中国山地をぐるり・・・再び鈍行の旅

 またまた「青春18きっぷ」の旅である--。

 つい先日は、東海道線で東京に向かい、そこから中央線、飯田線で中部地方を回った。この旅行のため女房は「18きっぷ」(5枚綴り)を2冊買い、計6回分を使った。すると4回分余り、使用期限が迫っているのでもう一回旅行をしないとキップが無駄になってしまう。女房はパソコンに向かって旅行計画を立てた。

 今回は中国山脈を越え、島根の玉造温泉で宿泊する。翌日は松江城にも寄り、鳥取駅から智頭を経由して大津に帰るコースだ。私は女房に引率してもらい、金魚の糞のように付いて行くだけである。自己主張したり、意地を張ったりしなければ、これはこれでまことに気楽な旅である。

 まずは、快速や鈍行を乗り継いで岡山駅へ。岡山はわれら家族の第二の故郷である。ここで6年も勤務し、結婚もして子供も生まれた。昔はまだ縁故採用があり、会社幹部の子息の転勤が優先されたため、私は長いこと置いてきぼりにされたのだ。お陰で、「ぼっこう」「でぇれえー」など岡山弁が上手になったし、楽しい思い出をいっぱい残すことが出来た。

 駅舎は立派なビルになって様変わりしていたが、駅前の「桃太郎の像」は昔のままで、ホッとした。電車は倉敷を経由して高梁川沿いに北上する。終点の新見駅で「芸備線」に乗り、さらに備後落合駅からは女房がかねがね乗ってみたいと言っていた「木次線」に乗り換える。

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 この芸備線の車窓にはどこか懐かしい風景が現れる。運転席の横に立ち、真正面の窓からそんな風景を眺めた。トンネルに入る時は、少し興奮する。運転士さんのハンドルの操作を見ているのも面白い。子供が乗っていたらこの特等席を譲ってやるのだが、いい年をした私がしばらく独占した。

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 江戸時代から明治にかけ、多くの海外の旅行者が日本を旅し、旅行記を残している。その中で、彼らは一様に農家の庭先の美しさに驚いている。様々な花が咲き、よく掃除されていたという。当時の江戸は世界で最も衛生的と言われたから、さもありなんである。ここ中国山地の農家も美しかった。白梅、紅梅が咲き乱れていた。

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 1時間半ほど走ると、備後落合駅に着いた。ここで鉄道は二手に分かれ、われらが乗った「宍道」行き電車は、中国山脈の急坂を登るのだ。電車は鮮やかな朱色で、1両編成である。走っていても傾斜がわかるほどの急坂だ。やがて「三段スイッチバック」の場所に来た。電車が行ったり来たりを3回繰り返して前進する難所である。

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 やがて「亀嵩(かめだけ)駅」に着いた。松本清張作「砂の器」では、ハンセン病の老いた父と幼い息子が別れた駅である。この父子の世話をしたのが亀嵩のお巡りさんで、後に音楽家として成功した息子によって東京で殺害された。父の病気の秘密をばらされるのを恐れたのだ。切ないストーリーだった。

 その後映画化され、岡山に勤務していた頃、天満屋百貨店近くの映画館で観た。亀嵩駅を舞台にした父子離別のシーンに、人目も憚らず号泣した。そんな記憶に残るこの駅に、まさか訪れる日が来ようとは思わなかった。旅はするものである。

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 玉造温泉は柔らかいお湯だった。プールほどもある大きな露天風呂は混浴である。女性は襦袢のようなものを着て前を隠すことになっている。湯につかっていると、若い男女が入って来た。女性は「ねえ、ねえ、透けてるでしょう?」と胸を押さえる。男性が「透けてないよ」と言っても、「いややわぁ、透けてるわよ」としつこい。「そんなに嫌なら入るな」と言ってやりたかった。

 アホらしいのでこれ以上書かない。翌日は時間があったので松江城を見学し、鳥取に向かった。大山の威容が目を楽しませてくれた。憧れの智頭急行にも乗り、帰路についた。沿線の西粟倉は、まだ幼かった子供を連れてスキーに来たこともある。宮本武蔵の足跡も訪ね歩いた。岡山で働いていた頃を追憶する楽しい旅だった・・・。

