室生寺の十一面観音

 朝、急に思い立ち、奈良の室生寺へ行くことにした。急いで用意し、朝10時過ぎ、車で大津の自宅を出発した。女房は「女人高野」の室生寺に一度お参りしたいと言ってきたので、すぐに話がまとまった。高野山は明治の中ごろまで女人禁制だったが、室生寺は鎌倉時代から女性に門を開いていた。今も、女性に人気のスポットである。

 私の行きたい理由はただ一つ。国宝の十一面観音を拝観するためだ。自宅の本箱に、一冊の写真集が表紙をこちらに向けて立てかけてある。平凡社ギャラリー「十一面観音」(井上靖著、絶版)である。この表紙の観音さんこそ、室生寺の国宝十一面観音である。

 写真集を買ったのが1983年だから、室生寺の観音さんとは31年に及ぶ長い付き合いである。こんな言い方をすればひんしゅくを買うだろうが、ともかく、観音さんは絶世の美人である。ふくよかな顔立ち、切れ長の目はどこかあどけなさ感じさせる。小さな口元からは、秘めた意志の強さが伝わって来る。

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 観音さんは男性でもなく、女性でもない。性を超越した姿だろうが、それをどう受け取るかは自由だと思う。仏師は芸術家ではなく、自身の信仰心を仏像という形に表現しようとしたのだと思うが、この像を彫った平安初期の仏師に、その時代の「美」が意識されていないはずはない。

 つまり何が言いたいかと言うと、この観音さんの「美しい顔」は、1300年前の一つの標準だったということである。つまり、美しいと思う顔立ちは現代とそれほど違わないのだ。現代は、ブス、デブ、ハゲと呼ばれる人たちもテレビなどで活躍し、大いに結構なことだ。しかしやはり、沢尻エリカのような人は平安の昔も、誰もが認める美人だったはずだ。

 私が何を妄想しているか、女房は知る由もなく、軽トラの助手席で神妙にしている。1時間余りで奈良市に入り、天理から西名阪に入った。針インターで下り、山の中の道を走り続けた。「室生」の標識が見当たらず、不安になることもあった。

 実は、私が室生寺を訪れるのは二度目である。「十一面観音さんを拝みたい」などと偉そうに書いているが、前回拝観しているはずなのにまったく記憶にない。私の「観音ファン」もにわか仕立てであり、いい加減なものである。

 やっと室生寺に着いた。ちょっとケチ臭い話になるが、駐車料金600円を倹約するため、1キロほど手前まで引き返し、林道のような場所に車を止めた。言い訳ではなく、あたりをの風景を眺めながら寺まで歩けば、室生川のせせらぎが聞こえ、なるほど「山寺」という室生寺の別名を実感できるのだ。

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 たいこ橋を渡り、仁王門をくぐる。そして鎧坂と呼ばれる石段を登れば、古色蒼然たる国宝の金堂だ。この中に、あの十一面観音さんがおわす。年寄りのたわ言だが、淡い恋心、プラトニックラヴ・・・なのだ。

 金堂の廻り廊下から拝観した。中央の国宝釈迦如来立像に少し顔を向けただけで、後は左端の十一面観音像に視線が吸い寄せられた。想像した通りの美しい顔立ちだった。像の高さは196センチ、ヒノキの一木造り。装飾も豊かだ。私はリュックに入れていた双眼鏡を取り出した。

 観音の里と呼ばれる北近江の人たちは「直接観音さんを見ると目がつぶれる」と信じており、厨子が開けられても顔を伏せ、ひたすら念仏を唱えるのだ。なのに、双眼鏡で覗くなんてバチ当たり、不遜な行為である。双眼鏡のピントを合わせたその時、絶世の美女が飛び出して来たのだ。3Dの映像を見るのと同じだった。

 金堂には、重文の地蔵菩薩や十二神将など数々の像が安置されていたが、姿や顔立ちはまったく思い出せない。重文の弥勒堂に安置されていた国宝の釈迦如来坐像もよく覚えていない。十一面観音さんだけで頭が一杯になっていた。

