山菜の本番を迎え、連日の客人・・・

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 明け方、激しい雨が屋根を叩き、やかましくて眠れなかった。やがて小雨になったが、一日中降り続いた。森は生気を取り戻し、若葉が萌えている。この雨で、生石高原の山菜は一気に成長するだろう。それがうれしい。

 わが山小屋を二日続けて客人が訪ねてくれた。どちらも山菜採りが目的だ。

 最初のお客は、夫婦とも学校の先生で、ブログを通じて親しくなった。ご夫婦がぶら下げているレジ袋には、ワラビやコシアブラなどの山菜がいっぱい入っていた。コシアブラの新芽はすこぶる美味しいが、その群生地を見つけたと喜んでいた。

 ご夫婦とも登山が趣味である。特にご主人は高校の山岳部を指導する「山ヤ」である。われら夫婦も登山が趣味なので話がはずみ、登山計画の相談に乗ってもらっている。つたないブログだが、このように人の輪が広がっている。

 その翌日に訪ねてくれた人もブログが取り持つ縁で知り合った。こちらは、釣りが共通の趣味だ。彼はサラリーマンだが、祖父から引き継いだ漁船を所有しており、休日は紀淡海峡で釣りを楽しんでいる。彼のブログには、しばしばブランド品の桜鯛の写真がアップされており、釣り好きの私を歯ぎしりさせる。

 去年の山菜採りもそうだったが、今回もお母さん同伴である。数えで80歳の高齢だが、山の斜面を元気によじ登り、山菜が見つかると喜々としている。息子とともに山菜採りを楽しむ姿が実に微笑ましい。

 昨年、野性の山ウド掘りに案内したが、それ以来、その味に魅入られたようだ。今年も山ウドを掘ろうと山の斜面を這いずり回ったが、連日たくさんの人が山菜採りをしているため、探し当てるのは容易ではない。

 自分の妻を褒めるのは本意ではないが、女房は山ウド探しの名人である。ウドの芽は枯れ草の下に隠れており、経験がないと見つけることが出来ない。私が見つけたのは一株だけで、掘り出したウドのほとんどは女房が見つけた。結構な量が採れ、いいお土産になった。

 生石高原は、今が山菜の最盛期だ。山菜には、冬の間に蓄積された脂肪や老廃物を排出させる効能があるという。つまり、体を目覚めさせるリセットボタンのようなものだ。

 山菜の宝庫の生石高原に近いので、われら夫婦は毎日のように山菜を食べている。山菜の美味しさに順番を付けるとすれば、山ウドが横綱だろう。真っ白の茎をそのままかじれば、果物の味わいだ。大関はコシアブラとタラの芽、小結はワラビとヤマブキだろうか。人によっては、その逆かもしれない。要するに、山菜はみな美味しい・・・。

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       ↑ 山ウドの芽。草や枯れ葉に隠れていて見つけにくい。

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       ↑ コシアブラの新芽。これぞ山菜という味わい。

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       ↑ 左らタラの芽、コシアブラ、山ウド。


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島原半島から阿蘇へ

 旅行二日目、島原半島を巡った後、フェリーで熊本に入った。雨の予報だったが、幸い降りそうにもない。最初に訪れた熊本城は、まぶしいほどの新緑に包まれていた。ここでもアジア系の観光客をたくさん見かけた。円安の効果だろう。

 あれは誰の小説だったのか・・・。今ではすっかり忘れたが、一つだけ覚えているのは、熊本城主加藤清正が忠誠の料理人によって毒殺された場面だ。料理人は徳川家康が送り込んでいた甲賀か伊賀の忍者で、命令が下るまで何年も忠誠を尽くしていた。女房と娘にこんなミステリーを講釈したが、「あっ、そうなの」とそっけなかった。

 次は今夜の宿泊地の南阿蘇村に向けて車を走らせた。女房と娘は、城内の売店で買った「いきなり団子」を食べている。団子は熊本の名物らしい。「いきなり」はすぐに作れるという意味だそうだが、熊本の方言では、雑な人間のことを「いきなりな人」とも呼ぶらしく、少々耳が痛い。

