蕗味噌に父の顔が重なった・・・

 和歌山の山小屋暮らしを再開したのは、3月も下旬になっていた。案の定、蕗の薹は文字通り薹(とう)が立っていて、これでは蕗味噌を作れない。すっかり諦めていたところ、敷地の藪を手入れしていた女房が、落ち葉に隠れていた瑞々しい蕗の薹を見つけ、十個ほど採ってきてくれた。

 変な話、この周辺で採れる山菜を食べないと、何か自然に逆らっているいるように思ってしまう。だからまめに山菜採りに励み、食べられるものなら何でも食べてしまう。中でも、特有の香りと苦味のある蕗味噌は大好きである。春が旬のメバルやサワラなどは風流に春告魚と書くが、蕗の薹もまさにそれだ。

 蕗味噌は毎年必ず私が作る。私の酒の肴だから、女房に手出しさせない。特別のレシピがある訳ではなく、適当に作るのだが、そこそこの味に仕上がるのだ。旬の食べ物に、下手な小細工をしない方がいいのだろう。

 料理は、まず味噌を作る。味噌を大さじ3杯、みりんも3杯、砂糖2杯、日本酒少々。これはあくまでも目安であり、味を確かめながら自分の好みに味を調える。

 次に蕗の薹を二つに切って熱湯に入れ、2分ほど茹でる。しばらく水にさらしたらよく水を切って1ミリか2ミリの大きさに刻む。これをごま油で炒め、火が通れば作っておいた味噌を混ぜる。これで出来上がり。

 今回は、出色の出来だった。辛くなく、甘くなく、蕗の風味が存分に引き出されていた。自画自賛・・・。その夜は豆腐田楽に厚く塗って食べたが、なかなか乙なものである。旬の肴にはやはり熱燗がいい。ちびり、ちびりと。

 少し酔いが回り、遠い昔の父親を思った。晩秋になると、父親は家の裏から柚子をもぎ取ってきて、柚子味噌を作っていた。それほど酒は強くなかったが、柚子味噌を肴に銚子1本ほどの燗酒を楽しんでいた。私は何度かつまみ食いしたことがあったが、苦いだけだった。

 母親は、私の小さいころから病気でずっと寝ていた。だから父親は家族の食事はもちろん、柚子味噌も自分で作っていた。箸の先の柚子味噌をなめていた父親の姿を思い出すと、哀れで切なくなる。私も柚子味噌や蕗味噌を作る。血は争えない。子供のころ苦いだけだった父親の味噌も、今はもう楽しみに変わった。

 柚子と言えば、こんな例えがある。「桃栗3年、柿8年、柚子は大馬鹿18年」--。柚子は18年も経たないと実を付けないという意味だが、この後に続く下りが振るっている。「女房の不作は60年、亭主の不作は一生」。

 亭主などは一生かかっても果実が実らないのだ。わが身を振り返ると、妙に納得してしまう。あぁ、蕗味噌が一層ほろ苦く、酒が胃にしみる・・・。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130328173256.jpg

vcm_s_kf_repr_468x351_20130328173328.jpg

vcm_s_kf_repr_468x351_20130328173356.jpg

vcm_s_kf_repr_468x351_20130328173424.jpg

 
スポンサーサイト

クロモジの花咲き・・・ホーホケキョ

 早朝、ウッドデッキに出てヤマガラにヒマワリの種を与えていると、東側の森からウグイスの鳴き声が聞こえた。「ケ、ケキョ」・・・と、まだぎこちない。鳴き方は繁殖期やホルモンと関係あるらしいが、でももうすぐ「ホーホケキョ」と正調で鳴いてくれるだろう。

 今年の冬は山小屋にいなかったので、初鳴きがいつごろだったか分からない。ここ生石高原の森では例年、2月27日とか28日が多い。今年は桜の開花が早いので、初鳴きも少し早目ではなかったかと思う。

 冬の間は、寒さのため心も体も萎縮してしまう。ウグイスの鳴き声は、体内に埋め込まれたスイッチをONにし、そんな縮んだ心と体を解き放ってくれる。年を取るとなお更、鳴き声とともに訪れる春がこの上なくうれしい。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130326084100.jpg

