テレサ・テンとアグネス・チャン

 このブログは、アグネス・チャンのファンは絶対読まないでもらいたい。必ずや不愉快になる。

 今日金曜日の午前中、NHKのBSプレミアムでテレサ・テンの特集を放映していた。番組の最後に、「つぐない」「時の流れに身をまかせ」を歌った。42歳で人生を終えたあの日の衝撃を思い出し、涙が流れた。

 アジアの歌姫テレサは、世界の人々から愛された。あの丸い顔に、少し下がった眉が愛らしかったが、その表情にどこか悲劇性が宿っていた。日本で最後に歌った映像が流されたが、肌に張りがなく、目にも力がなかった。

 その映像には、1995年5月8日、タイのチェンマイで気管支喘息のため亡くなる予兆のようなものが滲んでいた。テレサは、私にとって好きな歌手の一人に過ぎなかった。しかし死後の彼女は、その歌声とともに、人生のはかなさを教えてくれた存在感のある歌手として心に残っている。

 NHKの番組を見ながら、歌手アグネス・チャンの顔を思い浮かべずにいられなかった。アグネスは香港の中国人、テレサは台湾の外省人、二人とも1970年代から日本で活動しており、共通点が多い。

 愛着のあるテレサに対し、私はアグネスを生理的に受け付けない。日本に来て何十年にもなるのに、いまだにたどたどしいあの日本語は何だと言いたい。テレサは美しい日本語を話したし、努力して数年で流暢に話す外国人も少なくないが、アグネスにはその気がないのだろう。

 あれは1988年のことだった。作家林真理子女史とアグネスのいわゆる「子連れ出勤」論争である。アグネスがテレビの収録現場に自分の乳児を連れて来たことに対し、林女史は「周囲の迷惑を考えていないし、プロとして甘えている」と痛烈に批判した。

 私は「よくぞ言ってくれた」と快哉を叫んだ。確かに、女性の仕事と子育てという問題をはらんでいるが、彼女の態度は余りにも自己中心的である。言い過ぎかも知れないが、それは中華思想の現れであり、中国の言動と同じなのだ。日本には職場に子供を連れてくる文化はないし、その矜持を誇りとしている。

 アグネスは児童ポルノの禁止に力を入れているようだ。「ワタシ、子供ノ人権守リタイ」「モチロン、表現ノ自由モ守リタイ」と人権活動家のような立派なことを公言している。ならば、母国中国の人権侵害、表現の自由についてもっと発言したらどうか。荒唐無稽だろうが、中国のスパイと揶揄する人もいるのだ。

 ネット上で、アグネスの発言が物議をかもしたらしい。彼女は日本ユニセフ協会の親善大使だが、この団体について「ユニセフと同じ」と発言したのが問題になった。組織としては別で、親善大使もあくまでも民間の立場らしい。どちらにしても、アグネスは毀誉褒貶の多い女性と言えるだろう。ちなみに黒柳徹子の場合は正式の親善大使だそうだ。

 アグネスの活動に賛同している人や、歌が好きな人にとって、私のたわ言は大人気ないだろう。それは分かっているが、どうしてもアグネスは好きになれないのだ。テレサの在りし日の姿を見て、つい本音が出てしまった・・・。
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笹ゆりが咲き始めた

 わが山小屋の周りで笹ユリが咲き始めた。

朝起きて外に出ると、少し冷気を含んだ風が、ユリの香りを運んで来る。

それは甘くて、どこか切なげである。

何と気品に満ちた香りだろう。

 敷地には30株以上の笹ユリが自生している。

これから7月前半にかけて、順次、咲いて行く。

 笹ユリには、少女のような初々しさと妖艶さが同居している。

雨上がりの霧の中に浮かび上がる姿は、はっとするほど美しい。

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玉ネギ収穫・・・太陽と土の恵みだ

 台風4号と、途中で熱帯低気圧になった台風5号は、和歌山にも大雨を降らせた。川が溢れ、和歌山市内の住宅や田んぼが水浸しになり、テレビニュースが被害の映像を大きく伝えていた。

 私たちが暮らす生石山でも長雨が続いた。夜中、屋根に打ちつける雨音で何度も目が覚める日もあった。今はちょうどウツギの白い花が満開だが、激しい雨で花が散り、道の両側は白い花びらで雪が積もったようになっている。

