光明寺の会津墓地に参る

 厳しい寒さが一段落したので、京都に出かけた。左京区にある金戒(こんかい)光明寺にある「会津墓地」にお参りするためだ。大津から京阪電車に乗って蹴上で降りた。お寺までは、歩いて半時間くらいだろう。

 琵琶湖疏水のインクラインを右手に見ながら歩いた。まずは南禅寺の境内をぶらぶらしようと思った。朝も早いのに、すでに観光客がたくさん来ていた。京都は季節を問わず、どこへ行っても人が多い。さすが千年の都である。

 参道を進むと、右手に煉瓦造りの疏水の水路閣が見えてくる。古刹の中にあって少しアンバランスな構造物だが、あたりの景観に溶け込んでいるのが不思議である。疏水の大事業は、明治天皇が京都のために残されたご加護金によって建設された。

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 南禅寺は、亀山上皇の離宮跡に建てられた臨済宗総本山だ。巨大な山門を見上げながら、ふと、明治天皇が東京に移られて何年になるのだろうと思った。暗算は苦手だが、答えは145年。明治は遠くへ行ってしまった。

 明治天皇は「ちょっと行ってくる」と言われて東京に向かわれたという。本当にそうおっしゃったかどうかは分からないが、京都の人々からすれば、いずれ京都御所にお戻りになると思っている。地元政財界も同じ思いで、京都御苑に迎賓館を誘致する活動を繰り広げ、実現させた。

 そもそも、江戸城の城壁と堀に囲まれた皇居は、どこかいかめしい感じがする。それに対し、京都御所は京の町と同じ地平にあり、もちろん城壁も堀もない。物理的にも心理的にも、国民との間に敷居がないのだ。昔からそれほど大きな自然災害のない京都に、なるべく早くお戻りになればいいと思う。

 細川家別邸などが建ち並ぶ岡崎の邸宅街を歩き、光明寺に向かう。京都に通算6年もいたことがあるが、ここへお参りするのは初めてだ。NHK大河ドラマ「八重の桜」は会津ブームを巻き起こしているが、今回の「会津墓地」へのお参りはそれと関係がない。

 チャンバラ好きの私は新撰組ファンである。新撰組を配下に置いていた京都守護職の会津藩にも親しみを感じ、薩長や一部公家にはめられて戊辰戦争に追い込まれた会津に深く同情するようになった。戊辰戦争の戦死者を埋葬した光明寺へは、いつかお参りしようと思っていた。会津贔屓の私にとって、それは宿題のようなものだった。

 黒谷の小高い丘にある光明寺には、多くの参拝者が訪れていた。用心深かった徳川家康が、京都に変事があれば陣を張れるようこの寺を城構えにした。知恩院も同じだと言われる。多くの人員を収容できる広さがあり、京都御所にも近い。

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 天誅や攘夷の声ととともに生首がポンポン飛んだ動乱の幕末、治安維持の命を受けた京都守護職松平容保公は藩士千人を率いて光明寺に入陣した。これが会津滅亡の始まりだった。

 この本堂で、容保公は藩士を前に悲壮な覚悟を述べたのだろう。越前藩主松平春嶽はずるい男で、自分で守護職を引き受ければいいのに、病気で伏せっていた容保公の枕元にまで押しかけ、再三にわたって守護職就任を迫った。薩長や公家を敵に回し、出費も膨大な損な役回りで、国元家老西郷頼母が体を張って就任を諌めたことでも知られる。

 三重塔がそびえる黒谷の丘には墓地が拡がり、その一角に会津墓地があった。それぞれの墓石は小さく、肩を寄せ合うように建てられている。墓石に刻まれた「会津」のかすれた文字が痛々しい。会津の悲劇に同情する人たちだろうか、一人二人と訪れ、線香を手向けている。私の目に熱いものが込み上げてきた。

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 幕末、京都に「会津の小鉄」という侠客がいたという。会津藩の口入れか密偵だったのかもしれない。鳥羽伏見の戦いで多くの藩士が戦死し、そのまま放置されていた。藩に恩義を感じていた小鉄は遺体を収容し、光明寺の墓に埋葬したという話を何かの本で読んだ。近年まで京都にあった「会津小鉄会」というヤクザ組織はそのなごりかもしれない。