 幹線道路から脇道に入ると、にわかに阿蘇らしい自然の風景となった。小雨に打たれた新緑は鮮やかさが増している。前方にナイフで切り取ったような三角の山が見えた。樹木はなく、草の山だ。後から調べて分かったが、烏帽子岳(1337m)である。

 森を抜けて急坂を登ると、一軒家の温泉旅館が見えてきた。今夜泊まる垂玉温泉の山口旅館である。江戸時代の創業で、明治には歌人の与謝野鉄幹や北原白秋ら文人が多く泊まったという。烏帽子岳を源とする湯量は豊富で、もちろん源泉かけ流しだ。少し硫黄の匂いがする。

 到着後すぐ、滝の近くに造られた露天風呂に行った。ここは混浴で、幸いわれら家族だけだった。女房なんかは堂々とし過ぎで、恥じらいはない。歳月は、かくも無残に、容赦なく羞恥心をはぎ取ってしまうのだ・・・。

 案内されたのは、別館である。要するに旧館なのだ。年金生活に入って以来、新館に泊まったことは一度もない。前夜の小浜温泉も旧館だった。女房とは「また旧館やなぁ」と笑い合った。しかし、新館は宿泊料が1割ほど高いだけで、食事は同じ。ドアのカギが少々ガタガタするのを我慢すればいいのだ。釈明しておくが、食事は豪華だった。

 翌日は小雨が降りしきる中、火口のある中岳に向かった。山は霧に覆われていて、噴煙を上げる火口は見えないだろう。しかし、高校の修学旅行で訪れた時の思い出があり、ぜひもう一度、火口に立ってみたかった。何と、頂上に着くとにわかに霧が晴れ、活火山の鼓動を間近に体感することが出来た。ひとえに、日頃の行いである。

 帰路についた。山を少し下った草原に8頭の馬が並んでいた。娘は「お父さん、修学旅行で馬に乗ったのはここでしょう?」と言った。そうだ、ここに違いない。実は昔のアルバムに、カウボーイハットを斜めにかむり、馬にまたがる私の写真が貼ってある。懐かしさの余り、娘を誘って馬に乗った。ポコ、ポコ、ポコ・・・うれしかった。

 お椀を逆さにしたような米塚を見物した後、日田市経由で長崎空港に向かった。駐機場にはピンク色のピーチ機が翼を休めていた。長崎空港まで往復8000円の格安チケットだったが、正規料金ではおいそれと旅を楽しめない。

 ピーチを利用するのは、昨年の鹿児島旅行に続いて二度目だ。客室乗務員によるアナウンスは関西弁である。ぎこちない乗務員もいるが、帰りの女性アテンダントのアナウンスは秀逸で、クスクス笑い声が上がるほどだった。独特の抑揚がわれら関西人の心をくすぐるのだ。最後はいつもこう締めくくる。「きょうは ホンマ おおきに」・・・。

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長崎の旅・・・往復8000円のピーチ便

 「長崎へ旅行しよう」と娘が言ってきた。今すぐ予約すれば、長崎までの往復チケットはたったの8000円。格安に目がくらみ、二つ返事で「行く」と返事した。航空会社は関空を拠点にしている「ピーチ」で、今回が二度目の利用である。

 飛行機は分厚い雲の上を飛び、午後遅く長崎空港に到着。レンタカーで島原半島を目指した。長崎県民には悪いが、地図を何回見ても、湾や半島が入り組んでいて、長崎の地形が分からない。

 今夜泊まるのは、半島西側の小浜温泉だ。大正時代、小浜温泉の地主が私財を投じ、温泉客を誘致するため鉄道を敷いた。しかし昭和13年、経営不振で廃線となったが、今はそれが海沿いの道路となっている。石で組まれたレトロなトンネルをいくつもくぐりながら、海と新緑の風景を楽しんだ。

 やがて前方に、もうもうと噴き上げる湯煙が見えてきた。小浜温泉だ。旅館の料理は断わり、新鮮な魚を食べさせる小料理屋に出かけた。鯖、アワビ、カツオ、地元の貝などたらふく食べ、ほろ酔いで海が見える露天風呂につかった。