 こちらの山では、山桜が咲くのはまだまだ先のことだ。その代わり、クロモジの花が咲き始め、春の訪れを告げている。桜のような派手さはないが、瑞々しい黄色の花は心を時めかせるものがある。新芽の周りに粒々の小さな花が咲くので、普通の花とは少し変わっている。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130326084155.jpg

 クロモジはここの森にたくさん自生している。楊枝に使われている木だが、木や葉に鼻を近づけるといい匂いがする。私は女房に頼まれ、和菓子用の楊枝を作り、これを日常的に使っているし、知り合いにもあげたりしている。

 晩秋になるとクロモジの木を切り、幹を水で洗うと鮮やかな緑色になる。これを半年ほど乾燥させ、小刀で削って様々な楊枝を作る。不器用な私でも、見本の写真があるのでそれなりに作れるのだ。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130326084240.jpg


 

春だ、山小屋暮らしの再開だ・・・

 さぁ、和歌山の山小屋へ帰る日が来た。軽トラの荷台に、衣装ケースやガスコンロ、鍋釜などを積み込む。これから年末まで暮らすための生活必需品だ。幼児を連れた若い母親が、軽トラの積み荷をチラッと見て通り過ぎて行った。夜逃げと思われたかもしれない。

 昨年末から80日余り、大津の自宅で過ごしていた。温暖な和歌山とはいえ、標高800mの山小屋の冬は寒いので、5年ぶりに逃げ帰っていたのだ。自分の家なのに、他人の家のようなよそよさしさを感じた。無精ひげを伸ばし、ホーム炬燵に潜り込む退屈な日々。閉門、蟄居・・・。悲運にうなだれる武士を想像したこともあった。

 今は、口笛を吹きたくなる高揚した気分だ。見慣れているはずの太陽が、今日はなぜかまぶしい。軽トラの助手席で、普段小言の多い女房もうきうきしているように見える。大好きな野菜作りのあれこれを想像しているのだろう。途中のホームセンターで、キタアカリというジャガイモの種芋を買った。

 大津から山小屋までは、名神高速と阪和道を通れば2時間ほどだが、奈良を経由すれば高速料金を使わなくて済む。4時間もかかるが、何も急ぐ必要はない。奈良から和歌山に入ると、紀ノ川を見ながら走る。川は大峰連峰からの雪解け水で増水していた。

 紀ノ川から離れ、桃山町に入った。町の名前の通り、桃の産地である。「あら川の桃」はブランド品だ。桃色の花が咲き始めており、果樹園のあちこちで農家の人たちが摘果作業をしていた。

 しばらくすると、生石高原への山道に入った。麓の木々は芽吹きが始まっていたが、高原にはまだ冬の残滓が残っていた。夕暮れ時、やっと山小屋に着いた。大津の自宅で満開だったミニラッパスイセンは、花芽さえ付いていない。コシアブラの天麩羅を楽しみにしていたが、食べられるのはやはり4月に入ってからのようだ。

 山小屋裏の杉林で栽培しているキノコを見て回った。強風が吹いたのか、シイタケのホダ木の一部が倒れていた。すでに食べられそうなシイタケがたくさん出ていた。この春は豊作かもしれない。薪を積んでいる縁の下を覗くと、薪が一列そっくり倒れたいた。

 あーあ、仕事が増えてしまった。そう言いながら、実はそれほど困ってはいない。退屈な日々から解放されて、やるべき仕事があるというのはうれしいことなのだ。これが片付けば、女房の畑を手伝い、山菜取りに夢中になり、魚釣りにも行かねばならない。さぁ、山の暮らしの再開だ・・・。