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 金堂左手の長い石段を登ると、国宝の五重塔だ。平成10年9月、台風で塔に杉の木が倒れかかり、大きく壊れた。今は修復され、優美な姿を見せていた。ここから400段ある石段を登り、奥の院に参拝した。寺域からは真言密教の神秘性が迫ってきて、厳かな気分になった。シャクナゲの季節にまた来たいと思う。

 ここの十一面観音さんには「暴悪大笑面」がないという。普通、観音さんの頭には十か十一の仏像が載せられており、真後ろにあるのが「暴悪面」である。これは悪を笑い、人間を悪に向かわせないよう導く像である。なるほど、この美しい観音さんに邪悪な形相の「暴悪面」はそぐわない。仏師の意図を感じる・・・。

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やはり生石高原は雪だった・・・

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 一年の大半を過ごしている紀伊山地の生石高原。標高800m余りの尾根に家があるので、気温は平地より5度以上低く、冬は日中でも氷点下という日も少なくない。そんな寒冷の地で越冬するのが嫌になり、今年の冬は大津の自宅に逃げ帰っている。

 生石高原を離れてひと月ほど経ったので、数日前、山小屋の様子を見に行った。山麓から眺めると、高原は雪で白い。この分だと、道路にも雪が積もっているはずだ。標高600mの峠まで登ると、案の定、雪の道になった。

 積雪はそれほどでもないが、気温が低いので溶けずに路面に張り付いている。4WDの軽トラで無事高原に着いた。毎年、この時期に降る雪は根雪になってしまい、下手すると2月の中ごろまで雪が残ることがある。

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 軒下に掛けている寒暖計は、午後というのにマイナス1度だ。室内はまるで冷凍庫である。トイレの水洗タンクは凍ったままで使えない。水道の元栓を開いたところ、台所と風呂の蛇口から水もお湯も出たが、洗面所のお湯が出ない。石油ストーブで洗面室を暖めても効果がなく、おそらく床下の配管が凍結しているのだろう。

 縁の下に潜り込み、懐中電灯で配管を照らした。少したわんでいる所があり、ここで凍結しているかもしれない。ヘアドライヤーで熱風を吹き付けて数分すると、女房が「出たー」と叫んだ。やれやれである。

 急いで薪ストーブに火を入れた。どんどん薪を入れると、炉の温度は200度に達した。凍えていたわれらは、やっとひと息ついた。沸かしたてのコーヒーを飲んでいると、女房が「忘れたー」とまたも大声を上げた。

 大津に持ち帰っていた電気毛布を忘れてきたという。この山小屋では、電気毛布がないと寒くて安眠できない。すると女房が「湯たんぽならある」と言う。それなら問題ない。ストーブで沸かしたお湯を湯たんぽに入れ、バスタオルでくるんで布団に入れた。その晩、湯たんぽを抱いて眠ったが、朝まで十分暖かった。

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 ふと、こんなことを思った。電気毛布しかなければ、停電の時、どうしよう・・・と。落雷で停電になることがあるし、雪の重みで電線が切れることもなではない。どこかの国からサイバー攻撃を受け、電力がマヒするなんて、十分あり得る話である。

 都会ではそうでもないだろうが、山で暮らしていると落雷も多く、時々停電がある。だから山小屋には蝋燭、マッチを常備しているし、山暮らしの仲間の何人かは自家発電機を持っている。

 IT社会なんて言われるけれど、ひとたび電気が来なくなったら、家電も電話も使えない。テレビの録画も出来ない私なんかはアナログ人間の最たるものだが、生活の道具で言えば、いざと言う時、アナログが役に立つこともある。まさに、湯たんぽがそうだった。

 「アナログ」の生活用具を備えておくことは、有効な危機管理だと思う・・・。

十一面観音…向源寺(渡岸寺)

 新年から近江の十一面観音を巡っているが、いよいよ、その最高傑作とされる渡岸寺(どうがんじ)の観音さんを訪ねる。観音堂はJR北陸線の高月駅から歩いて10分ほどの所にある。ここは田んぼに囲まれた農村地帯だ。