 このあと吉田山を越え、今出川通りに出た。この通りには皿うどんと長崎ちゃんぽんの店がある。昔、子供たちを連れてよく食べに来た。皿うどんの具は薄味だが、味に切れがあった。懐かしいので20年ぶりくらいで店に入った。店内の様子は昔と何も変わらなかったが、親父の姿はなく、息子に代替わりしていた。皿うどんの味も少し変っていた。

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 鴨川の遊歩道を歩き、帰途についた。途中、亀の形をした飛び石を越え、対岸にも渡ってみた。若者が能楽らしき笛を練習していた。そばの石に腰かけ、空気を裂くような鋭い笛の音色にしばし耳を傾けた。鴨川の風に少し春を感じた。いい日和に、念願の会津墓地に参ることが出来て良かった・・・。

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「雨月物語」と「茶わん祭り」

 大津の映画館で、「ご当地映画祭り」と題して滋賀にまつわる作品が2月中旬から順次上映されている。その第一弾は日本映画の巨匠・溝口健二監督の傑作「雨月物語」だ。上映の日を心待ちにしていたので、さっそく観に行った。昭和28年制作の映画であり、フィルムはひどく劣化していたが、傑作にふさわしい映像だった。

 この作品を観るのは、これで3度目である。何度観ても飽きることがない。戦国時代の湖北を舞台に、戦乱に翻弄される農民の姿が描かれている。ここは私の故郷であり、スクリーンに映し出される葦の湖畔や山にへばりつく田んぼの風景は、遠い記憶の中にある私自身の原風景なのだ。

 映画の原作は、江戸中期に書かれた上田秋成の「雨月物語」という怪奇読本である。映画の脚本家が近江を舞台にして書き直したようだ。セリフの中で、主人公の陶工が「金を儲けて中之郷に蔵を建てる」という下りがある。「中之郷」は、平成の市町村合併で長浜市に編入されたが、昔は余呉村の集落の一つである。映画はこの寒村から始まる。

 時代は、羽柴秀吉と柴田勝家による賤ケ岳の合戦の前夜だ。主人公の源十郎は農作業のかたわら陶器を焼いている。秀吉の軍勢が集結してにぎわう長浜の城下に、大八車に焼き物を積んで売りに行った。すると飛ぶように売れて大金を持ち帰った。

 妻(田中絹代)はお金よりも、親子3人の平穏な生活を望んだ。しかし源十郎は狂ったように陶器を作り、窯を焚いた。その最中、柴田の軍勢に襲われて山に逃げたが、この間に陶器は見事に焼き上がっていた。これを舟に積んで湖を渡り、また売りに行った。

 すると、市場の露店に美しい女性(京マチ子)が現れ、陶器を買った。品物を届けに行くと、そこは茫々とした湖畔に建つ広壮な屋敷だった。女性は、織田信長に滅ぼされた豪族朽木氏の姫・若狭と名乗った。源十郎はその日から、若狭と妖しくも甘美な日々を過ごすことになる。

 外出した源十郎は、修験者のような僧から死相が出ていると言われ、体中に厄除けの文字を書いてもらった。屋敷に帰ると、若狭に郷里へ帰りたいと訴え、半狂乱になりながら刀を振り回して暴れた。

 やがて源十郎は現実に引き戻された。意識を失って倒れていたのは、かつて朽木氏の屋敷があった場所だった。若狭との日々は幻だったのだ。

 源十郎が夜遅く故郷に辿り着くと、古ぼけた家に妻と子供が待っていた。夫の帰りを喜ぶ妻は、貧しくとも幸せに暮らそうとつぶやく。その切なく、しみじみと語る姿が、モノクロの見事な映像によって描かれる。

 しかし、源十郎が見た妻はすでに落ち武者に殺され、この世にいない。これもまた幻だったのだ。彼は土饅頭の下に眠る妻に詫びた。窯の煙がたなびく寒村の風景とともに、映画は終わる。60年前にこの映画が投げかけた意味について、下手な解釈はやめておこう。

 映画の舞台になった湖北地方に「上丹生」という100軒ばかりの集落があり、平安時代から続く「茶わん祭り」という奇祭が行われている。良質の陶土が産出し、この土で焼いた陶器が丹生神社に奉納され、これが祭りの始まりとされているのだ。昭和36年、滋賀県の無形民俗文化財に指定された。

 祭りは、数年に1回しか行われない。以前は3年ごとだったらしいが、前回は6年ぶりだったと聞く。祭りを行うには、踊りなど様々な祭りの役割を担う小学生が最低でも13人必要だそうだ。ところが現在は3人しかおらず、他の集落から借りることも禁じられており、当分祭りを行うことが出来ないという。