 きのうは梅雨の中休みとなり、太陽も顔を覗かせた。週が改まるとまた雨模様が続くので、女房は朝早くから玉ネギの収穫作業をした。収穫できたのは150個ほどで、どれも拳ほどの大きさ。予想していたより立派に育ち、女房は納得の表情である。

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 生石山に定住し、野菜作りを始めて5年になるが、ここは森の中なので、敷地の畑も、別に借りていた畑も木が邪魔をして日当たりが悪かった。収穫できる野菜は総じて小さく、玉ネギもひと回り小さかった。毎日畑に通い、手塩にかけて野菜を育てる女房の気持ちをくじいた。

 そこで昨年、隣にある空き地を借りた。ここはぽっかりと空が開け、朝から夕方まで日が射す絶好の場所だった。ただ長年放置されてきた土地なので背丈もある雑木や草が茂り、開拓するのに大変な苦労をした。しかもここは、石が生まれる「生石山」という名前の通り、耕しても耕しても石が出てくる。

 女房は、根気強く耕し続け、落ち葉で作った堆肥や牛糞、鶏糞を入れて土を作った。私は見ていただけだが、女房の努力で肥沃な畑になった。大根もブロッコリーも大きく育ち、レタスは人の頭くらいに巻いた。キャベツやキュウリなど様々な野菜も順調に育っている。

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 あとひと月もするとジャガイモが収穫できる。甘くておいしいキタアカリという品種だ。これもきっと大きく育っているだろう。塩茹でし、ざるに盛ったホクホクの新ジャガは、昔も今も3時のおやつである。フーフーしながら食べるのが待ち遠しい・・・。

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野ウサギが住み着いた

 わが山小屋のすぐ近くに、1匹の野生ウサギが住みついたようだ。体長は30~40センチほど。毛は茶色で、性別は分からない。先日、女房が山小屋前の道を歩いていたところ、ウサギが隣の家の石段にちょこんと座っていたという。

 そして次の日、ウッドデッキに出ていた女房が「早く、早く」と私を呼んでいる。女房の指の先に、ウサギが座って草を食べていた。ウサギまでの距離は20mほど。口笛を吹いたり、声をかけたりしてみたが、逃げるそぶりを見せず、泰然としていた。

 次の日も、前日と同じ場所に座り込んでいた。何か考え事をしている様子だった。カメラを持ち出して撮影した。安物のカメラなので、ズームもきかずうまく撮影出来なかった。女房が外に出てウサギをもっと大きく撮影しようと近づいたところ、ノロノロと草むらに姿を隠した。

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 ここ生石山でよく見かけるウサギは、人間の姿を目にすると文字通り「脱兎」のごとく逃げてしまう。しかし、このウサギは私たちをそれほど警戒することなく、ある一定の距離を保ってはいるものの、妙に親しげである。

 実は、今年3月17日のブログでも書いたが、山小屋の南西側にある畑に植えていたブロッコリー、白菜、小松菜、ホウレン草、ラッキョが何者かに根元からきれいに食べられていた。その数日後、茶色の大きなウサギが畑を飛び出すのを目撃したのだ。こやつが野菜を食べた犯人だろう。

 体の色や大きさから見て、あの時逃げたウサギが住みついたのだと思う。最近、別の場所の畑で栽培している枝豆の芽もかじられており、その手口から見ても、同一犯に違いない。

 このウサギは、草むらから私たち夫婦の姿をよく見かけていたのではないか。だから私たちをそれほど怖がっていないのかもしれない。まぁ、向こうがそういう態度なら、野菜を食べた犯人でも可愛いものである。無下に追い出したりせず、そっと見守ってやろう。私たちとしてもにぎやかになり、歓迎なのだ。

 人里から離れた山の中で暮らしていると、家の中を這い回る蜘蛛も蟻も、妙に親近感がわいてくるから不思議である。ブログに再三登場するヤマガラは、手に止まって餌をついばむし、腹が減ればガラス戸越しに餌を催促する。もはや、家族同様の存在なのだ。

 実は3、4年前からわが家に住み着いている動物が他にいる。ガマガエルである。山小屋の裏に置いている物置の下をねぐらにしているようだ。体長は15センチくらい。背中には小さな突起がいくつもあり、ここから「ガマの油」を出すのだろか。

