テレビCMにも登場・・・生石高原で山開き

 ここ紀伊山地の生石高原では、毎年4月29日に山開きが行われる。標高800mの高原では春の訪れが遅く、この時期になってようやく暖かくなり、草原を渡る風にも爽やかさが感じられるようになる。

 今年の山開きは晴天に恵まれ、多くの人たちが高原に上がってきた。駐車場には車が入り切らず、路上にもあふれるほどだった。和歌山ナンバーにまじり、大阪など関西方面のナンバーもかなり見られた。

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 わが山小屋から高原までは歩いて15分くらいで、昼過ぎに出かけてみた。シートを敷いて弁当を広げるグループが目立った。みんなのお目当ては、餅投げである。和歌山では、行事や祭りに餅投げは付きものなのだ。

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 その前に、県立海南高校美里分校の太鼓部による太鼓演奏が行われた。部員10人が打ち鳴らす太鼓が新緑の高原に響き渡り、初夏の空気を震わせた。太鼓部は、全国大会にも出場するほどの実力があるという。

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 餅投げは、絶叫、悲鳴、歓声が交錯する中で盛大に行われた。私たち夫婦は、先日行われた別の持ち投げ大会で大量ゲットしたので奪い合いに加わらず、高みの見物を決め込んだ。よく見ていると今回もやはり、最前列で座り込む熟女陣が一番たくさんの餅を拾っていた。彼女たちは地面にだけ目を向け、落ちてくる餅に覆いかぶさるのだ。

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 話は変わるが、山開きの前日、われら夫婦は早朝からワラビ採りに出かけた。すると、高原にある巨大な岩の上でテレビCMの撮影が行われていた。スタッフは40人もいる大掛かりなものである。

 CM撮影はライバル企業のこともあるので、秘密で行われるのだという。その趣旨はよく分かるので詳しいことは書かないが、出演しているのは山ガールである。彼女たちの背後に、生石高原から見える七重、八重の山並みが映し出されているはずだ。

 このCMは誰でも知っている有名企業のもので、しばらくすると全国で流れるという。CMを見て生石高原からの眺めの素晴らしさを知ってもらえるのは、ここに住む私たちとしても誇らしい。

 山ガールが出演するテレビCM。ご注目を・・・。

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黄砂の海、アオリイカが釣れた

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 ようやく、今年初めての釣りである。情けない話、年をとると何事につけ億劫になる。4月の声を聞けば釣りに出かけていたが、今年は寒くてその気になれなかった。例年より3週間遅れの釣行となったが、さて釣果のほどは・・・。

 行く先は由良湾である。軽トラにゴムボートを積み、暗いうちに出発した。産卵のため岸近くの藻場にやって来るアオリイカを狙う計画だ。秋イカのように数は出ないが、キロクラスの大物が期待できる。

 天気予報通り、暖かい朝だった。軽快なエンジン音を響かせ、沖に向かった。しばらく走ると東の空が明るくなったが、いつもとは様子が違う。黄砂である。朝日が黄色くぼやけ、見通しも良くない。

 20分ほど走り、小さな島に近い私の好きなポイントに到着した。生きたアジを付け、岸に向けて30mほど飛ばす。アジを自由に泳がせながら、アオリイカが捕食するのをひたすら待つ。

 釣りには、海中を想像してみる楽しみがある。魚が餌を食べる一部始終が見えれば、まことにつまらない遊びなのだ。当たりを待ちながら、あれこれ想像し、あれこれ釣りの工夫をする。そうしながら日がな一日を過ごす。釣れればうれしいが、釣れなくても「潮が悪かった」とあきらめる。まだ枯淡の域には達していないが、そんな日もあると思えるようになっている。

 朝の7時半ごろだった。リールが音を立て、糸が出て行った。間違いなく、アオリイカがアジを食った。3分ほど待って、竿先で様子を聞いてみると、ギューンとイカが走った。重量感があり、かなりの大物だろう。

 一進一退を繰り返し、そこそこ寄って来た。掛け針のヤエンを糸に装着し、海中に送っていく。しばらくやり取りしていると、まったく糸を巻けなくなった。何かに引っ掛かったらしい。強引にリールを巻くと、大きな海草の房がヤエンに引っ掛かって上がってきた。もちろんイカはアジを放してしまっている。数少ないチャンスを逃してしまった。