 像を所蔵するのは浄土真宗・向源寺だが、普通は「渡岸寺の観音さん」と呼ばれている。その昔、ここに渡岸寺という寺があったらしく、その後すたれ、地名として残ったと言われる。

 国宝の十一面観音は、奈良に3体、京都に2体、大阪、滋賀に1体づつの計7体ある。それらの多くは名のある寺院に祀られているが、渡岸寺の観音さんはずっと昔から集落の人たちが守り続け、今もそうしているのだ。

 戦国時代、織田信長が浅井長政を攻めた際、この一帯は戦火に包まれた。火は寺に迫り、民衆は観音さんを救い出したが安置する堂もなく、地中に埋めて守った。ここ湖北の観音さんには、戦禍をくぐり抜けた苦難のエピソードが多い。

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 私が渡岸寺の観音さんを拝観するのは3回目である。1回目は1983年だったはずで、31年前になる。今のような立派な観音堂ではなく、歩けば床がきしみそうな古い建物だった。受付の古老がお堂まで案内し、説明してくれた。

 拝観した時の印象は、感動というより、驚きだった。そもそも、どうしてこのような立派な像がここにあるのだろう。観音さんがこれほど官能的であっていいのだろうか。当時の様々な驚きや疑問は、今も引きずったままだ。

 最初の時、1冊の写真集を買った。タイトルは「十一面観音」(平凡社)で、代表的な像の写真が載せられ、故井上靖さんが文章を寄せている。私はこの写真集を手にする度、表紙の裏側に掲載されている写真に戦慄するのだ。

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 この写真は「暴悪大笑面(相)」と呼ばれるものだ。受け売りで恐縮だが、十一面観音の頭には「菩薩面」「牙上出(げじょうしゅつ)面」など十一の像が載っている。「暴悪」はそのうちの一つで、位置は真後ろと決まっているようだ。観音さんには光背があるので、通常は「暴悪面」を見ることが出来ないが、ここは周囲を回って拝観できるようになっている。

 暴悪面は、この世の悪人を代表するような形相であり、しかも憎々しげに大笑いしているのである。今にも飛び出してきそうな凶悪さ。人間の邪悪な心を見透かしているような目。民衆に救いの手を差しのべる十一面観音さんには似つかわしくない顔が、じっと私たちを睨みつけている。

 エッセイストの白洲正子さんは生前、しばしば渡岸寺の観音さんを訪れ、いくつもの文章を残している。彼女も「暴悪面」に大きな関心を寄せ、「渡岸寺の観音の作者が、どちらかと云えば、悪の表現の方に重きをおいている」とし、「(暴悪面は)悪を笑って仏道に向かわしめる方便ということだが、とてもそんな有がたいものと思えない」と断じている。

 ここの観音さんは威厳に満ち、堂々とした姿である。前々回のブログで書いた医王寺の「乙女の観音さん」のような親しみは感じない。ただただ威圧され、圧倒され、「ほぉー」と感嘆の声を上げるのが精いっぱいなのだ。

 平安初期の作で、作者は不詳。像の高さは194センチの長身、ヒノキの一木造りである。傷のない奇跡の観音さんだ。左手には病よけの水を入れた水瓶を持っている。右足のかかとが少し上がり、横から見るとやや前に倒れている。民衆に歩み寄ろうとする作者の意志が伝わってくる。

 人間一皮むけば、心の中は愛憎や嫉妬が渦巻き、物欲や淫らな欲にまみれている。暴悪大笑面は「へへへ、そんなもん、人間みんな同じや」と言いたげである。われら凡俗の徒は、その一言に救われるのだ・・・。

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       渡岸寺の十一面観音(コピー)

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            右の建物が収蔵庫。観音さんを360度回って拝観できる。


 
 

十一面観音・・・己高閣(鶏足寺)

  湖北の伊吹山系の一角にある己高山(こだかみやま)は、標高923mの平凡な山である。南東には日本百名山の伊吹山が鎮座し、北の方には1000mを超す山が連なっているため、なだらかなこの山は余り目立たない。  