 永宝山、壽保山、丹保山の三基の山車が、祭囃子もにぎやかに集落を巡行する。山車には陶器と人形によって飾り付けられた高さ10メートルの支柱が掲げられている。古来の物語から芸題を選び、陶器と人形によってその場面を表現しているのだ。

 大津祭りや高山祭りのような華麗さはないが、支柱の飾りが倒れそうで倒れない絶妙のバランスによって組み上げられている。観衆はその危うさに歓声をあげ、どよめくのだ。

 皿、茶わん、花瓶などをわざとアンバランスに組み上げる技は、門外不出の秘伝である。集落でも数人しか知らないという。制作は上丹生にある資料館「茶わん祭の館」で進められるが、祭りの保存会のメンバーや職人の家族も立ち入ることが出来ない。集落の一部の人たちに連綿と伝えられる祭りの文化であり、「奇祭」と言われるゆえんなのだ。

 今私は、ブログを書きながら遠い昔の記憶を追いかけているが、朧(おぼろ)のようにもやもやしたものが晴れない。「茶わん祭り」をこの目で見たのか、見なかったのか・・・。錦をまとった山車が曳かれ、竹竿のような棒がしなり、飾り付けられた陶器がカランとう音をたてる。目を閉じると、そんな光景が浮かんでくる。しかも総天然色なのだ。

 しかしそれは、いつかテレビか何かで見た光景なのかもしれない。自転車で行ったのか、バスで行ったのか、誰と行ったのか、そのような具体的な記憶は何もない。時が経てば、人間の記憶はいい加減なものなのだ。まして年を取れば、「幻」と「現実」の間をさまよいながら生きているのかもしれない・・・。

噴飯もの・・・丹羽前中国大使

 きのう日曜日の朝に放送されたテレビ朝日の報道番組に、前中国大使の丹羽宇一郎氏が出演していた。その際の彼の発言は実に噴飯ものであり、黙っていられなくなった。

 彼は伊藤忠商事の会長を務めた人物で、民主党政権が誕生した時、民間人として異例の中国大使に就任した。彼の発言には、中国を喜ばせる内容が多く、「どこの国の大使か」と物議をかもした。そんな経緯もあり、昨年秋には事実上更迭された。

 政権交代を果たした民主党は、経済人として中国にパイプのある丹羽氏を登用した。パイプがあるからといって、したたかな外交を展開する中国に太刀打ちできるのか、日本の大使にふさわしい識見があるのか、当時から疑問視する声が少なくなかった。

 さて番組では、尖閣諸島の国有化について話が進められた。ロシアのウラジオストックで開かれたAPECか何かの国際会議で、野田首相と中国の胡錦濤総書記が立ち話をした。その際、総書記は「尖閣を国有化しないでほしい」と注文を付けたという。

 ところがその数日後、野田政権は尖閣の地主から島を買い取る、いわゆる「尖閣国有化」を閣議決定した。領土を国有化するのは日本の自由だが、中国はこれに反発して現在のような緊張が続いている。

 そこで丹羽氏は「会談のすぐ後に国有化したのは、総書記にとって顔に泥を塗られたものと受け取った。総書記といえば、日本では天皇ですよ」と言った。その後も、「総書記は日本の天皇と同じですよ」と繰り返したのだ。

 彼は野田首相の「約束違反」をなじるような口ぶりだったが、それよりも「総書記は日本でいえば天皇」という発言こそが大きな問題なのだ。天皇陛下と中国の総書記を同じレベルでとらえること自体が間違いである。

 総書記は政治権力のトップであるが、天皇陛下は日本国の象徴であり、精神的支柱なのだ。総書記は中国の国家元首に違いはないが、天皇陛下を政治問題の場で論じるのが間違いなのだ。

 まして中国は共産党の独裁国家であり、その最高権力者もまた独裁者なのだ。それと同列に「日本で言えば天皇ですよ」、つまり天皇陛下が政治権力の長のような言い方には、あきれて物が言えない。彼は大企業のトップを務め、頭はいいのかもしれないが、はっきり言って教養がないし、歴史を知らない。