 しかし1時間半後、再びチャンスが巡ってきた。同じような当たりがあり、ジリッ、ジリッという音を立て、リールから糸が出て行く。先ほどは海底近くでイカを掛けたため、ヤエンに海草がからまったのだろう。イカを浮かせなければならない。

 ヤエンに掛かる距離までイカが寄って来た。軽く合わせを入れると、竿先が海中に突き刺さった。うまく掛かったようだ。イカが強く引けば竿でいなし、引きが弱くなればリールを巻く。これを何回も繰り返し、やっと姿を見せた。大きい!墨を吐いて潜ろうとする。あと一息だ。

 玉網ですくおうとしたが、網からはみ出てしまい、また潜られた。針はがっちり掛かっているので、慎重にやり直す。今度はうまく入った。玉網の中で横たわる黄色の巨体に、しばし見入った。後で漁師に計ってもらったら、2・5キロあった。

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 幸運はこれで終わらない。正午前には1キロのイカも釣れた。今年最初の釣りで、良型2杯の釣果である。満足感、いや達成感と言った方がいいかもしれない。餌のアジは残っていたが、もうイカを釣る気はなくなった。午後はガシラを相手に遊び、そこそこ釣れたのを潮時に納竿した。

 うん、いい釣りだった・・・。

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ワラビが採れて、本物の春が・・・

 きのうの午後、日課の散歩に出かけた。いつもは生石高原を歩くのだが、途中で行き先を変更し、高原の南側の道を下ってみた。そろそろあの場所で、ワラビが出ているのではないか。そんな期待を抱いた訳である。

 今年は4月になっても寒い日が多く、度々、雪も降った。例年だと、今頃は生石高原でもワラビの走りが採れるが、今年はさっぱりである。山菜だけでなく、季節は1週間以上は遅れているように思う。

 さて、ワラビが採れそうな、あの場所に向かった。ウグイスが盛んにさえずり、枯れたススキの穂を揺らして小鳥が飛び立って行く。ようやく春を感じさせる陽気である。山小屋から2キロほど下って目的地に着いた。

 やや急な草の斜面である。南側に面していて、日当たりが良い。滑るので、草をつかんでよじ登る。目を凝らしてみるがワラビは出ていない。いや、これは毎年のことで、ワラビに目が慣れないうちはなかなか見つけられないものなのだ。

 しばらくすると、緑色の茎が長く伸びた立派なワラビが見つかった。目が慣れたので、ぼちぼち採れるようになった。シーズンが始まったばかりなので量は少なく、半時間ほどで一握り採れただけだった。しかし、夫婦で食べるには十分である。

 帰りの上り坂を歩いていると、散歩中の女房が向こうからやって来た。ワラビを見せると、「やっと出たんだわねぇ」と、うれしそうにしていた。 家に帰るとさっそくストーブの灰を振りかけ、熱湯を注いで灰汁抜きをした。女房が卵とじを作ってくれ、晩の食卓に載った。独特の粘りと風味がこたえられない。山の中に暮らす贅沢かもしれない。

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 ワラビが採れ、やっと生石山にも本物の春が来たのだ。朝晩は薪ストーブの世話になっているが、それでも日中はセーターを着ないで済む。山桜は五分咲きくらいで、数日で満開になるだろう。山小屋の斜面に植えてあるラッパ水仙は見事な黄色で、道行く人が足を止めて見てくれる。生石山の森に多いエゴノキにも小さな新芽が出てきた。

 女房の畑を見て戻る途中、ふと足元を見ると、笹ユリの芽が出ていた。周囲を良く見ると、早くも10ほど出ていた。あぁ、もうそんな季節なのだ。うれしくなった・・・。

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会津への旅(3)

 会津の市中を歩くと、歴史的な建物が意外と少ないことに気が付く。戊辰戦争はすさまじく、なだれ込んできた新政府軍によって焼かれ、壊されてしまったのだ。有為な人材や若い命も失われ、そうした墓石ばかりが目立つ。

 砲弾を浴びた鶴ケ城は取り壊され、今の優美な城は復元された建物である。一族21人が自刃した家老西郷頼母邸があった場所には石碑が建っているだけだ。藩校日新館は全国有数の師弟教育の場だったが、これも天文台の石の土台を残すのみである。