     ↓ 満載の軽トラでいざ出発
vcm_s_kf_repr_468x351_20130323111355.jpg

     ↓ 高野山を左に見ながら京奈和道(無料)を走る
vcm_s_kf_repr_468x351_20130323111442.jpg

     ↓ 桃の花が咲き始めていた
vcm_s_kf_repr_468x351_20130323111520.jpg

     ↓ 生石高原に向けて急な坂道を走る
vcm_s_kf_repr_468x351_20130323111605.jpg

     ↓ 高原に着いた。「山の家」の人たちは元気だろうか 
vcm_s_kf_repr_468x351_20130323111637.jpg

     ↓ 強風が吹いたのか、シイタケのホダ木が倒れていた 
vcm_s_kf_repr_468x351_20130323111716.jpg

     ↓ 薪も倒れていた
vcm_s_kf_repr_351x468_20130323111742.jpg

山暮らし再開へ・・・ヤマガラが迎えてくれた


 日差しや風に、ふっと春を感じる。先日には九州から桜の便りが届いた。今年の開花は例年に比べて早いと言う。東大寺二月堂のお水取り、そのクライマックスのお松明も済み、いよいよ春の到来である。

 今年の冬は5年ぶりに大津の自宅で過ごした。普段暮らしてる和歌山の山小屋は標高800m余りの山間にあり、ひどく寒い。痩せ我慢をするような年齢でもなく、冬の間だけ大津に逃げ帰っていたのだ。

 そろそろ山小屋暮らしを再開しようと思い、先日、その準備のため一度山小屋に上がってみた。窓やガラス戸を開け、空気を入れ替えた。水道の元栓を開けると、水が勢いよく出てきてひと安心だ。

 翌朝、ウッドデッキに出て口笛を吹き続けた。するとヤマガラ2羽が一目散、北側の森から飛んできた。デッキの手すりに止まってキョロキョロしながら私を見ている。「久し振りだなぁ」・・・。

 ヤマガラはヒマワリの種を載せた私の手に、ためらうことなく飛び乗った。山小屋を離れて80日余りになるが、ちゃんと覚えていてくれたのだ。毎日決まって餌をくれた山小屋の夫婦。年の瀬に突然いなくなり、戸惑っていたかもしれない。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130315085526.jpg

 どれも同じように見えるヤマガラだが、この2羽は間違いなく私たち夫婦の「友人」である。餌を催促するとき、必ずデッキに置いているベンチの特定の位置に乗り、室内をうかがう。その仕草にも特徴があるのだ。

 3月に入ると、ヤマガラやシジュウガラは巣作りを始める。わが山小屋の巣箱にも毎年カップルが飛来し、せっせと巣作りに励む。巣箱は秋にいったん取り外し、中を掃除することにしているのだが、今年は取り付けるのをすっかり忘れていた。早く取り付けなければならない。

 早速、山小屋裏の木に巣箱二つをくくりつけた。蛇が巣を狙うので、高さは3m以上、木も太い方がいいと思う。お昼を食べていると、「チー、チキチキチキ」という鳴き声が聞こえた。ヤマガラは普通「ピー、ピー」と鳴くけれど、「チキチキ」は恋の合図だろう。

 カメラを持って外に出てみると、何と、もうヤマガラが巣箱の穴に止まり、中を見ているではないか。もう一つの巣箱の木にも一羽が止まっている。「待っていてくれたのか・・・」。それは、小さな感動だった。

vcm_s_kf_repr_351x468_20130315090242.jpg

     ↓ 杉の小枝にヤマガラ(左)が止まり、巣箱の様子を見ている

vcm_s_kf_repr_468x351_20130315142334.jpg

     ↓ 巣箱に止まった

vcm_s_kf_repr_468x351_20130315142528.jpg

     ↓ 巣箱の穴に止まり、中を見ている

vcm_s_kf_repr_468x351_20130315142644.jpg

     ↓ ついに、巣箱に入った

vcm_s_kf_repr_468x351_20130315142817.jpg

 キノコの菌を接種するのも懸案の作業である。接種するホダ木は例年より少なく、シイタケ、ナメコ合わせて20本だ。裏の杉林には、発生期を迎えているホダ木が何百本もあり、たくさん作る必要がない。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130315085216.jpg

 「トン、トン、トン」。北島三郎の歌「与作」ではないが、こんな歌を口ずさみながら木槌でキノコ菌の駒を打ち込んでいく。「トン、トン、トン」の音が響けば、わが山小屋の春なのだ。うきうきしながら、木槌を振るう。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130315085304.jpg

vcm_s_kf_repr_468x351_20130315085419.jpg


 しかし、自然はそう甘くない。翌朝、外を見ると雪が降っていた。気温はマイナス3度。三寒四温とはよく言ったものだ。花冷えという言葉もある。人間の期待通りに、すんなりと春は来てくれない・・・。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130315085015.jpg

vcm_s_kf_repr_468x351_20130315090359.jpg




 