 だがここは、近江国の「鬼門」とされる特別の山域である。それ故、山頂には奈良から平安時代にかけ多くの寺院が建てられ、山岳仏教の文化圏が形成された。その後寺は荒廃したが、ここを訪れた最澄が「鶏足寺」として再興したと伝えられる。

 今回の旅は、その己高山の本尊で、今は山麓に安置されている「鶏足寺の十一面観音」を訪ねるのが目的だ。大津駅で新快速電車に乗り、北陸線の高月駅を目指した。米原駅を過ぎると、右手に伊吹山がドカーンという感じで現れ、湖北に入ったことを実感させられる。

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                車窓から撮影した伊吹山

 高月駅から山麓まで4、5キロほどあるが、天気もいいので歩いて行くことにした。高月の町には水路が縦横に流れ、美しいたたずまいだ。随所に小さな観音堂があり、さすが「観音の里」と呼ばれるだけのことはある。

 ほとんど人通りのない道を行くと、湖北の奥地から流れる高時川に突き当たった。川の水量は豊かだ。そして前方に霊山の己高山が見えた。初めての人はどれがその山か分からないだろう。雪が積もった山々の向こうは、すぐ岐阜県である。

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                右から二つ目の山が己高山

 川沿いの道を歩き続けた。時間はとっくに正午を過ぎ、はしたない話が、空腹で倒れそうになった。田んぼの中の道だから商店などない。さらに半時間ほど歩くと、国道に出た。するとその先に、「ラーメン」と書かれた提灯が見えた。えっ、こんな所に・・・。失礼ながらそう思った。ラーメン、ライスで腹を満たし、再び歩き出した。

 やがて、「己高(ここう)閣」の標識が出てきた。この建物とその裏にある「世代(よしろ)閣」には、鶏足寺など己高山の寺院の仏像が展示されている。荒廃した寺から山麓に下ろされた仏像は90体、そのうちの70体ほどがここにあるという。

 私がここを訪れるのは三度目である。しかし、十一面観音と薬師如来の像だけをぼんやり思い出すだけで、大半は記憶の外にある。信仰心が薄いのか、物忘れがひどくなったのか・・・。せめて今日は十一面さんだけでも目に焼き付けて帰りたいと思った。

 村の古老によって、己高閣の扉が開けられた。正面に鶏足寺の十一面観音が威光を放っている。別に私はマザコンだった訳でないが、観音さんと母を重ね合わせていた。そして、温和で優しい目に、母の面影を追った。

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          鶏足寺の本尊だった十一面観音(コピー)

 古老の説明に耳を傾けた。天台宗を開いた最澄がこの山を訪れると、雪の上に鳥の足跡が点々と付いていた。それを追って登ると山頂近くに沼があり、そこに十一面観音の頭だけが突き刺さっていた。最澄は胴体を彫って頭につなげ、鳥の足跡から名付けた鶏足寺の本尊とした。その後このお寺は山麓に移り、今は「紅葉の鶏足寺」として知られる。

 像は平安初期の作で、国の重文である。像の高さ172センチ、ヒノキの一木造り。すらりとした飾り気のない美しい姿だ。右足の親指が少し上がり、今にも悩める民衆の救済に踏み出そうとしているかのようだ。

 己高山麓のここ「古橋」という集落は、数奇な歴史の舞台である。山岳仏教が栄えて衰退し、多数の仏像だけが今に伝わる。石田三成ゆかりの寺もあるという。戦国の戦火は村を焼き、関ヶ原で破れた三成は古橋に逃げ戻ったが、捕まって京で斬首された。十一面観音はこの地に1300年間たたずみ、そんな歴史を見つめ続けてきた。

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               己高閣には貴重な仏像が多数安置されている

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               薬師堂

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               薬師堂の格子窓から覗くと、仏像が・・・

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              大日堂にも薄明かりの中に仏像が安置されていた

 

十一面観音・・・医王寺

 その十一面観音は「乙女の観音さん」と呼ばれる。名付け親は、文壇の大御所だった故井上靖さんである。昭和40年代に書かれた「星と祭」の中で、「人間にはありませんな、これだけの美人は」と言わしめたほどだ。

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                    ↑ 医王寺のアルバムを複写