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 戊辰戦争で会津藩の敗色が濃くなると、江戸あたりの道具商や、たちの良くない男たちが姿を現した。戦火に追われる商家などから家具や漆器を買い叩くためにやって来たのだ。こうして、会津伝統の価値ある工芸品が散逸してしまった。

 再現された西郷頼母の武家屋敷があると聞き、行ってみた。建物の一角にある史料室で、思いがけない戊辰戦争の「遺物」を目にすることになり、驚いた。それは、味付け海苔ほどの大きさの赤い布切れである。

 紛れもなく、「泣血氈(きゅうけつせん)」だった・・・。

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 JR会津若松駅から甲賀町通りを歩くと、城の手前に「白露庭」という武家の庭園がある。戊辰戦争が終結すると、この庭園の近くの通りに緋毛氈を敷き、新政府軍と会津藩との間で降伏式が行われた。

 藩主松平容保公がひざまずき降伏と謝罪の書を差し出すと、政府軍を代表して薩摩藩の中村半次郎が受け取った。彼は「人斬り半次郎」の異名で呼ばれ、会津藩にしてみれば、そんな格下の人物が代表を務めるのは屈辱的な仕打ちに映った。ただ、彼だけが敗軍の将に頭を下げ、敬意を表したとの説もあるのだが・・・。

 いずれにしても、屈辱の儀式だった。降伏状を書き、儀式を取り仕切った秋月悌次郎は、式場の緋毛氈を切り刻み、「この日の屈辱を忘れまい」との思いを込め、藩士たちに配った。これが、血の涙を意味する「泣血氈」である。

 額縁に入れられた「泣血氈」は、少し斜めに切られており、急いで刀で切ったように見える。緋毛氈はかなり上物だったようで、140年余り経っているが、緋色をとどめていた。

 布切れは、何を語りかけているのだろう。薩摩に騙され、将軍慶喜や徳川幕府から捨てられ、朝敵、賊軍の汚名を着せられた。「なぜだ!」と言う叫びなのだろうか。

 それから10年、西南戦争が起きた。会津にしてみれば、西郷隆盛たち薩摩兵相手に戊辰戦争の恨みを晴らし、一矢報いる機会が到来したのだ。続々と会津出身の士族が集まり、政府軍の一員として薩摩に向かった。

 その一人、佐川官兵衛は戊辰戦争の城外隊を率いた家老で、「鬼官兵衛」と呼ばれた猛将である。薩摩との戦を死に場所と決めていた節がある。抜刀して薩摩兵に斬りかかり、戦死した。ある小説では、鬼官兵衛は「薩摩の芋侍、恥を知れ」と叫びながら、白兵戦に挑んだとある。「薩摩よ、恥を知れ!」は、西南戦争に加わった会津人共通の思いだったに違いない。

 会津への4泊5日の一人旅を終え、ブログを書きながら司馬遼太郎の言葉を噛みしめている。

 「あの時代に会津藩というものがなく、三百藩すべてが利に走っていたら、私は日本という国を信じなかった」・・・と。

                                          (終わり)
 

会津への一人旅(2)

 会津若松近郊の東山温泉で泊まり、翌日、藩主保科正之公の墓参に向かった。磐越西線の電車で市内から半時間の猪苗代駅へ。会津のシンボル磐梯山には雲がかかっていたが、時折、急峻な頂上が姿を見せた。

 保科公は自ら猪苗代湖を望む磐梯山の山麓に足を運び、「この地に埋葬を」と遺言した。公は生前、「土津(はにつ)」という神道の号を授けられており、造営された墓所は「土津神社」と名付けられた。神社は、東北の日光とも言われるほど荘厳な建物だったが、戊辰戦争で焼け落ちた。

 駅から磐梯山に向かって緩やかな坂道が延びており、1時間余り歩き続けると真っ白の鳥居が見えてくる。これが土津神社である。さらに半時間ほど杉木立の参道を歩くと、奥の院だ。ここが保科公の墓所で、六角形の墓石が建っていた。

 一帯にはまだ雪があり、参拝するためには雪の道を歩かなければならない。足が雪に埋もれ、靴も靴下も濡れて冷たかった。「やっと来れました」・・・。墓前にたたずんで手を合わせ、神妙な気持ちになった。

 保科公は、将軍家綱を補佐して幕政を支えたが、会津でも次々と善政を敷いた。庶民が飢えないよう米を備蓄し、善行に対しては表彰してこれに報い、働けないお年寄りには米を支給した。