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土の匂いがする飯田線・・・

 鈍行電車で東京に来て3日目、今日は中央線、飯田線を乗り継いで昼神温泉に向かう。前回のブログでも書いたが、東海道線の鈍行電車は余り面白くはなかった。しかしこの日は、南アルプスを仰ぎ見る大好きなルートだ。車では何十回も来ているのでおおよその風景は頭に入っている。のんびりと電車に揺られ、風景を楽しもうと思う。

 新宿から高尾行きの電車に乗った。電車は混んでいて座れなかったが、若者がわれら夫婦に席を譲ってくれた。譲られてみると少し心境は複雑だが、好意はうれしかった。それにしても、東京は親切な街だ。電車はもちろん、車を運転していても譲ってくれる。関西では、おばさんたちを突き飛ばさないと、なかなか座席に座れないのだ。

 高尾駅からの電車はちょっとレトロな雰囲気がある。車体はブルーとクリーム色のツートン。二つの丸いヘッドランプの形にも昭和の匂いがある。座席は4人掛けで、足も伸ばせてゆったり座れる。

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 勝沼あたりまで来ると、南アルプスが美しい。この日は晴天だったので、雪を戴く白い峰がまぶしい。一番右手には、荒々しい甲斐駒ケ岳がそそり立っている。やがて右手には八ヶ岳連峰だ。私の友人は山麓の原村に山荘を持っており、連休だから家族で来ているのではないかと思ったりした。

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 小淵沢駅に着いた。駅舎の立ち食いの店で、玉子そばを食べた。乗り換えの時間があったので、駅周辺を歩いてみた。シーズンオフなのか人通りは少なく、商店の構えも精彩がない。昔のような活気がないように感じられた。

 ここから岡谷駅に行き、飯田線に乗り換える。飯田線は、南アルプスと中央アルプスに挟まれた南北に長い盆地、いわゆる「伊那谷」を走っている。終点の豊橋駅までには70を超す駅があり、線路は右に左に蛇行を繰り返す。駅と駅の間隔は短く、電車のスピードものろい。それがいいのだ。

 2両編成の電車に乗り、岡谷駅を出発した。のどかな農村の風景が続く。電車は小一時間ほどして小さな無人駅に止まった。線路のすぐそばの畑で、腰の曲がった婆さんが地面に座り、畝に肥料を入れていた。すると、キツネ色をした太った猫が現れ、婆さんの体にまとわりついた。婆さんは猫の体重に押され、尻餅をつきそうになった。

 私は、そんな光景をぼんやり見つめていた。ここには、土の匂いがある。人影がなくても、人々の営みを感じる。私たち夫婦は何十年も前から、車で走っていて伊那谷ののどかさに惚れ込んでいた。ここに住みたいとさえ思っていた。初めて飯田線の鈍行に乗ってみて、改めて伊那谷の魅力に取りつかれてしまった。

 飯田線の魅力は、山岳風景にもある。南アルプスの盟主・甲斐駒ケ岳は中央線から近くに見えるが、飯田線からも雄姿が現れては消え、消えては現れる。いわゆる神出鬼没なのだ。やがて、中央アルプスも見えてくる。その一角にある空木岳にはぜひ登ってみたいと思っている。空木と書いて「ウツギ」と読む。その美しい山の名前にひかれている。

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 新宿を出発して7時間、天竜峡駅に着いた。まさに峡谷の駅である。今夜泊まる昼神温泉は車で2、30分ほど。それにしても「昼神」とは曰くありげな名前だ。伝説によると、天岩戸にお隠れになった天照大神をどうしたら外に出ていただくか、神々が相談した。その時の議長を務めたのがこの地の神で、昼の明るさをもたらした神というのが、由来らしい。

 温泉は、肌がつるつるになるお湯として有名になった。昭和40年代、鉄道工事で噴き出したというアルカリ性単純硫黄泉だ。つるつると言えば、わが山小屋のある和歌山の龍神温泉が有名だ。こちらは歴史が古く、日本三美人湯と謳われているが、つるつる度は少し負けているかもしれない。

 夜は馬刺しを別に注文し、日本酒をチビチビやった。腹にしみた。体が少し揺れたが、酒のせいではない。電車の心地よい揺れが残っていたのだ。ともかく、飯田線の旅は素晴らしかった。何度でも来てみたい・・・。