 そもそも中国には日本のような万世一系の天皇が存在したことはなく、武力などの力によって国を支配した「王」が長い中国の歴史に名前を連ねているに過ぎない。

 丹羽氏は中国の「皇帝」や「王」、そして戦後に成立した共産党国家の総書記などと、日本の天皇を混同しているのではないか。単なる無知としか思えないが、彼を起用した民主党の思慮の浅さにも問題があった。

 彼は態度もでかいが、礼儀も知らない。「総書記は日本の天皇と同じ」とは何たる礼を失した言葉だろうか。日本国を代表したことのある前大使なら、「天皇」とは言わず、「天皇陛下」と呼ぶべきである。大使があらゆる国益を守るのは言うまでもないが、守るべき最大のものは国の尊厳である。

 こんな話があるので、付け加えておこう。丹羽氏が伊藤忠の役員時代のことである。作家深田祐介さんのインタビューを受けた時、彼は「将来、中国を中心にした大中華圏の時代が到来する」と断言した。そして、「その時の日本はどうなりますか」という質問には「中国の属国になります。そのように生きていけばいいのです」と言ったという。

 もちろん深田さんは「どうして日本は中国の属国にならなくちゃならないのか」と食い下がったが、「日本が幸福かつ安全に生きる道だからです」と平然と言ってのけたという。

 中国に「日出る国から」という上から目線の親書を送った聖徳太子が腰を抜かしそうなエピソードでさる。彼には、日本の誇りも何もない、そういう男なのだ・・・。

禁煙して丸1年・・・

 煙草をやめてちょうど1年になった。この間、一本も吸っていない。完全、完璧な禁煙だ。意志が弱い私がよくぞやったと思う。誰も褒めてくれないので、自分で自分を褒めている。

 ただ、煙草を吸っている人のそばににじり寄り、気付かれないよう漂う煙を吸ったことが何度かあった。年末に煙草を吸った夢を見たし、禁煙を始める前に買っておいた2箱のマイルドセブンは今も捨てられないでいる。まだ、未練たっぷりなのだ。

 自分の力だけで禁煙は出来なかったと思う。ニコチン依存を緩和させる薬のお陰だ。それまでに何回も禁煙に挑戦したが、最短で半日、最長でも2週間くらいで挫折した。ニコチンが切れると発狂しそうになり、吸い殻が道に落ちていないか探した事さえある。しかし、医者からもらった薬は劇的に効いたので、思ったより苦労しなかった。

 煙草を吸い始めたのは18歳のころだった。大学の先輩に1本もらい、それが始まりだったように思う。貧乏学生の頃は、吸い殻、つまり「シケモク」の付け根に爪楊枝を刺して吸っていた。実に懐かしい記憶だ。

 吸った煙草の銘柄は、「しんせい」から始まり、「いこい」「チェリー」「ハイライト」、最後は「マイルドセブン」だった。当時「しんせい」が40円、「いこい」が50円、今は1箱400円以上にもなっている。

 当時は男女を問わず、学生の多くが煙草を吸っていた。煙草は、ビートルズ、学生運動、デモなどとともに若者の文化みたいなものだった。社会は今と違って喫煙者に寛容で、電車の座席には灰皿が付いていたし、映画館で吸ってもやかましく言われなかった。今は、歩きながら吸っていると、煙を手で払いのける意地悪い女性がいる。隔世の感がある。

 半世紀に及ぶ長い生活習慣を断ち切ることが出来た。しかし心のどこかに、「無理しなくてもよかったのではないか」という恋々とした気持ちが残っている。

 煙草は私の体に合っていたように思っている。咳き込んだり、えづいたりしたことはなかったし、煙草をまずいと思ったこともなかった。「今日も元気だ、たばこがうまい」というCMが昔あったが、その通りだった。煙草を吸えば仕事がはかどったし、朝の1本、食後の1本は至福のひと時だった。

 それなのになぜ、禁煙しようと思ったのか。「健康に悪い」という呪縛から逃れられなかったのだ。早い話、長生きしたいと思った。しかし、禁煙の前も後もそれほど体調に変化はない。良かったのは、山歩きが少し楽になったことだが、体重が5キロも増えたので息切れは元に戻り、差し引きゼロのような感じである。

 あえて利点を上げよと言われれば、月1万円余りの煙草代がいらなくなったことと、女房や娘たちから小言を言われなくなったことくらいである。

 半世紀もの間に体内に蓄積されたニコチンやタールは、そう簡単に排出されるとは思えない。もっと早く禁煙していれば効果はあったかもしれないが、もはや遅すぎるとのではないか。そんな思いが、少しある。