 謹厳実直、高潔な人格と言われる保科公である。しかし、50何歳かの時、目が悪くなったので若い女に身の回りの世話をさせたが、いつの間にやら手をつけ、子供まで産ませてしまった。名君と言えども、色を好むのは凡人のわが身と変わらず、親近感を持ってしまう。

 会津武士の心得「家訓十五か条」はよく知られる。徳川家への忠誠を誓わせ、賄賂、えこひいき、贅沢などを戒めている。面白いのは、4番目の家訓に「婦人女子の言、一切聞くべからず」とある。婦人団体が聞いたら腰を抜かすような家訓だが、誤解を怖れずに言うと、膝を打ちたい気分である。

 保科公がわざわざ「黙れ」と言った「会津女性」。実は、日本女性の鑑である。折り目正しく、控え目で、しかし芯の強さは折り紙つきである。だからこそ、戊辰戦争の時、多くの武家の子女が自刃するという悲劇を生んだとも言えるのだ。

    ↓ 西郷頼母邸で一族が自刃した再現シーン(武家屋敷跡)
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 保科家の家紋を許されていた西郷頼母という幕末の家老がおり、その家老屋敷は子女惨劇の舞台となった。彼は、松平容保の京都守護職就任に強く反対し、家老を解任されたことがある。戊辰戦争の時は、白川口戦の総督として出陣したが、西軍に敗れてボロカス批判された。だから妻をはじめ家族もそうした負い目を感じていたのだろう。

 薩摩などの西軍が市中になだれ込んでくると、頼母の母や妻子たち一族21人は辱しめを受けまいと自刃して果てた。また、会津出身でありながら陸軍大将にまでなった柴五郎の祖母、母、妹二人も自害した。その母は五郎を親戚の山荘に疎開させ、柴家の後事を託した。

 これ以外にもおびただしい婦女が自刃したが、その一方で武器を手に戦った婦女もいた。美人の誉れ高い中野竹子らの「婦女隊」も戦闘に参加、死亡した。来年のNHK大河ドラマの主人公・新島八重子は、自ら銃を手に取り、果敢に戦ったと伝えられている。

 かくも会津女性は強いのだ。それなのに、保科公はどうして「女性の言を聞くな」と言ったのだろう。中国の故事に「雌鳥(めんどり)が鳴くと国滅ぶ」というのがある。女が出しゃばるとろくな事がないという意味だが、公はこれに倣ったのだろうか。

 どこかの国の総理大臣は、二代続きで「よく鳴く雌鳥」が寄り添っていた。道理で、国難を招いた。保科公に先見の明があったということだろう。さすが名君である・・・。            (続く)

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会津への一人旅(1)

 一人旅に出た。少年のような気分で、各駅停車の電車に乗った。  

 実は、女房が東南アジアで暮らす友人の家へ遊びに行くことになった。「僕も一緒に行きたい」と言ってみたが、「女同士で遊ぶのよ」と断られた。よし、それなら一人で気楽な旅をしようと思った訳である。

 行く先は、二度目の会津若松である。物見遊山の旅行ではなく、福島原発事故の慰問でもない。どちらか言うと、「巡礼」のような旅である。

 第一の目的は、前回行けなかった会津藩主保科正之公の墓参りである。徳川四代将軍家綱の輔弼役として民生政治を花開かせた人である。人格は高潔で、二代将軍秀忠の子でありながら、松平姓を名乗ろうとはしなかった。私はこの江戸時代の名君が好きであり、どうしても墓前に立ちたかったのだ。

 その保科公が育てた会津の人も心も文化も、それから200年後、戊辰戦争によって壊滅させられた。どうしてあれほど悲惨な戦争が起きたのか。新政府軍に歴史の評価に耐えうる大義があったのか。勝者によって書かれた「明治維新」は本当に正しいのか。それらの思いを胸に、多くの人の血がしみ込んだ会津の地を歩きたかった。

 少し理屈っぽくなったが、ともかく、ふらりと一人旅を楽しみたかった。4泊5日の旅行のスケジュールは、すべて女房がネットを駆使して作ってくれた。電車はすべて鈍行、泊まる所は格安料金・・・。ケチケチ旅行である。

 和歌山を出た時、桜は満開だった。滋賀では五分咲きくらい。福井は蕾が膨らみかかっていた。最初の宿泊地の直江津では、開花の気配さえなかった。車窓からは、春霞の向こうに白山や立山連峰、北アルプスが見え、退屈しなかった。