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 今のような梅雨時、裏の広場や通路によく姿を現す。じっとしているので、しばしば踏ん付けそうなることがある。木の枝で軽くたたいても動かない。鈍感なのか、大物なのか・・・。

 われら夫婦は最初の頃、ガマガエルのグロテスクな姿に悲鳴を上げてきた。しかし最近ではすっかり慣れ、親愛の情さえ持つようになった。女房もガマガエルがいると座って向き合い、話しかけたりしている。山の暮らしも長くなると、変われば変わるものである。

 物言わぬ動物は、愛おしく、可愛い。無体な自己主張はしないし、嫌味もお小言も言わない。この世の中、口は災いのもと、物言えば唇寒し・・・。
 


 

 

能登半島ぐるり一周(後編)

 和倉温泉で一泊し、高岡市に向かった。これで能登半島を一周することになる。車を走らせながら、途中の氷見市に住んでいる友人を訪ねるかどうか迷っていた。連絡もせず、いきなり訪問しては迷惑だろうし、手土産もない。

 彼と私は、同じ業界に入った同期である。彼とはライバルの関係だったが、自分の会社の同僚たちよりも仲が良いという変な関係であり、私たちの業界ではそう珍しいことではなかった。

 彼は江戸っ子だったが、関連会社の社長を退任した後、奥さんの古里である氷見市に家を新築し、昨年からここに住んでいる。私と同じ釣りが趣味で、富山湾で釣り糸を垂れ、もしかしたら寒ブリでも釣り上げようとしているのかもしれない。

 今年の4月、会津若松へ一人旅をした帰り、彼の家に立ち寄り、一泊させてもらった。酒を飲みながら富山湾の魚をつつき、仕事でやり合った攻防の思い出を語り合った。いつの間にか、二人で1升5合もの日本酒を空けていた。

 あの時からまだ2ヶ月も経っていないが、顔だけでも見て帰りたかった。長居しては迷惑なので、コーヒーをいただいてすぐ帰途についた。

 女房は、粟津、片山津、山代、山中の加賀温泉郷を回ってみたいと言う。5、6歳のころ、育ての母に連れられて北陸を旅し、和倉温泉と山中温泉に泊まったことを懐かしんでおり、遠い昔の足跡をなぞりたかったのだろう。

 山代温泉や山中温泉は、町並みが整備されきれいになっていた。しかし、それほど繁盛しているようには見えなかった。全国的に見ても、近年の温泉街の凋落はひどいらしい。私たちが泊まった和倉温泉でも、能登沖地震や東日本大震災などでここ数年間に旅館8軒が倒産したと聞く。廃業となり、周りに雑草が生えた旅館の姿は見るに忍びないものがある。

 凋落傾向は、一概にデフレや不景気のせいだけとは言えないと思う。私が若い頃は、部署ごとに慰安旅行があり、温泉に一泊して騒いだ。これをわれらの業界では「全舷」と呼んだ。海軍ではどこかに寄港すると、乗組員の半数が「半舷上陸」するが、「全舷上陸」は全員が休むという意味で、これが転じてそう呼ぶようになったのだ。

 いつの頃からだろうか、若い社員はこの全舷に参加するのを嫌がるようになった。酔っ払った先輩を相手にするのは真っ平ご免なのだ。協調とか団結という言葉が空疎になり、若者にとって温泉で気勢を上げるなんて実に馬鹿馬鹿しいことなのだろう。当節は、昼食会やバーベキュー大会で飲んで食べたら、ハイサヨナラである。

 このような価値観の変化が、温泉街を寂しくさせ、強いては地方の疲弊を招く一因になっているのだと思うが、どうだろう。加賀屋のようにブランド旅館がそこそこ栄え、1泊2食付き8000円という格安旅館に主婦たちが押しかける。このような温泉旅館の二極化は、味わいのある二流旅館を少なくさせ、温泉のもてなし文化の衰退にもつながりかねない。

 われら夫婦は、温泉通ではないが温泉好きである。ずいぶん全国各地の温泉に行ったものだ。ただ、加賀温泉郷のような温泉街よりも、どちらかと言えば「秘湯志向」である。それは好みの問題だからどちらでもいいが、温泉が元気になれば、日本も少しは元気になると思うのだが・・・。