 翌日は雲仙地獄を歩き、近くの小地獄温泉館で朝風呂につかった。お湯は信州の白骨温泉も後ずさりするほど白かった。ここから半島の東側に向かって車を走らせたが、ガスに見え隠れする雲仙岳が見えた。

 長崎に来た理由は、格安運賃だっただけでない。実は、報道カメラマンだった友人が1991年に起きた雲仙普賢岳の大火砕流で死亡し、今回はどうしても友人の慰霊をしたかったのだ。火砕流から23年の歳月が流れたが、いつかは慰霊のため現地に足を運びたいと思い続けてきた。

 普賢岳にはガスがかかっていたが、時折り、頂上の溶岩ドームと火砕流の跡を見ることが出来た。何と凄まじい爪跡だろう。当時のテレビ映像の記憶は今なお鮮明だが、こうして現場に立つと、改めて火砕流のすさまじさに体が震えた。

 島原半島を後にし、フェリーで熊本に向かった。冷たい風に吹かれながら、遠のいて行く雲仙岳を見続けた・・・。

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      ↑ 海の見える露天風呂。お湯は柔らかい。

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      ↑ 食べた事のない貝。濃厚、クリーミーな味わい。

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      ↑ 雲仙地獄。

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      ↑ 雲仙普賢岳の火砕流は43人もの命を飲み込んだ。友人も・・・。

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      ↑ 遠ざかる雲仙岳。海鳥が飛んでいた。

生石高原にやっと桜前線が・・・

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 桜前線は今ごろ、どのあたりにいるのだろう。山形や秋田のあたりか、いや、それよりも北上しているかもしれない。

 ここ生石高原にはやっとサクラ前線が到達し、わが家の山桜の古木は八分咲きといったところだ。標高800mの高地なので、春の訪れは里より半月ほど遅く、東北の気候と余り変わらない。

 わが家から1キロほど林道を下ると、ため池がある。ここは水面に映る山桜が美しい場所なのだ。満開になると足を運び、柄にもなく花を愛でる。ただ、ここは蛇の巣のような場所で、昨日行った時も草地に長々と横たわり、昼寝をしていた。

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 生石高原近くの道沿いに、桜の植樹が行われている。若木が鹿に食べられるのでネットで囲っているが、将来は桜の並木道になるだろう。この道は、高原に暮らすわれらの生活道路なのだが、1日に車が10台も通らない。朝夕にはイノシシが盛んに出没する寂しい場所である。

 道幅も狭く、軽トラなら何とか通れるが、乗用車では厳しい。こんな所に桜を植樹して誰が見に来るのか疑問である。われらは身近な場所に桜の美しい場所が造られればうれしいが、費用対効果はどうなのか・・・。

 植樹は「緑の募金事業」として行われている。今の時期、緑の羽根を胸に付ける国会議員を見かけるが、あの募金活動だ。国と地方自治体に緑化推進の団体があり、募金によって森づくりが行われている。

 別にいちゃもんを付ける訳ではないが、桜の木を植えるより、荒れた山や、放置された杉林に広葉樹を植える方がいいと思う。広葉樹はたくさん二酸化炭素を吸収するし、水を蓄える力も大きい。ドングリを食べる野性動物も喜ぶだろう。

 桜の名所などいくらでもある。人が滅多に来ない山道に桜を植える意味って、何だろう。しかも、このあたりは山桜が多いのだ。桜の屋上屋を重ねるような役所の発想が、私には分からない・・・。

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    ↑ 若木は緑色のネットで囲まれている

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美しい山村風景と限界集落の現実・・・

 生石高原を下り、買い物に出かけた。その帰り道、今まで一度も通ったことのない山道を走ってみた。かなり遠回りになるが、どんな風景に出会えるか、楽しみである。急がない時、いつもこうして知らない道を走ることがある。

 山道に入って半時間ほど、小さな集落があった。農家の庭先には、ピンクや白の芝桜が植えられ、今が見ごろだ。いつも感心するのだが、日本の山村は美しい。逆に、都会では庭先に自転車や不用品などが乱雑に置かれるなど、きれいとは言えない家もある。

 言うまでもないが、山村にはお年寄りが多い。いや、お年寄りしかいないのだ。彼女たちが農家に嫁いで来た時、家を美しくする姑の背中を見てきたに違いない。それが農家の良き風習として現代にも生き続けているのだろう。その一方で、都会の乱雑さは、共働きなど生活スタイルとも無縁ではなかろう。