 翌日は、新潟県の新津駅で磐越西線に乗り換え、いよいよ会津若松だ。本当は只見線に乗りたかったが、地震と豪雨で山が崩れ、不通になっているのが残念だった。只見もまた戊辰戦争の地であり、逃避行中の長岡藩家老河井継之助は「八十里腰抜け武士の越す峠」と詠んで自分を皮肉った。この後息を引き取るが、句からは無念さが伝わって来る。 

 まだ雪が残る磐越西線は、蛇行する阿賀野川に沿って進む。川は雪解け水で溢れんばかりだ。やがて雨に煙る真っ白の飯豊連峰が威容を見せる。ラーメン名物の喜多方を過ぎると、やっと会津若松である。

 この日の宿泊は、女房の厚情で近郊にある東山温泉の旅館である。そこまでは歩いて1時間半ほどで、交通費節約のため傘を差しながら歩き続けた。途中、白虎隊が自刃した飯盛山の近くを通るが、前回参拝しているので、山に向かって合掌するだけにした。

 雨に濡れ、ひどく寒かったので、温泉の湯が有難かった。夕食の郷土料理も美味しかった。お酒は、さすが会津である。舌の上を転がり、喉を滑り落ちる一滴、一滴が、二日にわたる鈍行列車の疲れを癒してくれた・・・。       (続く)

    ↓ 北陸線のこんなレトロな風景がいい
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    ↓ 直江津は三度目。強風の中、ホテルまで50分も歩いた。
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    ↓ 新津駅で買った弁当。村上市で獲れた鮭の焼漬が入っている。
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    ↓ 雪解け水で満水の阿賀野川。
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    ↓ この会津の旗を目にすると、身が引き締まる。
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石仏に手を合わせていると、ウグイスが鳴いた

 春の嵐が通り過ぎ、昨日はいい天気になった。午後も遅く、生石高原へ散歩に出かけた。山小屋から高原までは歩いて10分ほどの距離だ。ススキの草原を歩きながら標高876mの生石ケ峰に登るのだが、高原からの標高差はたった70mほどで、半時間余りで頂上に立てる。ここを歩くのが私の日課である。

 高原のほぼ中央に、地下から湧き出たような巨大な岩石がある。テニスコートくらいの大きさはあるだろう。「笠石」と呼ばれており、その上に小さな祠がある。岩の上で修行したと伝えられる弘法大師が祀られているのだ。

 祠に上がる石段の両脇には、高さ40cmほどの石仏がある。それぞれ2体ずつで、右が男、左が女の形をしている。田舎に行くと路傍に道祖神を見かけるが、この石像もそうだろうか。一度、役場に問い合わせてみようと思う。

 散歩の途中には、祠と石仏に手を合わせることにしている。この日も立ち寄ってみると、左側にある石仏の男の像が仰向けに倒れていた。先日の嵐で倒れたのだろう。かなり重かったが、何とか元の姿に戻すことが出来た。

 改めて手を合わせていると、すぐ近くで「ホケキョー」と鳴いた。ウグイスは、笠石の岩の隙間に生えた木の枝に、こちらを向いて止まっていた。距離は10mも離れていない。鳴き声は聞こえても、用心深いウグイスの姿を目にするのは珍しい。

 私に聞かせるかのように、喉を激しく震わせながら何度も、何度も鳴いた。美しい鳴き声は、激しい喉の振動から生まれるのだろう。勝手にそう解釈した。ウグイスは木にしばらく留まり、やがて東の空に飛び去った。

 すぐ近くにウグイスが現れたのは、倒れた石仏を元に戻したご褒美だったのだろうか。何でもないことだが、うれしくなった。家に帰り、畑仕事をしていた女房にこの事を話すと、「あらそう」と気のない返事をした。「もっと喜べ!」と言いたかったが、言葉を飲み込んだ。いい事があったばかりだから、腹を立てれば損をする。