 会社でも事業所でも年1回くらいは温泉にくり込み、無礼講で羽目を外してはどうか。昔は酔っ払って旅館の襖を破ったり、酒をこぼして畳を汚したりして幹事が謝りに走り回っていた。何もそれがいいとは言わないが、しかしそれらは昭和の時代の活力の一面でもあった。今はみんな行儀が良く、目線は内を向いている。

 まぁ、それはそれとして、山代温泉に新築されたばかりの「古総湯」に入った。総湯とは共同浴場のことで、「古」が頭につくのは昔ながら入浴方法を体験してもらおうという意味らしい。つまり、石鹸、シャンプーは禁止、ただ湯につかるだけである。入浴料は500円。物凄い熱いお湯だった。お客はわれら夫婦二人だけで、今の温泉事情を象徴しているようだった。

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 山中温泉から山間の道路に入り、ゆっくり走った。しばらくすると、「栢野大杉」の看板があった。菅原神社境内に見事な杉の神木が4本あり、天を突く姿に圧倒された。最も古いもので樹齢2300年。昭和天皇もご覧になった。

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 次は「千古の家」という曰くありげなが看板があった。通り過ぎたのでUターンし、見学した。北面の武士源頼政の後裔が建てた民家で、中世末期の建築とされる。黒光りした太い柱には丸刃の手斧の削り跡が生々しく残っていた。家を管理している古老が番茶を運んでくれた。彼も末裔の一人らしいが、北面の武士の猛々しさとは無縁の好々爺だった。

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 このように、田舎の道を走れば、なかなか味わいのある風景や文物に出会うことができる。1泊2日の走行距離は1200キロ。感じることの多かった小さな旅だった・・・。

                                    (終わり)
 

能登半島をぐるり一周(中編)

 能登半島を縦断する自動車道を走った。車のハンドルは女房が握っているので、私は気楽に風景を眺めていた。山あいに寄り添う集落が次々と車窓に現れた。私は、その民家の一軒一軒に目を奪われた。たたずまいが実に美しいのだ。

 真っ黒の屋根瓦は、雨に濡れたように光っていた。壁には、表面を焼いて炭化させた杉板が張られている。豪雪地帯の民家でよく見られる杉板だが、その素朴な雰囲気があたりの風景に溶け込んでいて、日本の原風景を見る思いだった。

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 何よりも、民家が大きいのに驚いた。しかも、家の周囲の草が刈られ、どこにも乱雑さが見られない。家を見れば、そこの家族が分かると言えるかもしれない。大きな家屋には、そこに二代、三代の家族が住んでいるということだろう。ここ能登では大家族が当たり前なのかもしれない。民家を眺めながら、妙にホッとした気分になった。

 能登の民家の99%は、光る黒い屋根瓦と黒い杉板が使われている。私のつたない経験だが、その美しさは日本一だと思う。富山県砺波市の庄川扇状地にある「散居村」のスケールは大きく、印象深い。奈良県で見た白壁の農家群にも目を見張った。しかし能登の民家には、雪と烈風にさらされる厳しい風土が生んだ機能美のようなものが滲んでいると思う。

 厚かましくも、一軒の民家を訪ねてみた。通路の奥の方で、80歳近い婆さんがコンテナに腰かけ、アゴ(トビウオ)を捌いていた。そばにいた爺さんに黒い瓦のことを聞いてみたが、「今じゃこの瓦を焼く業者が少なくなったなぁ」と言うだけで、なぜ黒く、光っているかはよく分からなかった。

 この爺さんは以前、私の故郷の織物会社に10年ほど出稼ぎに来ていたという。能登にこれといった大きな産業はなく、耕す農地も広くはない。この爺さんのように、能登の人々は決して裕福とはいえないだろう。しかし彼らは多くの家族が寄り添える大きな家を建てるのだ。都会にはない価値観がある。

 輪島市の外れに、「時国家」の看板があった。平家ゆかりの民家だそうだ。NHKの大河ドラマで平氏ブームなので寄ってみることにした。パンフレットによると、平家一族の実力者時忠は能登に流罪となり、その子時国は近隣の村々を統治した。江戸時代に子孫がこの豪壮な屋敷を建てたという。