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鈍行電車で東京へ行く

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 先日の3連休、われら夫婦は鈍行電車で東京に向かった。その目的は、上野の東京芸大で開かれている「観音の里の祈りと暮らし展」を観に行くためだ。しかしこれは建前で、東京で暮らす娘に会いたいというのが本音である。

 大津駅を出発したのが午前7時過ぎ、新宿到着は午後4時半ごろの予定だ。9時間に及ぶ長い電車の旅である。お金はないが時間はある第二の人生。1日乗り放題2300円の「青春18キップ」は有難い。

 「そんなに急いでどこへ行く」・・・。こんなフレーズのテレビCMもあった。少しやせ我慢もあるが、鈍行で行く「スローライフ」の旅も悪くはないと思っている。どこかの駅で地方名物の弁当と缶ビールを買い、車窓の風景を楽しみたい。

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 連休のためか電車は満員で、彦根の手前でやっと座れた。米原駅で豊橋行き新快速電車に乗り換えたが、こちらも乗客が多い。何とか二人掛けの座席を確保し、コンビニで買ったおにぎりの朝食にありつけた。

 昼食の駅弁は豊橋駅で買う予定だったが、電車が遅れたのでゆっくり吟味する余裕はなかった。地下通路の小さな売店では、買いたいと思っていた名物「稲荷寿し弁当」は売り切れていた。仕方なく、浜松名物「浜の釜めし」を買った。

 これは意外だったが、豊橋駅から東の東海道線の電車は3両か4両編成が多く、その分混み合うのだ。しかも、私たちが乗った電車の座席はすべて横長の座席で、4人掛け、2人掛けはなかった。長距離の電車の旅だと足を向かいの座席に投げ出したくもなるが、これでは行儀良く座っているしかないのだ。

 浜松駅で興津行きに乗り換えると、急にお腹がすいた。長い横並びの座席では、向かいの乗客に見つめられているようで、弁当を食べるには勇気がいる。お茶のペットボトルは置く所がないので、股の間に挟んだ。何か悪い事をしているような感じで食べた。駅弁には干からびた鰻のかけらが三つしか入っておらず、ちょっとみじめになった。

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 島田、沼津、熱海、小田原の各駅で次々と乗り換え、旅を楽しむどころではない。首都圏に入る頃には、お尻が痛いやら、腰が痛いやら。女房もうんざりした表情で「次の東京行きは絶対新幹線やねぇ」と言う。「青春キップでのんびり行こう」と粋がっていたが、東海道線に限って言えば、それは間違っていた。

 痛い腰をかばいながら、ほうほうのていで娘の家に着いた。体育会系女子の口調から抜け切れない娘からは「ほほー、二人とも疲れとるなぁ」と同情された。その夜は、3人枕を並べ、眠った。

 翌日は3人で「観音展」を観た。北近江の珍しい観音像が18体も一堂に集められ、大変貴重な展覧会だ。会場には観音ファンがたくさん詰めかけていた。それに意外や意外、娘は平安時代の観音像の魅力に取りつかれたのか、時間をかけて拝観していた。ひょっとしたら、体育会系を卒業したのかもしれない。

 上野公園を散策していると、高い塔が見えた。私も女房も「東京タワーじゃなくて、ほれ、ほれ」と言うばかりで、名前が思い出せない。後で娘に教えてもらったが、スカイツリーである。銀色に輝くタワーは高かった・・・。

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車を手放した・・・

 長年乗ってきた乗用車を手放した。恰好良く言えば、モータリゼーションから少し距離を置いてみようという訳だ。と言っても、山奥の暮らしだから軽トラまで手放すことは出来ない。商店のある町まで歩けば片道2時間もかかるし、暖房用の丸太や薪を運ぶのにも必要なのだ。

 確かに車を2台持つのは、お金もかかる。女房の計算だと、乗用車の年間経費は車検代、ガソリン代、保険料、税金などで30万円はかかるという。しかし、車を手放した理由はそれだけでない。冬の間だけ和歌山から大津市の家に帰っているが、なるべく車に依存しない生活を送っており、車がなければ、また別の楽しみ方もある。