 ここ北近江の木之本は、北国街道のかつての宿場町である。街道を真っ直ぐ北へ進めば越前に至るが、木之本の少し手前から北東に延びる道を辿れば、「乙女の観音さん」がひっそりとたたずむ医王寺の観音堂がある。

 前方には己高山(923m)が見える。この山では山岳仏教が花開き、伽藍をそなえた古刹があったが、火災によって灰燼に帰したという。天平から藤原期にかけての仏像群は村人たちの手によって救い出され、今に伝わっている。

 ここ北近江は「観音の里」と呼ばれているが、己高山の古刹を中心に観音信仰が広がりを見せたのだろう。山のふもとの古橋の集落には、己高山から救い出された多くの仏像が残されており、私の敬愛する口に紅をさした石道寺の十一面観音もその一つである。

 やがて、私の車は「川合」という集落にさしかかった。その名の通り、杉野川と高時川が合流している。医王寺は三差路を左に曲がり、高時川に沿って北上するのだ。ここからの景観は一気にひなびた感じになり、まさに北近江の奥地である。

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 私の携帯電話が鳴った。「今どこですか」。医王寺の世話役をしているお婆さんからだ。前もって拝観をお願いをしていたので、気を利かせて電話をしてくれたのろう。「私は先に行って待ってますから、どうぞ気を付けて来て下さい」と言う。拝観者が一人であろうと、二人であろうと、それが当たり前のように温かく迎えてくれる。

 吊り橋を左に見ながら車を進めると、「大見」という集落に着いた。わずか20戸で、人口の大半が65歳以上の限界集落だそうだ。萱葺きを瓦やトタンで葺き直した民家が山の斜面にへばりついている。車がやっと通れるほどの橋があり、そこを渡ればすぐ医王寺の観音堂があった。

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 世話役の女性が堂内の石油ストーブに火を入れて待っていてくれた。途中の店で買ったシュークリームを観音さんにお供えした。「乙女の観音さん」だから、甘い物は気に入ってもらえるだろう。

 厨子の扉が開かれたその瞬間、私は息を飲んだ。何と美しいのだろう。何と清純な顔立ちなのだろう。観音さんは男性でも女性でもないとされるが、この観音さんは間違いなく女性だと思った。瓔珞(ようらく)と呼ばれる装身具を見ても、乙女好みのアクセサリーと思えてしまう。

 国の重要文化財に指定されており、10世紀末から11世紀初頭の作とされる。楠の一木造りで、高さは152センチ。

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             ↑ 写真を複写
 
 明治20年ごろ、医王寺の住職が十数キロ南の長浜の古物店で、売りに出されていた十一面観音像を買い取り、寺に安置した。これが「乙女の観音さん」という。明治政府が神道と仏教を切り離す廃仏毀釈を布告し、仏閣や仏像は時代の荒波に翻弄された。この観音さんもそんな運命をたどり、古物商に引き取られたのだろう。

 観音像と蓮台は別々に造られているそうだが、ここの観音さんは一体型で、北近江では大変珍しいという。医王寺からそう遠くない向源寺には十一面観音の傑作とされる国宝の像があるが、これも同じタイプだという。となれば乙女の観音さんは、元々このあたりが生まれ故郷だったのかもしれない。

 そろそろ、いとまする時間になった。世話役のお婆さん(74歳)は「最後にどうぞ、須弥壇のそばまで上がって拝んで下さい」と言ってくれた。息を殺し、顔を近づけた。やはり、美人である・・・。

十一面観音・・・和蔵堂(善隆寺)

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 「この冬一番の寒気がやって来る」。テレビニュースが盛んにそう伝えている。私は年初から十一面観音巡りを始めたばかりだが、観音の里・北近江は大雪になるかもしれない。そうなれば、巡拝するのに難儀するだろう。

 雪が積もる前に1体でも多くの観音さんを拝観したいと思い、朝早く、女房とともに車で北近江を目指した。車は4WDでスタッドレスタイヤだから雪には強い。しかし、雪マークの予報とは大違いで、快晴である。ただ風が強く、車が時々蛇行した。