 時国家は、屋敷風の「上」、民家風の「下」の二軒に分かれている。私たちは一人500円を払って「上」に入場した。なるほど屋敷の構えは立派で、庭園も調度品も大したものだ。見学を終えて「下」へ行こうとしたら別料金だという。こちらは600円。同じ平家ゆかりの建物なら共通券にして割り引けば入場者も増えるだろうに。「上」と「下」は仲が悪いのだろうか・・・。

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 能登半島の最北端までやって来た。歩いて急な坂道を登ると、真っ白の禄剛崎(ろっこうざき)灯台があった。昭和38年まで灯台守が住んでいたという。再び海岸沿いに走り、見附島を見学した。別名軍艦島。なるほど、島は船の形をしていた。

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 穴水町の海辺にはいくつか「ボラ待ちやぐら」があり、釣りをこよなく愛する私としては興味をそそられずにいられない。何と言っても、やぐらの形がいい。いかにも漁師がこしらえたような無骨さがある。江戸時代に考案された漁法で、今に伝える「文化財」と言ってもいいだろう。

 高さ12mほどのやぐらの上に漁師が座り、海底に張った網の上をボラが通過するのを待つ。ボラが来たら素早く網を絞り上げて捕まえるのだ。日がな一日海を覗き、ボラを待つ江戸時代の漁師。その姿は、何とものんびりしているし、どこか滑稽でもある。日当はいらないから、ぜひ私にやらせてほしい。

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 一日の旅を終え、和倉温泉に着いた。泊まる旅館は、あの立派な加賀屋とはえらい違いだが、温泉の湯は同じである。食事の質やおもてなしはともかく、こちらは3人分の予約券を購入してあり、われら夫婦で3人分の食事を食べるので、量では間違いなく勝っている。3人分になった経緯については、この前編を読んでもらいたい。

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 言い訳ではないが、私たちは2人分の食事を出してもらえばいいと言った。しかし旅館側は、すでに料金をもらっているので3人分出すと言って聞かない。われら夫婦の前に、次々と3人分の料理が運ばれてきた。カニが出てきたが、いつもなら身を執拗にほじくるのだが、今回は大まかに食べてポイ。蒸し料理も肉料理も・・・。

 これはもう、料理に対する冒涜だと思う。やはり料理は、少し足りないくらいがいい。

                                       (続く)

 

能登半島をぐるり一周(前編)

 能登半島の和倉温泉に行って来た。泊まったのは、日本一のおもてなしで有名なあの加賀屋・・・ではなく、まぁ、普通の旅館である。

 旅行記を書く前に、なぜ和倉温泉なのかを説明しなければならない。インターネットの「グルーポン」とか「ポンパレ」とかをご存知だろうか。いわゆる、共同購入サイトである。

 旅館やレストラン、雑貨店など様々な店が格安の共同購入チケットをネット上で発売する。まとまった数の予約が取れれば、この企画が成立する。薄利多売の方式である。

 女房はこのサイトが好きで、一日中、パソコンの前に座っていることもある。この前は、私にショルダーバッグを買ってくれた。本皮製でなかなかお洒落な品物で、これがなんと3980円である。

 今回の和倉温泉も共同購入サイトで見つけたお得チケットだった。しかも女房は3枚も買ってしまった。娘を誘えば来るだろうと思ったらしいが、「忙しい」と一蹴され、身内の誰彼となく声をかけてみてもみな断られてしまった。

 使用期限が迫ってきたので、結局われら夫婦で行くことになったのだ。ということは、1枚分、まるまる損をしたことになった。先日、わずか1000円の映画代をケチる女房の話を書いたが、何のことはない、このように大きなところで抜けている。

 さぁ、能登半島を一周する旅の出発だ。能登への旅行は学生時代から数えて4回目だが、これまでは輪島市までで、半島先端の珠洲市にまで足を伸ばすのは初めてだ。車の運転は女房がしてくれたので、車窓の風景をじっくり楽しむことが出来た。

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 楽しい旅行に、こんな暗い話はふさわしくないが・・・。

 能登の海を眺めていて、松本清張の推理小説を映画化した「砂の器」を思い出さずにいられなかった。映画を観たのは40年ほど前で、新婚の女房も私も周囲を憚らず泣いた。観客の多くも声を出して泣いており、映画館は異様な雰囲気に包まれたのを今もよく覚えている。