奇岩、巨石、魔崖仏・・・湖南アルプス

 もうすぐ和歌山の山小屋に帰ろうと思っているが、大津にいる間に、ぜひ登っておきたい山がある。湖南アルプスの鶏冠山から竜王山への縦走コースだ。先日、少し春を感じるような好天になったので、バスで登山口に向かった。

 この一帯では1300年ほど前から宮殿や社寺の建築用材が次々と伐り出され、禿山になってしまった。表土が洗い流され、奇岩、巨石がむき出しになった面白い山である。魔崖仏や廃寺跡もあり、歴史を感じる。好きな山の一つであり、今回が3度目の登山だ。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130312123738.jpg

     ↑ よく整備された気持ちの良い登山道を歩いた。時々、水かさの少ない谷川を渡る。

vcm_s_kf_repr_351x468_20130312123810.jpg

     ↑ 「落ケ滝」の標識があり、寄り道した。滝の流れは細いが、どこか枯山水の趣がある。 

vcm_s_kf_repr_351x468_20130312123841.jpg

     ↑ 道は次第に急になり、ロープをつかんで登る難所もある。 

vcm_s_kf_repr_468x351_20130312123916.jpg

     ↑ 新芽が膨らんでいた。本格的な春はもうすぐだ。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130312124002.jpg

     ↑ 鶏冠山(491m)の頂上に着いた。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130312124037.jpg

     ↑ 昼食はカップ麺。箸を忘れてきたので、木の枝を折って箸を作った。

vcm_s_kf_repr_351x468_20130312124111.jpg

     ↑ こんな花崗岩のトンネルをくぐる。落ちて来ないか、少しビクビク。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130312124146.jpg

     ↑ 向こうに天狗岩が見えてきた。

vcm_s_kf_repr_351x468_20130312124351.jpg

vcm_s_kf_repr_468x351_20130312124441.jpg

vcm_s_kf_repr_468x351_20130312124552.jpg

     ↑ 天狗岩はこんな形。

vcm_s_kf_repr_351x468_20130312124644.jpg

     ↑ 転げ落ちそうなこんな巨岩もある。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130312124732.jpg

     ↑ 肥満女性のお尻を想像してしまう。

vcm_s_kf_repr_351x468_20130312124826.jpg

     ↑ 岩に「茶沸観音」が彫られていた。信仰の山である。

vcm_s_kf_repr_351x468_20130312124922.jpg

     ↑ 竜王山の頂上(604m)に着いた。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130312125017.jpg

     ↑ 振り返ると、三上山が見えた。近江冨士とも呼ばれている。

vcm_s_kf_repr_351x468_20130312125114.jpg

     ↑ 重ね岩。どうしてこんな危なっかしい岩になったのだろうか。

vcm_s_kf_repr_351x468_20130312125212.jpg

     ↑ 岩の間を抜けて下山する。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130312125307.jpg

     ↑ 狛坂魔崖仏。縦6m、横4・5mの花崗岩の巨岩に三尊像が刻まれている。
      奈良時代の後期の作と言われているそうだ。

  

お伊勢参り・・・次の遷宮まで生きたいけれど

 やっと、お伊勢さん参りである。何年も前から参詣しようと思っていたが、ついつい先延ばしにしてきた。今年は20年ごとに行われる式年遷宮の年で、この秋には天照大御神など神様たちが新しい正殿、社殿に引っ越される。その前に何としてもお参りしておきたかった。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130309151850.jpg

 JRで行くなら、もちろん「青春18切符」だ。3月1日から4月10日までが春の利用期間で、普通電車なら2300円で1日乗り放題である。「青春」という名が付いているが、年齢制限はなく、むしろ中高年の利用の方が多いのではないかと思う。