 「残りの人生を考えれば、もう我慢しなくていいんだよ」。悪魔のささやきが聞こえて来る・・・。

映画「東京家族」を観る

 山田洋次監督の映画「東京家族」を観た。家族とは何か--。これは山田監督のライフワークであり、この作品も老いた父母と子供たちをめぐる家族の物語である。小津安二郎監督の名作「東京物語」を念頭に、長年構想をあたためてきた作品という。

 「東京物語」が上映されたのは、戦後復興の真っただ中の1953年だった。それからの日本社会は、所得倍増、高度成長、バブル崩壊、そして東日本大震災という未曽有の危機を経験した。震災は、家族や人々の絆を考えるきっかけともなった。山田監督は、今の時代に家族をどう描くのか、とても興味があった。

 映画は、瀬戸内海の島で暮らす元教師の父親(橋爪功)と母親(吉行和子)が、東京にいる3人の子供を訪ねる場面から始まる。父親は70歳くらい、母親は60歳の後半の設定だろう。長男は開業医、長女は美容室を経営し、二男は舞台美術の仕事で食いつなぐ独身である。

 滞在する長男の家も、長女の家も手狭である。両親はどこか遠慮がちで、所在なげでもある。そこで子供たちは相談し、横浜の高級ホテルで過ごしてもらおうと送り出した。ホテルの洋食を食べ、窓外の都会の風景をながめ、ふわふわのベッドに寝そべるのだが、そんなホテルの生活になじめず、1泊しただけで帰ってきてしまった。

 その夜、母親は二男のアパートに行った。息子と水入らずの時を過ごしていると、美しい女性が訪ねてきた。東日本大震災のボランティアで知り合った婚約者だという。母親は、気だてのいいその女性をたちまち気に入った。翌日、上機嫌で長男の家に帰って来たが、二階への階段を登る途中、昏倒した。救急車で病院に運ばれたが、帰らぬ人となった。

 島の自宅で葬式を営んだ。子供たちは母を亡くした父親のこれからの生活を心配した。長男は東京の自宅を増築し、そこへ引き取ると言った。しかし父親は「子供の世話にはならない」と言って固辞した。穏やかな言い方だったが、有無を言わせぬ「宣言」のように聞こえた。

 私自身のことになるが、この正月、息子夫婦が帰省した時、同じ事を言った。すると女房から「そんな事を言うものじゃないわよ」ときつくたしなめられた。「私が先に死んで、病気になったらどうするの。葬式はどうするの。偉そうに言っても、どっちみち子供の世話になるのよ」。確かにそうだが、しかし違うのだ。

 「世話にならない」は、強がりでも意地っ張りでもない。少し格好を付ければ、人生に対する「覚悟」のようなもの、子供に甘えてはならないという「矜持」のようなものを持ちたいと願っているのだ。子供の手や肩を借りることなく、最後まで自分の足で歩き続け、そしてある日、膝を折るようにしてその場で死にたいと思っている。

 もう一つ、山田監督からのメッセージがあるように思う。東日本大震災、福島の原発事故によって故郷を追われて生活する人が、今なお30万人を超えている。そのすべての人が、故郷に帰りたい、故郷で生をまっとうしたいと願っているはずだ。

 これと同じように、「東京家族」の父親も、東京で子供の世話になるより、妻と暮らした島にいたいと願うのは自然のことかもしれない。子供から説得されても故郷を離れないお年寄りが多い。マスコミなどはそれを「孤独」などと言うが、そうではないだろう。そこに根付いた人間関係があり、耕したり花を植えたりする土があり、安らぐ空間がある。

 映画は次のようなラストシーンを迎える。長男と長女はすぐに帰り、二男は父親とともに数日過ごし、島を離れた。父親は小さな畑を耕し、誰もいなくなった居間に座って足の爪を切る。のどかな瀬戸内の海が光っている。

 隣家の夫婦と中学生らしい少女が、老人をそれとなく見守っている。ご飯を届けたりもする。そして少女は学校から帰ると、いつものように老人の愛犬を散歩に連れて行く。それらは、ごく自然な日常なのだ。そこで映画は終わる。

 訥々と、さりげなく語られる家族の風景。さすが名匠・山田監督の作品である・・・。

LCCで鹿児島に行く(終わり)