 これは随分昔のことだが、地方勤務をしていた20代のころ、バイクに乗って仕事をしていた。帰宅途中のある夜、後ろから来た車にはねられ、右手首を骨折した。やっと治ったと思ったら、また車にはねられ、折れた骨のあたりを強打した。このままバイクで仕事をしていたら死ぬかもしれないと思った。

 自動車教習所に通って免許を取り、車を買った。それ以来、何台もの車を乗り替えた。行動範囲は一気に広がり、色んな所へ出かけられるようになったが、逆に、歩いて行けるような所にも車を使った。どっぷりと車社会に浸かり続けてきた。

 女房が独り言のように、「去年、乗用車に何回乗ったかなぁ」と言った。振り返ってみれば、登山で2回ほど信州に行ったくらいだった。そもそも、ほとんど乗りもしない車を持ち続けるのは不経済だし、車に依存してきた生活スタイルを変えてみるのも悪くないと思った。

 今は、片道1時間くらいなら歩いて買い物に行く。長く暮らした大津市内にも、行ったことのない社寺や名所旧跡が意外と多くあり、歩いて訪ねている。このように、歩くことが習慣になると、いい気分で一日を過ごすことが出来るのだ。

 旅行といえば車を使ったが、これからは電車やバスを使おうと思う。駅弁とビールが楽しめるのもいい。青春18キップが使える期間に旅行をすれば、安上がりだ。のんびり行く旅、車窓の景色が楽しくなると思う・・・。

福寿草が咲き、山に帰る日が近づく

 大津の自宅の小さな庭に福寿草が咲いている。今年の3月は真冬のような寒い日が続いたが、植物はそんなことに動じることなく、季節が来ればちゃんと芽を出し、花を咲かせる。

 黄色の小さな花には派手さはないが、庭の片隅から控え目に自己主張しているように見え、親しみを感じる。膝を折って花を眺めていると、「さぁ春だよ。和歌山の山小屋に帰ろうよ」と背中を押されているように思う。

 山小屋を離れて3か月近くになる。生石高原で暮らす仲間のPからは、時々電話くれるので、大体の山の様子は分かる。今年は例年になく雪が多く、気温もマイナス4度、5度という日も少なくなかったらしい。

 春の風が頬をなで、心が浮き立つ。一日も早く山に帰りたいが、色々と用事があり、そうもいかない。

 3月下旬、山の暮らしを再開すれば、まず最初に畑を耕し、ジャガイモを植えなければならない。フキノトウを摘み、例年通り、フキ味噌も作りたい。秋に伐採した薪用の丸太にシートをかぶせ、そのままにしていたので、早く割らなければならない。釣りの準備も万端にしておきたい。

 わが山小屋の家族の一員、野鳥のヤマガラはどうしているだろう。冬の間、餌のヒマワリの種を与えていないので、お腹をすかしているだろう。もう山小屋に見切りをつけ、どこか遠くへ行ったかもしれない。

 このように、山の暮らしに思いを巡らせ、元気で春を迎えることに感謝する日々だ。正月は暦の上での新年だが、山小屋暮らしの再開は、われらの1年の始まりだ・・・。

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今時の日本語にちょっと苦言・・・

 マレーシアから中国に向かっていた旅客機が行方不明になっている。空港を飛び立って50分後、南シナ海でレーダーから機影が消えたという。乗客、乗員は239人。その多くが中国人らしい。

 捜索は海上を中心に行われ、アメリカや中国も協力しているが、このブログを書いている今の段階ではまだ見つかっていない。NHKのニュースによると、タイで盗まれたパスポートが何者かによって使われていたとのことだ。また、旅客機は海上から空港に引き返した可能性もあると伝えている。

 NHKのアナウンサーは「あらゆる可能性を視野に入れ、調べている」と報じた。この言い方は、喉に刺さった小骨のように私をイライラさせるのだ。人生幸朗のぼやき漫才ではないが、「それ、どういう意味?責任者出てこーい」と言いたくなる。

 つまり、「あらゆる可能性」とは「予断を持たず」という意味だろう。事故なのか、事件なのか、あらゆる可能性を調べるのは当たり前だ。当たり前のことをあえて言うのはどのような意味が込められているのだろう。