 スクリーンには、ハンセン病の父親と幼い息子が巡礼の衣服に身を包み、各地を行脚するシーンが延々と映し出される。荒々しい波が打ち寄せる浜辺を、凍りつくような吹雪の道を、花が咲き乱れる里の道を、とぼとぼと歩き続ける親子。時には、乞食と間違えられ、村の子供たちからいじめられもした。誰もが号泣するシーンである。

 この親子が出奔したのは能登半島のどこかであり、あの浜辺も雪の道も能登半島だと信じてきた。松本清張の他の作品と混同しているのかもしれないが、私にとっては能登=砂の器であり、能登の地を踏むとあの映画のシーンが蘇ってくるのだ。

 映画では、ハンセン病患者への差別問題が描かれている。父親はハンセン病の施設に収容され、あの幼かった少年は過去を捨て、名前も変えて音楽家の道を歩んだ。世のスポットライトを浴び、、結婚を控えていたそんな時、昔世話になった警官が現れた。父親の病気や自身の過去が発覚するのを恐れ、警官を殺してしまったのだ。

 悲しく、切ない40年前の記憶を辿りながら、輪島市から珠洲市への道を走った。梅雨の晴れ間だったので、車窓の風景はキラキラと光っていた。やがて、国の名勝にもなっている「輪島の千枚田」に着いた。小さな棚田が海に向かって滑り落ちるように連なっていた。

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 海岸沿いには、いくつかの塩田があった。能登で作られた塩は北前船で大阪や京都に運ばれたという。しばらく走ると、葦(よし)を立てかけた民家を見かけた。冷たい北風を遮るためのものだろう。冬の能登の厳しさを垣間見せられた。

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                                           (続く)

映画「わが母の記」に涙あふれる・・・

 昭和の文豪井上靖の自伝小説を映画化した「わが母の記」が上映されている。女房を誘って観に行こうと思った。すると女房は「住民税やら車の税金を払わなければならないのよ。今月は苦しいの」とケチなことを言う。

 何を言うか。これまで何十年も働き、だから今、年金をもらえているのだ。たまに映画を観てどこが悪い。そもそも女房は結婚当初から、私をマザコンと決め付けている。映画の題名が気に食わず、税金にかこつけて嫌味を言っているに違いない。私の母親はとっくに亡くなっているが、確かに母親への思慕の深さは今なお変っていないのは事実である。

 まぁ、そんなことはどうでもよい。結局、私のわずかな小遣いから女房の映画代を出してやることにし、和歌山市内の映画館に向かった。

 近年私は涙もろくなり、映画の題名を聞いただけで涙ぐむような男である。上映中は必ず泣くと思うから、タオルをポケットに入れてある。もし嗚咽が漏れそうになったら、これで鼻と口を塞がぐのだ。何かもう泣くことを楽しみにしている風であるが、確かに、流した涙の分だけ得をしたような気分になるから、変な話である。

 さて、長々と予告編を見せられた後、やっと「わが母の記」の上映が始まった。

 ベストセラー作家伊上洪作(役所広司)は五歳の時、曽祖父の妾の家に預けられ、8年間育てられた。洪作は母親の八重(樹木希林)に捨てられたという思いを引きずりながら、その後の人生を歩む。

 洪作は恨みの一言も言いたかったが、八重はボケの進行とともに過去の記憶が消えていく。そしてやがて、映画はクライマックスを迎える。もはや目の前にいる洪作を自分の息子と認識できない八重である。彼女は懐から古い紙切れを取り出し、そこに書かれた文字を読み出した。

 「母と渡りたい小さな海峡」・・・。洪作が母と別れる時に渡した作文だった。母としばらく暮らした町に小さな海峡があった。そこを一緒に渡りたいという幼い夢が綴られているのだ。八重はこの作文を肌身離さず持ち続けてきた。洪作はその母の声に耳を傾けながら嗚咽した。それはこれまでの誤解が解けた瞬間だった。私も万感迫り、泣いた。