 長浜市に入ると、雪に覆われた伊吹山が迫って来た。その山容の凄さは、アルプスの名峰に引けを取らない。琵琶湖には白波が立ち、まるで海のようだ。いくつかのトンネルを抜け、琵琶湖の北端に位置する西浅井町に着いた。

 さっそく、重文の十一面観音が安置されている和蔵堂(善隆寺)に向かった。JR湖西線の永原駅から北へ3、4キロほどの所だ。すでにお寺へは拝観のお願いをしていたので、住職がすぐ観音堂の鍵を開けてくれた。

 何と端正な顔立ちだろう。高い鼻に、キリッとした口元。瞑想しているようにも見える。頭に十一の仏面を載せ、右腕は太く、膝の下まで垂れている。右足は少し前に出ている。いわゆる「遊び足」というポーズで、人々を救済するため踏み出そうとする形なのだろう。

 平安時代の作で、像高は101・5センチ。ヒノキの一木造りと伝えられてきたが、近年、博物館の鑑定で桜の木と分かったそうだ。頭から足の先まで一木で彫られ、一つの継ぎ目もないのが珍しいらしい。

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 この像の隣には、首から上の阿弥陀仏が安置されている。同じ平安時代の作で、これも国の重文だ。高さは65センチ。顔だけ彫らたのか、それとも胴体があったのか。ちょっとミステリアス・・・。大らかな表情で、前に座ると安らぎを感じる。2体とも、元は近くの天台宗の寺院に祀られていたらしいが、ここに引っ越した詳しいいきさつは不明だそうだ。

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 このお堂では写真撮影が許されており、かなり近寄って撮らせてもらった。拝観料もいらないので、志を賽銭箱に入れた。折角ここまで来たのだから、湖畔を回り、美しい湖北の冬景色を見たいと思った。

 観音堂から15分ほど走ると、小さな港があった。京都と日本海側を結ぶ海上交通の要衝として栄えた大浦港だ。琵琶湖独特の丸子船が行きかい、鯖や乾物を運んでいたのだろう。旅人たちは、旅の安全を観音さんに祈ったのだと思う。

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 次は、古い言い伝えが多く残る菅浦へ。近江の歴史に詳しかった白洲正子さんは著書「かくれ里」の中で、「竹生島は目と鼻の間で、街道から遠く離れている為、湖北の中でもまったく人の行かな秘境である」とし、昔の人々が竹生島に「観音浄土を想像したのも、自然の成り行きであった」とも記している。

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 道路は途中で通行止めになっていたので、引き返すことにした。そう言えば、和蔵堂の右手に虹がかかっていたし、それからずっとどこかに虹が見えた。何やら神秘的な気分になった・・・。

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十一面観音・・・西野薬師堂(充満寺)

 ここは、観音の里とも呼ばれる北近江の高月町だ。赤後寺の十一面観音像を拝観し、車で次の西野薬師堂をめざしている。目にしたばかりの観音さんは、腕も頭上仏も失った余りにいたわしい姿だった。その強い衝撃を引きずりながら車を運転している。助手席の女房も同じ思いなのか、黙り込んだままだ。

 空には鉛色の厚い雲が垂れ下がり、琵琶湖畔の平野は年末に降った雪に覆われている。対岸の比良山から吹いてくる風は刺すように冷たく、滋賀県と言ってもこのあたりは気候も風土も北陸そのものである。

 北近江は、幾多の戦乱に翻弄された土地である。北には羽柴秀吉と柴田勝家の両軍が相まみえた賤ヶ岳。東には織田信長と浅井長政の兵が血で血を洗った古戦場の姉川が流れている。その向こうには天下分け目の関ヶ原へと続く。応仁の乱の戦火にもさらされたという。

 奈良、京都の仏像の多くは、貴族文化の中で生まれ、貴族によって見守られてきた。しかし、とりわけ北近江では、寺院が戦乱に巻き込まれ、民衆が仏像を運び出し、時には土中に埋め、赤後寺の観音さんのように、川に沈めて守った。寺院が焼失したり荒廃したため、民衆は小さなお堂を建て、密かに仏像を守って来た。