 はっきりと、「機体の故障、テロの可能性の両面で調べている」と言えばいい。例えば、ハイジャックか機長の独断でどこかに着陸している可能性もゼロとは言えないが、これを「あらゆる可能性」の中に含めてしまうのは、ニュースの発信者として無責任だ。そんなことなら、取材しなくても誰にだって言える。

 テレビでも新聞でも、近年、このような表現が多い。「慎重に捜査している」「詳しく調べている」などもよく聞く表現だ。その反対表現は「ズサンに捜査している」だが、捜査機関が人権にも配慮し、ズサンでない捜査をするのは当たり前だ。

 「視野に入れる」というのも腹が立つ表現だ。これもメディアの流行語のようなものだ。例えば、「贈収賄も視野に入れ、捜査している」と表現する。そもそも視野とは「見える範囲」のことだ。贈収賄が視野に入っているなら、「贈収賄の疑いでも調べる」とズバリ書けばいい。そこには、いざという時、責任を逃れたいという底意が見え隠れするのだ。

 ぼやきのついでに、おまけを一つ。

 芸能人の葬儀で、レポーターは声を震わせながら「しめやかに営まれています」と言う。「しめやか」は悲しげという意味で、葬儀は悲しくて当たり前なのだ。「しめやか」にという言葉を強調するのは、故人の死をそれほど悲しんでいないレポーターが、自らの気持ちを装う都合の良い言葉なのだ。飾らない言葉の方が、重く響くことを知るべきだ。

 ともかく新聞もテレビも、「あらゆる可能性」「慎重に」「詳しく」など具体性に欠く表現ばかりで、責任逃れというしかない。それらは人権や個人情報、未成年者への過剰な配慮にも通じており、真実に迫ろうとする本来のメディアの迫力とほど遠いと思う。

 ひまにまかせて朝のひと時、苦言を書いてみた。まぁ、どうでもいいと言われれば、あえて反論しない・・・。  

ぐるっと丹後半島・・・西国三十三ヵ所巡り

 先日、女房が続けている「西国三十三ヵ所巡り」に付き合い、運転手役を買って出た。お参りするのは、宮津市の28番「成相寺」と舞鶴市の29番「松尾寺」だ。大津市からだと、丹後半島を一周するような長距離の巡礼である。

 旅は最初からつまづいた。大津インターから名神を走り、長岡京で京都縦貫道に入る予定だった。ところが道路標識が実にややこしく、行き過ぎてしまった。次は茨木までインターがない。遠回りになるうえ、高速料金も余計にかかる。道路公団さん、あの標識は見直してもらいたい。

 仕方がないので、茨木から亀岡市に抜ける国道を走り、亀岡インターから京都縦貫道に乗った。ここへ来るまでに疲れてしまい、女房に運転を替わってもらった。すぐ眠くなり、起きてみたらもう天橋立の近くに来ていた。女房は「軽トラの助手席でよう眠れるなぁ」と感心し、どこが運転手役かと言いたげだった。

 宮津湾を右手に見ながら走っていると、成相寺の大きな看板が目に入った。お寺は山の中腹にあり、長い坂道を走った。お寺に参るには入山料500円を払わなければならない。大きな声では言えないが、札所と呼ばれるお寺は商売っ気が強い。納経張にご朱印をもらうと、さらに300円。巡礼者の足元を見透かしているようで、余りいい気がしない。

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 女房はここまで来たのだから、伊根の舟屋と経ケ岬を見てみたいと言う。私は2回来ているが、半島を一周することにした。この季節だから、舟屋には観光客の姿がほとんど見られず、ひっそりしていた。釣り好きの私はかねがね、舟屋の三男坊くらいに生まれたいと思っていた。居間にいながら竿を出せば、時にチヌの大物だって釣れるかも・・・。

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 次は経ケ岬だ。断崖には大きな波が打ち寄せ、白波が立っている。海は実に鮮やかなブルーだ。やがて岬の駐車場に着いた。灯台までは400mと書かれている。急な階段が続いていており、汗をかいた。明治31年に点灯した純白の灯台の向こうには、北朝鮮のミサイルがこちらを向き、日本から拉致された人々が苦難の日々を送っている。

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 しばらく走ると日帰り温泉があり、売店にサザエが売られていた。16個入って1000円の安さで、二袋買った。後で寄った舞鶴市の新鮮市場では、3個で550円だった。よくあることだが、観光バスが乗り付ける大型店では、べらぼうな値札をよく見かける。むしろ都会のスーパーの方が安い。