 なぜ八重は息子を曽祖父の妾に預けたのか。それには立派な理由があるのだが、それは観てのお楽しみである。ともかく、母親がわが子に向ける慈しみは普遍である。その深淵は、文字通り、大河の淵のように静かで深く、寛容である。「わが母の記」は、そのことを語りかけている。

 この映画は、母と子のテーマを通し、家族を描いている。ここに登場する家族の一人一人を演じる役者の演技力は素晴らしかったし、監督の力量の大きさも認識させられた。しかし何よりも、樹木希林の存在なくしてこの映画は成り立たなかっただろうと思う。彼女は圧巻だった。

 映画が終わり、スクリーンには俳優の名前や制作にかかわった人の名前が次々と映し出されていく。私はその最後の1行まで席を立つことが出来なかった。その間、とめどもなく涙が出た。こんな不思議な体験は初めてだった。余韻と言ってしまえばそれまでだが、いくつになっても母を想い、流す涙なのだろう・・・。

森本さんの防衛大臣就任は変節か・・・

 きのうは有田川で鮎釣りをしていた。余り釣れず、疲れ果て夕方家に帰ってきた。内閣改造の顔ぶれが気になっていたので玄関を入るとすぐ、女房に防衛大臣の名前を聞いた。「ほれ、あの森本敏さんよ」。えっ・・・、私は耳を疑った。

 森本さんと言えば、防衛、安全保障問題の専門家であり、保守派の論客だ。元自衛隊員であり、その後外務省に移り、今は大学教授で、評論家でもある。テレビでもよく見かける顔だ。自民党政権の時代、彼は防衛大臣補佐官をしていた。それがなぜ、民主党の閣内に入ったのだろうか。

 新聞報道によると、最初は防衛大学校長だった五百旗頭さんに打診したが断られ、森本さんにお鉢が回ってきたらしい。森本さんはいったん固辞したらしいが、結果的に大臣に就任した。固辞がポーズだったかどうか本人に聞くしかないが、それにしても、これまでの数々の保守的な発言は何だったんだろうと思う。

 民主党は右から左までごちゃ混ぜの政党だが、政策的には、どっちかと言えば社会主義的色彩が強い。自衛隊に対して冷ややかな人が少なくないし、集団的自衛権も否定的である。しかし森本さんは、本来国家には集団的自衛権が認められており、日米同盟の強化にも必要不可欠だと強調していた。

 大臣就任会見ではこの前言を翻し、政府の一員となったからにはこれまでの憲法解釈を変えないと明言した。つまり信念を曲げてでも、防衛大臣になる意味があったということだろう。それは政権に飛び込み、内側から変革しようとしたのかもしれない。しかし悪く言えば、大臣という地位が何物にも替え難い魅力があったとも言えるだろう。

 日本人は、節操を尊び、変節を嫌う。三国志の「忠臣は二君に仕えず」という言葉も好きであり、忠義は武士道の基本である。江戸初期まで、主君の死に殉じる家臣が続出したのも、その形の一つだろう。森本さんの真意は分からなが、理由がどうであれ、森本さんは主張してきた「保守の論理」に忠義立てするのが筋ではないだろうか。

 話は変わるが、幕末の勝海舟は咸臨丸で渡米し、帰国後は軍艦奉行として神戸海軍操練所を開設した。戊辰戦争では幕臣として西郷隆盛と渡り合い、江戸城の無血開城に奔走した。少年の頃に「咸臨丸」という絵本のような本を読み、勝海舟は私の中で英雄だった。

 しかしその後、福沢諭吉が勝海舟に対してボロカス批判しているのを知った。つまり、幕臣だったのに、維新政府に仕官し、爵位までもらうのはけしからんという訳である。勝ほどの優れた人間であるだけに、その変節が許せなかったのだ。福沢翁の晩年に発表された「痩我慢の説」に詳しく書かれている。

 要するに福沢翁は、勝が武士階級に見合った特別な責任と義務を果たしていないという主張なのだ。森本さんは武士でもなんでもないが、自分の意見を公に述べることが出来る特権階級とも言える人物である。民主党の閣内に入って、自らの思想信条に対し、責任と義務を果たせるか疑問である。

 いささかレベルの低い私であるが、福沢翁が勝を批判したように、同じ理屈で森本さんの変節に苦言を申し上げたい。大臣就任は、火中の栗を拾うという悲壮な決意に見えない。下衆の勘ぐりかもしれないが、元自衛官だったころから抱いていた指揮官という「ぼた餅」が、棚から転げ落ちてきた風にも見える。