 年を取ったせいか、小さな出来事にもふつふつと喜びが込み上げることがある。「あぁ、今日もいい日だった」--。そんな風に、日一日を得心したいのだと思う・・・。

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春の嵐・・・もう勘弁してよ

 いやはや、物凄い春の嵐だった。標高800mの尾根に建つわが山小屋には、まともに強風が吹きつけ、家が揺れた。森に囲まれているので、木々が擦れる音もすさまじかった。

 嵐が始まったのは、一昨日の夜半だった。それから延々、今日の朝方まで続いた。昨夜は、アラレが強風にあおられて山小屋に打ち付け、バラバラという大きな音を立てた。やがて雪になり、薄っすらと積もった。

 山小屋の裏は杉林になっており、杉の枯葉が宙を舞い、敷地は杉の葉に覆われた。杉林の中ではキノコを栽培しており、先日、原木の上に積もった杉の葉を取り除く作業をしたばかりだ。それが元の木阿弥になってしまった。

 四月に入って少し暖かくなり、喜んだばかりだ。それが一転して嵐と雪である。今年の冬は例年になく寒く、待ち望んだ春の訪れがこの有様だ。何という年だろう。自然は手厳しい・・・。

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トンカチ40余年・・・現役の金槌

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 花の四月--。あぁ、これで暖かくなるんだと思うと、うれしくなる。今年の冬が例年になく寒かったので、一層喜びが大きい。ただ、私たちが暮らす山小屋は標高800mもあり、季節の移ろいは人里に比べると半月以上のタイムラグがある。それでも下界から、桜の便りが届くと何事につけやる気が出てくる。

 昨年春、山小屋の西側に40坪ほどの畑を開墾した。しかし、冬の間にブロッコリーや小松菜、ホウレン草などを根こそぎウサギに食べられてしまった。そこで先日から、畑の四方をナイロン製の網で囲う作業を続けていたが、少し暖かくなったので作業がはかどり、ほぼ完成にこぎつけた。

 囲いは、ウサギが入れないだけでなく、イノシシの侵入も断固として阻止する強力なものである。網を畑の外側の地面に広げ、その上に杉の丸太を重しとして置いた。イノシシは網が足に引っかかるのを嫌がり、しかも丸太の重みで地面を掘り起こすことが出来ないようになっている。

 丸太と丸太は、鉄のカスガイで繋いだ。カスガイは重量のある金槌でないと、なかなか打ち込めない。私は、丁度良い金槌を持っている。すっかり錆付いた年代物だが、まだ現役のバリバリである。

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 このブログのいつものパターンだが、金槌への思い出へと強引に文章を進めることにしよう。

 私が会社に入って間もない頃の話である。大都市近郊のスーパーマーケットの2階に小さな釣具店があった。店主は、実に見事な白髪で、70歳くらい。背筋が伸びた古武士のような人だった。客に媚びるようなところはなかったが、どこか温かみのある人柄だった。休日など暇があるといつも釣具店に出かけ、店主の釣り談義を聞くのが楽しみだった。

 「小物を釣るのも面白いが、底物をやってみてはどうか。休みが合えば、一緒に遠征しよう」と誘われた。底物というのは、海底近くに生息するイシダイやイシガキダイなどを狙う釣りである。当時でも、イシダイは幻の魚と呼ばれ、滅多に釣れるものではなかった。

 店主は、茫洋とした見かけからは想像できない名うての底物師だった。それもそのはず、釣りキチのため一流企業を棒に振った人だった。当時、まだ映画「釣りバカ日誌」はなかったが、今思うと、主人公ハマちゃんやスーさんに、この底物師の姿が重なるのだ。

 当時は独身だったのでお金も自由になり、高価なイシダイ竿など道具一式をい買い込んだ。そのうちの一つが、この金槌なのだ。竿受けを固定するため磯の割れ目にピトンを打ち込むのだが、そのための専用の金槌である。

 これを機に底物釣りへとのめり込み、この金槌とも行動を供にした。やがて結婚し、女房とともに遠く屋久島、四国などへもよくイシダイ釣りに行った。だから、女房にしてもこの金槌に縁がない訳ではない。そしてあれから40年余りを経た今、こうして女房の畑作りに役立っている。

 金槌はかなり上物である。細かいところにも細工がしてあり、何よりも頑丈だ。今はアオリイカ釣りをしているが、この釣りもピトンを打ち込んで竿受けを固定するので、金槌を愛用している。長い間酷使しているが、ビクともしないのだ。

 道具は大切に使えば、人の寿命よりも長く使える。そして道具は、使い手の手垢が浸み込み、味が出る。そんな愛用の金槌をながめながら、しみじみと思い出に浸っている・・・。

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