映画「柘榴坂の仇討」・・・本懐とは

 映画「柘榴坂の仇討」を観てきた。浅田次郎の同名の短編小説を映画化したものだ。主演は、井伊大老の近習で、お駕籠回りを務める彦根藩士の中井貴一である。その妻を広末涼子、大老暗殺グループの生き残りとして追わ続けた水戸浪士を安部寛が演じていた。

 井伊大老は雪の桜田門外で、浪士らによって殺害された。襲撃の直前、訴状を掲げる浪士が現れ、武門の象徴の長槍を奪われた。中井演じる志村金吾がこの男を追い、胸に一太刀を浴びせて現場に戻ると、すでに惨劇は終わっていた。金吾は切腹さえ許されず、上役から残党5人の追跡を命じられた。妻セツが酌婦をしながら金吾を支えた。

 暗殺から13年の歳月が流れ、金吾はついに最後の残党に巡り合う。すでに徳川の時代は終わり、明治新政府は廃刀令や仇討禁止令など矢継ぎ早に新政策を発令、ちょんまげを切るよう奨励もした。もはや武士の時代は終わりつつあったが、金吾はいつも腰に二刀を差し、身も心もラストサムライだった。

 金吾は雪降る夜、人力車に乗り、椿が咲く柘榴坂を上った。車夫は直吉と名乗り、両親は自分の不始末で自害したと打ち明けた。金吾の両親も息子が大老を守れなかった責任をとり、自害している。いま人力車を引いているのは、長槍を奪ったあの男である。忘れもしない佐橋十兵衛だ。二人は柘榴坂の路上で、刃を合わせた。

 主君の無念を晴らすため耐えに耐えた13年。目の前にいるのは、ついに追い詰めた仇敵である。「仇討」と書けば、「本懐を遂げる」と続くのが武士のならいである。赤穂浪士も吉良上野介の首をとり、本懐を遂げた。元禄の世の人々は、その義挙に快哉を送ったのだ。

 しかし金吾は本懐を遂げようとしなかった。柘榴坂の椿の垣根を指し、「佐橋殿、そなたも、この垣根を越えてくれまいか。わしも、そうするゆえ」と言って、刀を収めた。浅田作品には時々、このような特有の「気取り」がある。正義感か、それとも分別か。私は余り好きでない。

 私のような凡人が描く小説の結末は、金吾が佐橋を斬り、あくまでも主君の仇を討つ。本懐を遂げたあとは、主君に殉じるため腹を切る。しかし映画は、アメリカ映画のようにハッピーエンドである。仇討の呪縛から解き放たれた金吾と佐橋には安堵感がにじむ。何だかホームドラマのようで、時代劇ファンとしては物足りなかった。

 映画化された「柘榴坂の仇討」は、短編集「五郎治殿御始末」の6編のうちの一つである。私はかなり前に6編全部を読んだが、「仇討」は特に印象に残る作品ではなかった。それよりも、浅田作品らしく大いに泣かせる「椿寺まで」や、桑名武士の矜持を描き、笑わせ泣かせる「五郎治殿御始末」の方が良い作品だと思った。

 それはさて置き、中井貴一は凛とした武士の姿を上手に演じていた。随分前の話だが、晩酌しながら女房に「中井貴一は相変わらず大根役者やなぁ」とこき下ろしたことがある。しかし彼が齢を重ねるごとに、いい味を出せる役者になったと思う。時代劇にはなくてはならない役者の一人だと思う。
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コロダイにマハタ・・・女房は満面の笑み

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 もし釣り師にプライドがあるなら、格下に言ってはならないセリフがある。昨日の釣行で、大物を釣った女房についそんな禁句を発してしまった。「どんな当たりやった?」。女房に教えを乞うこの言葉である。プライドをかなぐり捨て、女房の軍門に下ったようなものである。

 さて、ガシラ釣りで連戦連勝が続く女房は、毎日、毎日、海の状況を私に聞く。要するに釣りに行きたいのだ。確かに釣りに行けば、3日分くらいの食料が手に入り、家計の大きな足しになる。しかし女房は「食費が助かるわ」と言って、素直に釣りがしたいと言わない。妙な意地である。

 しかし、釣りの師匠としては、女房のやる気をくじくことは出来ない。22日の天気予報が良かったので、由良湾へ行くことにした。しかし朝5時ごろに起床すると、雨が激しく屋根をたたいていた。気持ちが萎えたが、次第に晴れるという予報を信じて車を走らせた。

 紀伊水道の漁港に着くころには小雨になり、ボートの準備をしているうちに雨はやんだ。静かな由良湾を走り、やがてポイントに到着した。鯖の切り身を針に刺し、10号の重りで仕掛けを海底に下ろす。