 正論の士が、論壇から去って行った・・・。

世界遺産・大峯の大普賢岳に登る

 ここは、山岳信仰の霊峰が連なる世界文化遺産・大峯山地。夜明け前に和歌山を出発、軽トラをすっ飛ばし、2時間半かかって大普賢岳(1780m)の和佐又登山口に着いた。われら夫婦は、これから頂上を目指す。

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 しばらく歩くと、そこはもう深い樹林帯だ。ブナやミズナラの瑞々しい新緑が冷気を発している。

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 前方に赤い花が咲いていた。ツツジだ。無骨な男たちに囲まれた紅一点という感じである。

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 半時間ほど歩くと、樹林帯にはヒメシャラが目立ってきた。赤茶色の美しい木肌。この木に触れると、驚くほど冷たい。登山者は汗ばんだ体でヒメシャラを抱擁し、清涼感を味わう。女房も・・・。

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 森を歩くと、不思議な造形に出会う。この曲がった木は何かの動物に似ている。木の根っこを踏みながら登るが、時々足が引っ掛かる。

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 美しい樹林帯を抜けると、巨大な岩が覆いかぶさる。鉄梯子を登り、鎖場を越える。岩の下には、指弾の窟、朝日の窟、笙の窟などが連続しており、ここで行者が修行した。文化的な価値が高いという。

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 岩場にひっそり咲いていたイワカガミ。

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 2連の鉄梯子を登る。高所恐怖症のわれらは慎重に足を運ぶ。断崖も連続し、楽には歩けない。

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 息を切らして梯子を登り切ると、目の前にシャクナゲが咲いていた。まことに美しい。今回登山でシャクナゲを見るのが楽しみだった。まだ咲き始めで、10日もすれば盛大に咲くだろう。

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 「石ノ鼻」という岩場に着き、恐る恐るよじ登った。視界が一気に広がり、大峯の山々が見える。この一角に大台ケ原もあるのだろうが、よく分からない。

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 小普賢岳のコルに到着。健脚の人はこの山に登った後、大普賢を目指すらしいが、われらにそんな余裕はない。

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 コルを下ると、大普賢岳の姿が見えた。それは釣鐘のような形で、絶壁の山である。梯子、梯子の連続で、まるで高層ビルの非常階段を登っているような感じだ。ここから頂上までカメラ撮影はゼロ。撮影するような気持ちの余裕がなかった。

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 登り始めて3時間半、標高1780mの頂上に到着。女房は私より数分早く着いて、友達にメールしていた。大普賢岳は、大峰奥駈道の途中にある。

 頂上にはハエのような虫が大量に飛び交っており、昼食を摂る気にもならない。5分ほどとどまり、シャクナゲの群生地に向かった。
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 視界の先に峰々が。山の名前は分からないが、霊峰という雰囲気がある。

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 釣鐘のような山は小普賢岳。

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 「水太覗」。うまく撮影出来なかったが、ここは垂直の斜面が奈落の底へ続く。決死の思いで、この絶壁の縁を歩くのも行者の修行なのだ。私なら、軽く背中を押されただけで、あの世行き・・・。

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 大普賢岳直下にあるシャクナゲの群生地。しつこく花の写真をもう一回。ここでおにぎりを二つ食べ、山に必ず携行する明治製菓の「即攻元気」で元気をつける。

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 さあ、下山だ。大普賢岳の中腹を巻いてコルへ。その途中、女人禁制の山上ヶ岳の方角からほら貝の音が何回も聞こえてきた。さすが修験道の山である。

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 下山の途中、トウヒの大木に爪で引っかいたような跡があった。クマだろうか。

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 目にしみる新緑をまぶたに焼き付けて帰途へ・・・。

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 帰りは、川上村にある秘湯・入之波(しおのは)温泉で汗を流す。このブログで取り上げるのは2回目だ。温泉にカルシウムが多く、湯船は鍾乳洞みたいになっている。湯の効能書きに「婦人病、特にヒステリーに効く」とある。しかし、これはいささか疑わしい。理由はあえて書かない。

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       この日の歩行時間は、休憩を入れて6時間45分。



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