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 さて、車はやがて余呉川を渡り、西へ進んだ。しばらくすると、寺の本堂の屋根が見えてきた。薬師如来と十一面観音のある充満寺だろう。お寺の手前に二つのお堂がある。その一つの「西野薬師堂」に2体が安置されているはずだ。もともと仏像は、この近くにあった由緒ある泉明寺に祀られていたが、寺は戦乱で焼失したと言われる。

 世話役の携帯に電話すると、すぐ来てくれた。薬師堂に案内され、仏像に手が届くほどの距離から拝観した。十一面観音は重量感にあふれ、目鼻立ちが整っている。腰は左にひねる観音さん独特のポーズだ。右手は真っ直ぐ垂れ、左手に蓮華の水瓶を持つ。全体に赤みを帯び、後に薬師如来とともに赤漆が塗られたのかもしれない。

 平安前期の作で、像の高さは166・7センチ、ヒノキの一木造りである。大正15年国宝に指定されたが、昭和25年の制度改正で重要文化財になった。世話役は「同じ高月町の向源寺の観音さんも国宝であり、国は国宝をどちらか1体にしたかったのではないか」という。格下げではなく、こちらも国宝級と言いたげだった。

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 西野地区は83戸の小さな集落だ。勤め人などを引退した9人が交代で観音堂の世話役を務めているという。案内してくれた人は、きのうまでサラリーマンだったような物腰で、「拝観を希望する電話がかかってくるので、当番の日はどこにも出かけられません」と言っていた。

 観音堂を辞去しようとした時、桑の木の箸が売られているという本の記述を思い出した。世話役さんは「ええ、ありますけど。出しましょうか?」と商売っ気がない。その昔、前記の泉明寺のお坊さんが中風にかかると、「桑の木で作った箸でご飯を食べよ」という観音さんのお告げがあった。その箸で毎度ご飯を食べると、中風は少しずつ回復したと伝えられる。

 私たち夫婦は一膳づつ買い求めた。参拝記念のつもりだったが、箸袋に「老人病予防にご利益がある」と書かれていたので、少しうれしくなった・・・。

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十一面観音・・・赤後寺

 人間の苦しみを一身に受け止めているようである・・・。観音堂の厨子が開かれ、腕を失った十一面観音さんが現れた。私の胸は締め付けられた。やがて、目に涙が滲んできた。なんと、いたわしい姿だろう。

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 新快速電車は琵琶湖の西岸を北へ走る。近江舞子のあたりから田んぼに雪が見え始め、高島に入ると一面の雪景色である。近江今津で乗り換え、余呉湖のほとりにある小さな駅で降りた。

 この旅には、女房と帰省中の娘二人が同行している。娘たちは、賤ヶ岳の雪景色を映す余呉湖にスマホを向け、盛んにシャッターを切っている。私と女房は十一面観音を巡り、娘は知り合いの家へ遊びに行く。

 知人から借りた軽トラを運転し、除雪された道路を南へ走った。ここ北近江は観音の里である。その中心とも言える長浜市高月町へは半時間ほどで到着した。田園地帯にせり出した森の中に、目指す赤後寺(しゃくごじ)があった。

 この無住のお寺には、国の重文に指定されている十一面千手観音と聖観音の立像二体が安置されている。唐川という集落にあるため「唐川の観音さん」で通っている。また、「厄を転じて利となし、私利を転じて衆利となす」というい言葉から、「コロリ観音」としても親しまれている。コロリと死ぬのは万人の願いである。

 お寺に着き、世話役の携帯に電話すると、観音堂の鍵を持ってすぐ来てくれた。まず、石段の手前にある「枕石」について説明を受けた。羽柴秀吉と柴田勝家の戦乱で寺から火の手が上がり、村人は観音さんを背負って逃げ、川の中に沈めて隠した。その時、観音さんの枕にしたのが「枕石」として今に伝わっている。

 石段を上がると、杉の古木に囲まれた立派な観音堂があった。世話役がスリッパを出してくれ、堂内に導かれた。厨子の前には布が垂らされていて、中は見えない。私はメモ帳を探すためリュックの中をごそごそしていて厨子から目を離していた。目を元に戻すと布が外されており、いきなり二体の立像と向き合うことになった。