 最初の当たりは私にあった。ゴン、ゴン、ゴンと竿先が震え、クイッと押さえ込まれた。すかさず合わせを入れると、確かな手応えが伝わってきた。何度かの締め込みをかわして浮かせたガシラは、20センチを超すまずまずのサイズだ。

 続いて女房も釣った。それから私と女房は抜きつ抜かれつ。デッドヒートと言いたいところだが、ガシラの活性はにぶく、釣果は期待したほどではない。今日の調子だと、二人合わせて20匹も釣ればいい方だろう。

 釣り開始から2時間ほど経った時、女房は「底掛かりしたいみた」と言った。続けて「あれ?魚がついている」と言って、竿を弓なりにさせている。竿を持ち上げ、次に竿を下しながらリールを巻く。ポンピングという大物を釣る時の基本的な動作である。私が教えた通り、女房はポンピングを繰り返している。

 海中に揺らめく魚影は何とコロダイだ。30センチ以上はありそうだ。玉網ですくった直後に私が言ったセリフが、冒頭の「どんな当たりやった?」である。「ゴン、ゴン」という当たりなのか。いきなり「グイッ」ときたのか。そこは興味津津なのだが、普通、プライドが邪魔して聞けないものだ。女房は「微妙」と言い、その具体性に欠くセリフがまた癪にさわった。

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 するとまたも女房が竿を曲げた。浮いてきた魚は、縞模様も鮮やかマハタである。これもなかなか口に入らない高級魚である。釣った数は女房と変わらないが、目方が違うし、魚自体が異色である。今回も完敗だった。

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 この日はなぜか根掛かりが頻発、たくさん準備しておいた仕掛けが底をつき、昼前に帰港した。釣果は二人で21匹。その夜は、コロダイの半身を刺身にし、残りとマハタを鍋で食べた。「では、いただきます」と言う私は、情けないほど卑屈だった・・・。

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寒い朝・・・イノシシが暴れ、秋茄子が育つ

 今朝は、9月に入って一番の寒さだった。玄関先の温度計は11度、室内は15度だった。寒いので、薪ストーブに薪をいっぱい入れ、火をつけた。調子よく燃えてくれ、すぐに暖かくなった。

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 朝食の前、われら夫婦と愛犬ピーがそろって畑に行くのが日課である。秋野菜のナスが日に日に大きくなってきた。大きいものは早く収穫しないと、カラスなどの動物に食べられてしまう。

 ナスにカメラを向けていると、ヤマガラが飛んできた。このところヤマガラの食欲は旺盛で、私が起き出す前からウッドデッキの餌台でヒマワリの種がもらえるのを待っている。そして、私たちが外に出ると、このように畑まで付いてくるのだ。

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 旧暦の本を開くと、旬の野菜はそのナスとあった。秋ナスと言えば、「嫁に食わすな」と続く。美味しいので嫁に食べさせるのはもったいないという姑の嫁いびりである。反対の意味もある。秋ナスは種が少ないので、子供が出来ないという姑の嫁に対する思いやりだが、何だか取って付けたようで空々しい・・・。

 ピーを散歩させるため、山小屋の階段を下りた。すると、斜面の段々畑の際が掘り返されている。その下は、大きな穴が掘られていた。腹をすかせたイノシシの仕業に違いない。いくら食欲の秋とはいえ、いい加減にしてもらいたい。

 荒らされた場所は、女房が寝ている部屋から10mほどしか離れていない。女房の寝息(いびきとも言う)に気付かなかったのだろうか。気付いていて接近したとすれば、相当ふてぶてしい野郎である・・・。

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      ↑ 4軒隣の敷地もご覧の通り。

 

またも女房に完敗・・・ガシラ釣り

 由良湾へボート釣りに行くのは、2か月ぶりだ。これだけブランクが空くのも珍しい。30年ぶりというこの夏の異常気象が原因で、ボートを出そうと思えば雨が降り、波の高い日も多かった。。

 ボート釣りに行くかどうかを判断するのは、波の高さである。気象庁のホームページでチェックするのだが、和歌山北部の波の高さが1mであればOKである。1・5mだと少し波をかぶることもある。もちろん、雨降りは御免である。

 やっといい日和がやって来た。晴れで由良湾の波の高さは1m以下だ。午前5時、軽トラにゴムボートを積み、由良湾に向けて出発した。女房は助手席で神妙な顔をしながら押し黙っている。期待で胸がはち切れそうになっているのだろう。

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 この日は3連休最後の敬老の日だ。ボートを出す由良湾のこの漁港は、休日になると釣り人でにぎわうが、予想していたより人は少ない。30分ほどでボートの準備を終え、ポイントに向かってボートを走らせた。