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 つづら折れの道を登った。すると眼下に美しい山村の風景が広がっていた。軽トラを止め、見入ってしまった。集落の背後の山には山桜が咲いている。里山には桃色や白い花が咲いていた。

 狭い段々畑には、山椒の木が植えられている。おそらく昔は、ここで稲作をしていたのだろう。近年はちょっとした山椒ブームである。山椒の実を収穫して売る方が、米よりお金になるのかもしれない。

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 こんな風景を見ていると、「桃源郷」という古代中国の言葉を言ってみたくなる。それは、この世のものと思われない美しい場であり、人々が心の中に描く理想の世界なのだと思う。西洋の言葉では、同じ理想社会を指す「ユートピア」だろう。

 しかし、この山あいの美しい自然を「桃源郷」とか「ユートピア」などと呼ぶのは少し情緒的だと思う。ここは、人口の5割以上が65歳以上という「限界集落」なのだ。少子高齢化という現代日本の縮図だろう。

 日本の人口は減少に転じている。あと30年ほどすれば1億人を切り、22世紀には5000万人を割り込むとの予測がある。そして今世紀半ばには、全国で500以上の市町村が消えてしまうという。

 とすれば、この美しい集落の前途もまた、楽観出来ない。集落の背後には、少子高齢化、過疎化、限界集落といった現実が横たわっている。情緒的になってばかりいられない・・・。

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山焼きは観光か、自然保護か・・・生石高原

 今日も、生石高原を1時間余り散歩した。先日の5日と6日に降った雪は、ここ数日の好天ですっかり消えた。風はまだ冷たいが、日差しは春の柔らかさだ。フキやワラビ、山ウドはまだ地中に眠っており、タラの芽だけが少し膨らんできた。

 高原は一面キツネ色である。本来であれば、高原のススキが焼かれ、黒くなっているはずだ。しかし今年は、強風や残雪のため、山焼きが行われなかったという。

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 山焼きは、紀美野町と有田川町が1年交代で実施している。今年は有田川町の番だったが、予定日は強風のため中止になった。予備日にも多くの人が見学に来たが、ススキの間に少し残雪があったらしく、急きょ中止になったと聞く。

 見学者の中には、やれば出来るという声が上がったという。しかし、町側の説明はなく、批判の声が上がった。急いで町の職員が山に上がって来て説明し、その場は治まったらしい。

 確かに山焼きは、猛烈な炎が上がるので、風が吹けば危険だ。実施するかどうかは責任者の町が決めればいい。そのことに文句を言うつもりはない。しかし山焼きは本来、ススキの害虫を駆除し、芽吹きを促すのが目的だ。町側は、その本来の目的を忘れているのではないかと思う。

 生石高原の山焼きは、平成14年から始まった。この13年間で、実施されたのが計8回だけである。東北大震災が起きた平成23年は、自粛して行われなかった。そして翌年も気象条件で中止、その次の年は行われたが、今年はまたも行われなかった。ここ4年で山焼きが行われてのは、たった1回である。

 そもそも、大震災の時に自粛したのが分からない。昭和天皇が崩御された時は、歌舞音曲が自粛され、盛り場など街の灯が消えたことを思い出す。それは日本の哀悼の示し方であるが、震災があったからと言って、害虫駆除の山焼きを中止するのは、まことに陳腐としか言いようがない。

 山を燃やすなんて不謹慎だと思うのは、いかにも役人らしい発想である。その根底には、世間の批判を浴びたくないという狭量で、保身的な考え、つまりはお役所仕事がこの地方の役場にもはびこっているのだ。

 聞くところによると、山焼きは「観光課」が担当しているという。これも驚きだ。なるほど、勇壮な山焼きを楽しみにしている人は多く、アマチュアカメラマンも来るので、観光にもなる。だが本来の目的は自然保護であり、例えば「環境課」が担当すればいいと思う。「観光課」は、まさしく本末転倒の表れなのだ。

