し、やっとタモが届く所まで寄って来た。タモで掬おうとした瞬間、また潜られた。もう一度やり直しだが、イカが大きくてタモに入らないのだ。

 しかしヤエンは足の根元にガッチリ掛っているので、外れる心配はない。二度三度と試み、何とかタモに収めたが、三分の一ほどがタモの外にはみ出していた。見れば見るほど大きい。精根尽き果てて取り込んだこのイカは、港に帰って馴染みの漁師に計量してもらうと、重さは3・2キロ、胴長46センチだった。

 3キロオーバーはアオリイカを狙う釣り人の勲章である。それを手にした喜びは大きい。クーラーボックスに巨体を折り曲げて入れた。ゴルフボールほどもある緑色の目が私を見上げている。汚れのない美しい瞳だった。かわいそうなことをしてしまったなあ・・・。忸怩たる思いが込み上げてきた。

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浜岡原発・・・私が、私がの菅総理、

 「得意満面」--。昨夜、中部電力浜岡原発の全面停止について記者会見した菅総理は、そのような姿だった。「うーん、懲りもせずまたやりよった」というのが正直な感想だ。落ち目の菅総理が浮揚を図ったのではないか。そんな疑念を感じてしまうのは私だけではないだろう。

 原発専門家は、浜岡原発の危険を指摘している。だから政府が原発停止を要請するのは間違っていると思わない。しかし、「国民の安全と安心を考えて、私が決断した」という言辞が気に食わない。「私が決断した」を強調するのは、総理の指導力を誇示するような臭いがふんぷんと漂うのだ。

 菅総理が良いことをしても、良いことを言っても、国民がその裏を勘ぐってしまうことが少なくない。それほどに総理への信頼が揺らいでいるのだ。人間としての魅力も悲しいほどに感じられない。そんな総理を戴くことこそ、日本の不幸と言えば言い過ぎだろうか。

 いや、感情的な批判はほどほどにしておこう。それよりも、原発全面停止の総理の決断をどう見たらいいのかが大切なのだろう。私のような素人がとやかく言うことではないが、全国の原発立地の近隣住民、反原発派の人たちの間から、全面停止の声が渦巻くことになりはしないかと心配する声も聞かれる。

 ならば菅総理は、今後の日本のエネルギー政策を併せて語るべきではないかと思う。官民挙げて、世界に原発を売り込んでいる日本の成長戦略はどうなるのか。原発を推進しようとする世界に対し、どのようなメッセージになるのか。余計な心配までしてしまう。

 それにしても、菅総理には「私の決断」が多過ぎるのだ。参院選の時の消費税発言、自民党総裁への入閣要請、混乱する福島原発への視察・・・。どれもが唐突だった。政府や民主党の中でどれだけ論議が重ねられたのか見えない。身内のイエスマンばかりで何事も決めているのではないか。

 菅総理は少し前、「震災復興と原発に道筋がつけば、政治家として本望だ」と語った。この言葉に、彼の本質と正体がうかがえるのだ。震災からの立ち直りは国家として最大の課題であり、政治家の本望が叶おうが叶うまいが、そんな個人的な話ではない。ここにも、「私」が顔を出している。

 ライオン宰相・浜口雄幸は東京駅で銃撃された時、側近に「男子の本懐」と語ったという。城山三郎の同名の本に書かれていてよく覚えているが、政治家として獅子奮迅の働きをしたライオン宰相の「本懐」には、政治的使命を全うしてきた充足感と、潔さを感じることが出来るのだ。

 「私の決断」も「政治家としての本望」も、菅個人の「私」だけが前に出過ぎている。尊敬される歴史上の人物には「私心」がなかった。浜岡原発の正しい決断はそれとして、菅総理に「私心」を感じてしまうわが心が歪んでいるのか、彼の資質に問題があるのか・・・。

生石山に山菜の季節

 ここ生石山に、本格的な山菜の季節が巡って来た。高原には連休とあって、多くの人たちがレジ袋を手に訪れている。山菜には、冬の間に蓄積された体内の不純物を洗い流す効用があると聞く。旬を食べ、自然のサイクルに合わせて暮らして行く・・・。この季節を迎える度に、自然に抱かれるほのかな喜びを感じる。

 杉林に自生するコシアブラは、枝の先に小指ほどの芽を付けている。やや強い苦みが特徴だ。天麩羅にして食べると美味しい。先日山道で、レジ袋がはち切れそうなほどコシアブラを採ってきた人と出会った。話を聞くと、娘さんが経営する店で、コシアブラをピザに盛り付けて出しているそうだ。

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 山菜の女王と言えば、タラの芽だろうか。わが山小屋の敷地にも大きな木がある。芽を高バサミでちょん切り、天麩羅にして食べる。苦味はさほど強くなく、上品な味わいだ。私たちが暮らす森にもたくさん自生しているが、木の樹皮が糖尿病に効くとのことで、根元から伐られている。同じ伐るにしても、木が死なないようしてもらいたい。

 タラの芽が女王なら、山ウドは王様だろう。私たち夫婦は、ウドの大きな株がある秘密の場所をいくつも知っている。季節になると、人目を忍んで掘りに行く。地下の白い茎は絶品である。酢味噌和えが一番だと思うが、女房は料理をするのが邪魔くさいのか、他の山菜と一緒くたに天麩羅にしてしまう。

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 息子夫婦らに山菜を届けようと、秘密の場所に山ウドを採りに行った。その一帯を探したが、どこにも見当たらない。その代わり、あちこちに大きな穴が掘られている。冬の間にイノシシが根こそぎ食べてしまったらしい。

 生石山の中腹より上は県立自然公園で、鳥獣保護区にもなっている。このためイノシシが増え過ぎ、食べられるものなら何でも食べてしまう。昨年秋には自然薯が根こそぎ掘られてしまった。これまでこんなことはなかったので、イノシシの増え過ぎと食糧不足が重なっているのだろう。近年は、人間よりイノシシとの競争である。

 山小屋裏の畑に山ウドの株を移植しているので、われら夫婦が食べるには十分の量が採れる。しかし、今後もイノシシ被害が増えるようなら、もっと自家栽培するしかなさそうだ。

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 ワラビは、高原の場所によって姿形も味も随分違うので不思議でならない。普通売られているものは茎が薄紫色で、長さが30センチくらいだ。しかし、ある場所では茎が鮮やかな緑色で、太い。われらのお気に入りは、北斜面で採れるワラビで、茎が茶色で太くて短い。粘りも強く、柔らかい。

 あと1週間もすれば、山ブキも太くなるだろう。山椒粒と一緒に炊いた佃煮は、食欲を増す。これから6月初旬にかけて山菜づくしの食事となるが、余り食べ過ぎると年甲斐もなくニキビが出かねない・・・。

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