 それはともかく、カニで有名な間人(たいざ)の町に寄り、お昼を食べた。ここから内陸部に入り、峰山を経て舞鶴市へ。福井県境に近い松尾寺へお参りした。帰りは国道27号線で小浜へと走った。音海、青柳、岡津など釣りで通った地名が懐かしかった。

 帰路の車の中で知ったのだが、女房の三十三か所巡りはちょうど10年目だという。残りは竹生島の30番宝厳寺と、近江八幡の31番長命寺だけらしいが、私には信じられないスローペースである。のんびりした性格なのか、先を急がない人生観か。私なら3年もあれば回ってしまうと思う。「主婦は忙しいのよ」と反論されれば、「さよか」としか言えないが・・・。

百穴古墳、崇福寺跡・・・身近な静かな空間を歩く

 琵琶湖の西側に点在する古代の遺構を訪ねようと、浜大津駅で京阪石阪線の電車に乗った。目指すのは「百穴古墳」と「崇福寺跡」である。この遺構は一本の山道でつながっていおり、回り道せずに二つとも見学できる。最寄りの駅より二つ手前の近江神宮駅で下り、ぶらぶら歩いて行くことにした。

 比叡山を左に見なが京阪電車沿いの道をしばらく歩いた。南滋賀駅のあたりで山側への坂道を登った。ここに来たのは何十年かぶりで、民家が山の近くまで立て込んでいて、以前の静かな里山の風景はすっかり変わっていた。

 ここは、中大兄皇子(天智天皇)が遷都した大津京のあった場所からそう遠くない。中大兄はなぜここに都を移したのだろう。抵抗勢力の多い飛鳥では改革が進まないと思ったのか。新羅・唐の連合軍の攻撃を恐れ、内陸深くに移ったのか。諸説あるらしいが、目の前に広がる美しい湖の風景が決め手になったと、私は勝手に思っている。

 私はひどい方向音痴である。頭の中に地図を描く能力(東西南北の方向も含めて)が劣っている。というより、ほとんど能力がない。だからどのあたりを歩いているか自信が持てず、変な判断をしてしまう。この日も見当外れの道をどんどん歩いてしまい、別の山の中に入ってしまった。

 犬を連れたお年寄りに出会い、道を尋ねたところ、引き返してもっと北に行けと言う。ところが次は行き過ぎてしまい、散歩中のお腹の大きい女性に教えられ、やっと百穴古墳に辿り着いた。そこは、民家のすぐ裏という意外な場所だった。

 古墳は山の斜面にあり、いたる所に石室に通じる横穴が口を開けている。山はスギと竹の森になっており、鬱蒼としていた。まったく人影がなく、古墳群は不気味な雰囲気だ。時折、カラスが「クワッ、クワッ」と空気を裂くような鳴き声を上げ、死者の霊に取り囲まれているような気分になった。

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 古墳は60基ほど確認されているという。1400年ほど前の古墳時代後期に造られたらしい。岩をドーム状に積み上げ、棺を置いた玄室は2、3人が横たわるれる広さだ。ここには金のブレスレットや、鍋など炊飯用のミニチュアセットがあった。朝鮮半島などから来た渡来人の墓地だったらしい。

 この森を抜け、林道を登った。2キロほど歩いただろうか、崇福寺跡の標識が出てきた。寺は天智天皇の命によって766年に創建された。当時の十大寺院の一つに数えられるほど、権威ある寺として栄えたが、その後、火災などに遭い、衰退した。

 林道左の階段を登ると、テニスコートほどの空き地に出た。あちこちに礎石があり、金堂や講堂が建てられていたのだろう。ここから数十m東側にも礎石があり、塔の跡の地下には舎利容器が埋められていた。出土品は一括して国宝に指定された。おそらく当時の伽藍は相当重厚なものだったと思う。

 礎石の上に腰を下ろし、瞑想にふけるフリをしてみた。ここは実に静かな空間だった。自分が住む街の近くにたくさん見るべき場所がある。多くの人がそうであるように、働いていた頃は、そんな余裕はなかった。現役を卒業してみると、楽しみが次々と湧いてくる・・・。

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