 鹿児島旅行の3日目、朝5時ごろ目が覚めた。女房と娘はまだぐっすり眠っている。起こさないよう忍び足で部屋を抜け出し、ホテルの大浴場に向かった。海に近いからか、温泉水は少し塩っからい。露天風呂から空を見上げると、星が青く輝いていた。

 6時半を過ぎたので、そろそろ外が明るくなるだろう。ホテルのロビーのガラス越しに、カメラを手にしてその時を待った。6時55分、わずかに明るくなった空にヌーッとその姿が現れた。見事な円錐形が天を衝く日本百名山の開聞岳(924m)である。

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 冬の富士山を間近から見上げた時、槍沢の樹林から夕日に赤く染まった槍ヶ岳を見た時、そして今回の開聞岳。そのどれも、怖いほどの感動を覚えた。いや、感動を超えた畏れという特別の感情に胸が押しつぶされそうになったのだ。

 さて、この日最初に訪れたのは、指宿市街から半時間ほどの山川港だ。女房がぜひ寄ってみたいと言った。われら夫婦の新婚時代、釣りを兼ねて屋久島へ行ったのだが、その帰りの船が着いたのが山川港だった。女房は「覚えていないの?」と責め立てるが、「まったく何も覚えていない」。女房はむっとしていた。

 砂むし温泉に向かう途中、菜の花畑を通りかかった。ここは、開聞岳の絶景ポイントで、地元の人が菜の花と一緒に撮影するようにと植えてくれているようだ。開聞岳は何度見ても見事だ。山にはらせん状の登山道が付いていて、3時間半ほどで登れるらしい。いつかこの山に登りたいと思うが、それは実際、切ない願望かもしれない。

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 指宿といえば砂むしである。娘のテンションは高い。頭からタオルをかむり、熱い砂をかけてもらう。火傷しそうな熱い箇所もあって体をよじった。係りの人がわれら一人ずつの記念写真を撮影してくれた。後でカメラのモニター画面を見ていた娘は「お父さん、棺桶に入っているみたい」と大笑いしていた。 ケッ・・・。

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 温泉の蒸気でふかした薩摩芋を食べながら車を走らせ、西日本最南端のJR「西大山駅」、続いて屋久島、種子島などが望める「長崎鼻」に立ち寄った。このあたりからも、開聞岳の優美な姿を見る事が出来た。ただ、この逆の方向から見ると、山頂部がややいびつな形をしている。この世に完璧な美女がいないのと同じであり、妙にほっとした。

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 薩摩半島の突端から1時間ほど走ると、「知覧特攻平和館」がある。日本人として、ここを素通りする訳にはいかない。太平洋戦争末期、この特攻基地から若い隊員が沖縄に向けて出撃して行った。彼らの累々とした屍の上に今日の日本が築かれた。戦争についてとやかく言う前に、まずは彼らの霊に祈りを奉げたい。

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 平和館には、特攻隊員のおびただしい遺書が展示してある。親や兄弟、妻らに宛てた遺書には感謝の言葉があふれ、特攻隊員に選ばれたことがいかに名誉なことかも書かれている。自分の死を納得させようとするそんな言葉の数々が、却って悲しい。出撃は前夜に知らされるそうだが、待機する宿舎では夜中、すすり泣きが聞こえたという。誰も死にたくはないのだ。

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 一通の遺書に目がとまった。それには次のようなことが書かれていた。

 「6歳の時から私を育ててくれたお継母さん、有り難うございました。無理を言ったりしてすみませんでした。ご恩は忘れません。最後に呼ばせて下さい。お母さん、お母さん、お母さん」。

 私は込み上げる涙に耐えながらいくつもの遺書を読み続けてきたが、この「お母さん」と三度叫んだ遺書にトドメを刺されたような気持ちになった。

 昨年ミリオンセラーとなった百田尚樹著「永遠の0」は、特攻隊員の物語である。姉と弟の孫二人が、戦闘機乗りだった祖父の実像を知りたいと戦友たちを訪ね歩く。さまざまな祖父の人となりが浮かび上がり、そして最後に劇的な結末を迎える。その舞台として描かれているのが、知覧特攻基地なのだ。この本を読んでいたこともあって、平和館に足を踏み入れる前からもう私は涙ぐんでいた。

 知覧を後にして鹿児島空港に向かった。3日だけだったが、温泉、歴史、自然、戦争の記憶に触れることが出来、いい旅だった・・・。

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