 われら夫婦は伊勢神宮をめざし、早朝の電車に乗った。地図を見ると、滋賀の大津から伊勢までは近そうに見えるが、実際には結構遠い。大津駅から琵琶湖線で草津まで行き、草津線に乗り換えて柘植駅へ。ここでまた乗り換えて亀山まで行き、さらに乗り換えて伊勢市駅に行くという按配である。所要時間は約3時間だ。

 伊勢神宮は「内宮」と「外宮」(げぐう)に分かれており、まずは駅からすぐの森にある「外宮」へ。ここには、食べ物や穀物を司る豊受御神(とようけおおみかみ)が祀られている。鳥居の手前で手を洗い、口をすすいで身を清める。第一、第二の鳥居をくぐれば、そこは神の領域である。厳かな空気が漂い、ピンと背筋が伸びる。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130309152019.jpg

vcm_s_kf_repr_468x351_20130309152146.jpg

 砂利を踏みしめて正殿に向かった。門のような建物の正面に白い布が張られており、その奥に続いている正殿はよく見えない。ここで二礼、二拍手、一礼してお賽銭を入れた。その右手に、黄金の屋根が見えた。式年遷宮のため建て替え中の正殿の建物で、まばゆいばかりに輝いていた。撮影禁止である。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130309152643.jpg

 「外宮」を後にする時、多くの若者たちは鳥居の所で振り返り、正殿の方に向かって一礼するのである。若者から作法を教えられ、私たちもあわてて一礼するようにした。近ごろの日本の若者は実に礼儀正しく、親切である。このような光景を目にし、日本も捨てたものではないと思った。これに対して中国の若者は・・・いや全部言うまい。

 続いて「内宮」への参拝だ。「外宮」からは4キロほどの距離で、参拝者のほとんどがバスで向かうが、われらは歩くことにした。「せめて一生に一度」と歌われた江戸時代のお伊勢参り。「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんではないが、テクテクと1時間ほど歩き続けた。

 前方に江戸時代のような街並みが見えてきた。「おはらい町」と「おかげ横丁」である。土産物店や飲食店がぎっしり建ち並び、人があふれていた。年間何百万もの参拝者が押し寄せた江戸の昔も、もこんな光景だったのだろう。伊勢名物と言えば、女房も大好きな「赤福餅」。金看板を掲げたこの老舗もたいへんな混雑ぶりだった。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130309153200.jpg

vcm_s_kf_repr_468x351_20130309153354.jpg

 五十鈴川のほとりにある「とうふや」という店で昼食にした。私は「豆腐田楽」、女房は「あなご丼」。伊賀上野にも結構有名な田楽の店があるが、田楽は三重県の名物なのかもしれない。昔からお伊勢参りの人たちに鍛えられ、三重県は食べ物がおいしいと思う。

 いよいよ「内宮」に足を踏み入れ、神話の世界に入って行く。皇室のご先祖でもある天照大御神が祀られ、正式の名称は皇大神宮。この国の成り立ちの原点とも言うべき場所である。宇治橋を渡ると、あちらこちらに杉の巨木が天を衝いている。われらは、圧倒的な歴史の中にいることを実感する。

vcm_s_kf_repr_351x468_20130309153513.jpg

vcm_s_kf_repr_468x351_20130309153729.jpg

 まずは正殿に参拝した。日本古来の建築様式を伝えるその建物は威厳に満ちていた。高校生らしき200人くらいの集団がかしわ手をたたき、深々と頭を下げていた。ここでも、左隣の敷地で遷宮のための建て替えが行われており、完成間近のようだ。茅葺の屋根には金色の金具で飾られた10本の鰹木(かつおぎ)が載せられ、輝いていた。

 20年後にはまた再び、同じように社殿や鳥居、装束などが一新される。持統天皇の7世紀の時代から始まった式年遷宮は、伝統や様式を正確に伝え続けているのだ。

 私は女房に話しかけた。「20年後、次の遷宮も、二人でお参りしたいね」。すると女房から意外な答えが返ってきた。「えーっ、やめてよ。もう少し早く死んでちょうだい」。「だって、これから20年も三度の食事を作るなんて、堪忍してよ」。     「・・・」。