 その瞬間の思いは、冒頭に書いた通りだ。左側の十一面観音は満身創痍である。凄絶と言ってもいい。もう、胸が詰まってしまった。「いたわしい」という言葉以外にない。40本あった腕は12本しか残っていない。しかも手首から先が失われ、頭上仏もなくなっている。今は亡き作家井上靖は「いかなる言葉も出せなかった」と書き残している。

 痛々しい姿ではあるが、それを超越した包容力あふれる姿である。肉付きのよい顔に、切れ長の目。像高は182・2センチ、金箔が少しだけ残っている。平安前期のヒノキの一木造りで、同時代を代表する仏像とされている。

 二体とも長い間、秘仏になっていた。集落の人が拝めるのは、3月2日のほんのひと時だけだった。こんなエピソードもある。他所の人が村人に紛れ込んで拝観しようとしたところ、厨子の扉が開かなくなったというのだ。昭和44年に重文に指定され、これを機会にやっと一般の人も拝めるようになった。

 赤後寺を後にしてしばらく経つが、まだ凄絶な姿が目に焼き付いたままである・・・。

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十一面観音・・・盛安寺

 元日の朝、浜大津から京阪電車に乗り、穴太(あのう)駅に向かった。電車は近江神宮への初詣客でほぼ満員だ。この人たちが神宮前の駅で降りると、車内は閑散となった。やがて穴太駅に着き、私と年配の婦人の2人だけが降りた。

 穴太はかつての大津宮に近く、飛鳥時代の遺跡が点在する。5分余り歩くと天台宗・盛安寺があり、ここには国の重要文化財十一面観音像が祀られている。ここへお参りし、観音さんとともに平成26年の第一歩を踏み出したかった。

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 頑丈そうな石垣が見えてきた。いわゆる穴太積みである。古墳の築造に従事した石工(いしく)の末裔がこの地に住み、後に安土城など天下の名城を手がけた。いわゆる「穴太衆」と呼ばれ、今もその高度な技術を受け継いでいると聞く。

 その石垣の上に盛安寺の本堂があった。十一面観音を拝観できるのは、正月三が日、初夏と秋のごく限られた期間だけだ。庫裏を訪ね、観音さんの拝観をお願いすると、住職らしい人は「収蔵庫の扉は開けてありますから、どうぞ」と言い、「拝観料は結構です」とのことだ。確か本には拝観料が300円と書かれていたが、正月は特別なのだろうか。

 収蔵庫は道を隔てた小高い場所に建っていた。分厚い防火用の扉が開かれ、その向こうのガラス戸越しに拝観できるようになっている。縦長のガラス二枚が外されていて、中をじかに見ることができるのだ。しかも写真撮影禁止の表示もない。十一面観音さんが「さぁ、どうぞ」と手招きしているように思えた。

 観音さんは、均整のとれた見事な姿である。ふくよかな顔に小さな口。どこか微笑んでいるように見える。4本の腕があり、両手を合わせ、右手に錫杖、左手に蓮華の花を持っている。頭上には10面の仏様を戴いている。まだ早い時間だったので拝観者は少なく、時間を置いて3回もじっくり拝ませてもらった。

 10世紀末~11世紀初期の作とされ、ヒノキの一木造りで、像高は179.1cm。十一面観音から千手観音への過渡的な像という。もともと観音さんは、ここから2・5キロほど南西にあった崇福寺におられたと伝わる。この寺は平安時代、東大寺や興福寺など十大寺院の一つに数えられたが、13世紀末に廃絶した。なぜ盛安寺に移られたかは不明だ。

 私はそれほど信仰心がある訳ではなく、仏教美術の知識も皆無に等しい。しかし、井上靖の小説「星と祭」を読んで十一面観音への関心を持つようになった。近江には、観音さんがキラ星のごとくあり、しかもそのほとんどは地域の民衆がお守りしている。これから少しずつでもお参りし、信仰への道が開かれればと思っている。

 私はもう、十一面観音さんに恋い焦がれ始めている・・・。

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