 山焼きを実施するには、消防や役場の職員など多くの人手が必要で、それは分かる。しかし予備日を少し増やし、人手を柔軟に動員できるよう、工夫すればいいと思う。余りにも硬直的な実施方法であるため、本来の目的を果たせないでいるのだ。生石高原の自然を愛する者として、苦言を申し上げる・・・。

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高原は猛烈なアラレ・・・

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 大津の自宅を離れ、和歌山・生石高原の山の暮らしを再開して4日目だ。家の中や敷地の掃除をしたり、倒れたテレビのアンテナの建て替えをしたりで、少しくたびれ気味だ。

 朝食を食べ終わっても、何か作業をする気が起きない。女房も「体がだるい」と言っている。体をシャキッとさせるため、女房を引っ張り出して散歩に出かけた。

 高原を歩いた。近く友人が遊びに来るので、タラの芽が出ていたら食べさせてやろう思った。しかし、タラの芽は少し紫色を帯びているだけで、まだ食べられそうにない。高原の春はもう少し先だ。

 山小屋まで200mほど手前まで来ると、雨が降り出した。そして、あっという間にアラレに変わった。家に逃げ込んだとたんに、アラレは一層猛烈になり、屋根がバラバラという音を立てている。

 山小屋生活を楽しもうと思っていた矢先、出鼻をくじくようなアラレだ。まだまだ高原は春と冬の名残りが交錯している。暖かい日が待ち遠しい・・・。

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生石高原の暮らしを再開・・・

 やっと和歌山の生石高原に帰る日が来た。冬の間およそ3か月だけ大津の自宅で過ごしていたが、どちらかと言えば退屈な毎日だった。それだけに、これから始まる山の暮らしに、色々と期待が膨らむ。

 軽トラの荷台には家財道具、衣類、日用品、パソコンなどを満載して走った。高速料金を節約するため、名神や阪和道などは通らず、京都の宇治田原や奈良の地道を通って行く。4時間もあれば、山小屋に着く。

 大津を出発する時、近くの公園の桜はまだ三分咲きくらいだったが、京都や奈良では満開に近く、和歌山に入ると今や満開の花盛りだ。やはり大津は琵琶湖を渡る北風が冷たく、北陸に近い気候である。

 道路に設置されている温度計は15度だった。和歌山県桃山町に入ると、果樹園の一帯は鮮やかな桃色である。ここは桃のブランド品「荒川の桃」の産地である。桜よりも、桃の花を見ると一層春の訪れを実感する。

 生石高原への急な坂道を登り切ると、わが山小屋である。今年は近年にない大雪だったそうで、ここで暮らす知り合いの夫婦は車が動けず、1週間も孤立していたという。水を上げるポンプも壊れ、雪を溶かして水を作った言っていた。

 ここはまだ冬の気配を残したままだ。若葉が出るのはまだ先で、山菜のタラやコシアブラの芽もまだまだ堅い。桜はもちろん、咲く気配さえない。ただ、クロモジだけが黄緑色の若葉を出していた。山には彩りがないだけに、余計に目立つ。

 山小屋の周囲を回ってみた。積んでいた薪が一列倒れていた以外は、変わりなかった。網で囲っている畑はイノシシが入った形跡はない。山小屋は一応順調に冬を越したようだ。

 キノコを栽培している裏手の杉林に入ってみた。何と何と、シイタケがたくさん出ており、しかも大きくなり過ぎのものも多い。例年より早い発生だ。去年秋のシイタケは不作だったので、その反動かもしれない。

 ウッドデッキに出て口笛を吹いてみた。すると、ヤマガラが向かいの木から私をめがけて一直線に飛んできた。そして餌を乗せている手に止まり、私の顔をじっと見つめている。覚えていてくれたのか・・・。すこし目頭が熱くなった。これからは毎日餌をやるが、消費税が上がったので、少し量を減らす。

 翌朝の気温は2度。薪ストーブに火を入れなければ、寒くて仕方がない。ここ生石高原で本当の春を感じられるのは半月は先だろう。さぁ、これからは忙しくなる・・・。

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     ↑ クロモジが芽を出した

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     ↑ コシアブラの芽も堅い

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     ↑ ヤマガラは覚えてくれていた

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     ↑ 大きなシイタケが出ていた
 
 

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