北方領土・・・引き分けとはこれいかに

 10年ほど前、知床半島へ行った帰り、納沙布岬に立ち寄った。北方領土に一番近いこの岬からは、旧ソ連が国境を引いた貝殻島の灯台がすぐ近くに見えた。われら夫婦は「領土を返せ」と叫んでみた。

 その北方領土の返還をめぐって、ロシアのプーチン大統領が「引き分け」と発言したことから、日本に変な空気が漂い始めている。「引き分け」の意味はあいまいだが、それでも領土返還に期待を寄せ、政治家も国民も少し浮き足立っているように見える。

 日本の主張は一貫して、「歯舞、色丹、国後、択捉」の4島返還だった。これまで長年の交渉では、歯舞、色丹の2島を返還し、他の2島の帰属についてはその後話し合うことになり、合意文書も交わされている。しかし、それ以降はこう着状態のままなのだ。

 だから今回のプーチン発言は一歩前進のように見えるが、しかし所詮はあくまでも引き分けなのだ。つまり国是でもある4島返還にはなり得ない。歯舞、色丹に国後をプラスして3島なのか、それとも、これに択捉の一部を入れて島の総面積で二分することなのか。

 いやそれは、日本が勝手に解釈しているだけで、したたかなロシアのことだから「2島返還が引き分けだ」と言いかねない。引き分けの真意を聞き出すため、先日、森元総理がプーチンと会談したが、この二人の顔色を見て一喜一憂するのはまことにバカらしい。ロシアは期待させておいて梯子を外す国である。

 明治の初めごろだったか、函館戦争の首領だった榎本武揚が新政府の代表としてロシアと交渉し、樺太と千島列島を交換する条約に調印した。カムチャッカのすぐ先にある占守島から歯舞群島までの千島列島のすべての島が日本の領有となった。

 この条約に基づけば、日本政府は領土返還交渉で「千島のすべてを返せ」というべきである。日本の政党でこれを主張しているのは、共産党だけなのだ。珍しく、正論である。

 その占守島におけるソ連軍と日本軍の戦闘を描いたのが、浅田次郎の小説「終わらざる夏」(上下)だ。この本を読んで初めて千島の歴史を知った。

 帝国陸軍は精鋭の戦車部隊を満州に温存していたが、太平洋戦争末期、部隊を対米戦に備え占守島に移動させた。しかし日本はポツタム宣言を受諾して降伏したので、精鋭部隊は宝の持ち腐れになるはずだった。

 ところがその数日後、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破棄し、千島に攻め入ったのだ。これが北方領土の不法占拠の始まりだった。特に占守島では激戦となり、精鋭部隊はソ連軍に大きな打撃を与えたものの、やむなく武装解除した。しかし、彼らの奮戦の結果、北海道を占領されずに済んだとも言われる。

 スターリン時代のソ連は、千島侵攻を見れば分かる通り、信義もへったくれもない国だった。シベリア抑留の歴史もそうだ。満州などから強制連行された軍人や民間人は65万とも100万とも。極寒の中で労働を強いられ、6万人以上が死亡したと言われる。

 このような苦い歴史がありながら、プーチン発言に色めき立つ。日本人はいつからロシアに寛容になったのだろうか。確かに、長くこう着状態が続いて出口が見えない。ある種の厭戦気分が、2島でも3島でもよいと思わせているのかもしれない。

 もしくは、中国が尖閣の海を脅かし、韓国が竹島を占拠し続けていることに、何らかの心理的な影響を受けているのだろうか。北方4島だけでも早く解決したいという気持ちも分からぬ訳ではない。いつまでも4島返還と言っていたら、一つも返ってこないと言われるだろう。元の島民は高齢になり、解決が急がれるのもその通りだ。

 しかし、4島の帰属問題については安易な妥協はすべきでないと思う。これからの日露交渉の行方は、世界が、特に中国が見ている。中国はアメーバ-のように、隙間やひび割れがあればどこにでも入り込んで来る国なのだ。領土問題では、日本国民に忍耐と覚悟が求められていると思うが、どうだろう・・・。


カレンダー

02 | 2013/03 | 04
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -

月別アーカイブ

ブログ内検索

全記事表示リンク

訪問者数

ランキング参加中!

PR

PR

PR