 波は静かで、頬に当たるい風はすっかり秋である。狙う魚は、海底の岩場に潜むガシラである。いつものポイントにアンカーを入れた。私は二人分の釣り竿を準備する。女房は私から竿をひったくると、早々と釣りを開始した。

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 女房は「おかしい」と独り言をつぶやいている。仕掛けを下せばすぐ魚が釣れると思っているのだ。釣りで悩み、苦労もしたことのないド素人なのだ。その素人に、ここ1年ほど私は連戦連敗だから、私のプライドはいたく傷ついている。

 少し遅れて私が竿を出した。10mほど前方に仕掛けを投入した。やがて、クックッと竿先を震わせる当たりが来た。わずかに竿を引いて聞いてみると、クイッと押さえ込んだ。合わせを入れる。小気味いい引きが伝わってくる。

 浮いてきた魚は20センチほどのガシラである。次は、ゴンゴンという明確な当たりだ。釣れたガシラは、最初のより少し大きい。煮付け、唐揚げにして食べやすいサイズだ。女房に「今日は魚の活性いいぞ」と声をかけるが、無言・・・。

 何としたことか、それからも釣れ続け、5匹釣れた。「まだ釣れんのかい」と、女房をからかった。「技術の差は確かにあるが、だいたい、平等に釣れるから諦めずにがんばれ」と励ましもした。しかし女房は、だんまりを決め込んでいる。

 私にも当たりが遠のいたので、シーアンカーを入れて流し釣りをすることにした。すると、女房に待望の1匹目が来た。本来なら海に戻すはずの10センチほどの小さなガシラだったが、女房は大事そうにクーラーに放り込んだ。

 これを皮切りに、女房は俄然調子を上げ始めた。あっという間に5匹の差がなくなり、引き離されてしまった。さっきまで黙り込んでいた女房は多弁になり、「また釣れた」「ほれほれ、またや」と、これ見よがしに言う。

 こちらは段々不機嫌になる。ガシラ釣りはしばしば仕掛けが海底の岩に絡んで取れなくなるが、女房はその度に私に竿を渡して取ってくれと言う。仕掛けも私が取り替えてやる。しかもボートを操らなければならない。「俺を頼るな。釣りは自己完結でやるものだ」。そんな嫌味の一つも言いたくなる。

 そのうち、女房が竿を大きく曲げた。リールがギリギリと音をたてている。緑色の魚が浮いてきた。玉網ですくい上げた魚はサバフグだ。これは毒がないので、唐揚げにするとおいしい。

 よく根掛かりしたので仕掛けがなくなり、昼前に釣りを終えた。釣果はガシラに大きなベラが混じり、女房が12匹、私が8匹で、またも女房に完敗である。その夜食べたガシラの唐揚げは脂が乗っていて、どんな魚よりおいしかった。あっ、そうそう、女房に完敗の理由だが、男らしくないので言わない・・・。

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朝日新聞の悪意・・・

 朝日新聞は死んだと思う。

 これが日本を代表するジャーナリズムとされ、多くの国民がそう信じているのだから、暗澹(あんたん)とさせられる。

 情けないのは、同紙の姑息さと卑劣である。一番謝罪しなければならないのは、30年にもわたってしつこく慰安婦の強制連行を報道し続けた問題だろう。ところが、11日に行われた朝日の記者会見は、原発事故の最前線で働いていた東電職員が逃げ出したとする記事の取り消しと謝罪である。

 慰安婦の強制連行という最大の問題を、原発事故報道の陰に隠そうとしたのだ。つまり、慰安婦問題を付け足しにした。この意図を悪意と言わずして何と言ったらいいのだろう。

 しかも、記者会見を午後7時30分からにしたことだ。記者会見は、何も緊急といった性質のものでない。社内で一言一句を練り上げた計画的な会見のはずだ。それをこの時間に行ったのは、夕方のテレビ報道を忌避したとしか思えない。

 一般的に言って、記者会見は夕刊のドタバタを避けるため3時とか4時に行うのが普通である。こうしたマスコミの通例を熟知しながらの会見は、またも姑息さと卑劣さの表れと言うしかない。

 このように書いておいて変だが、こんなことはどうでもいいのだ。最大の問題は、朝日の悪意に満ちた意図にある。なぜ、強制連行というペテン師の話を書き続けてきたか。調べればすぐわかるのに、東電職員の敵前逃亡という嘘を書いたのか・・・。

 強制連行は世界に流布され、国連の人権委員会でも日本が非難された。原発問題も世界に発信され、日本人の敵前逃亡という悪いイメージを植え付けてしまった。このような悪いメッセージになることを認識しながら、なぜ朝日は日本という国を貶めたのか。どちらも朝日の強い意思、意図であることは明白だ。

 その意図とは思うに、国家の利益より、反国家を唱えることがジャーナリズムの正義だと考えているのだ。国家は国民を抑圧する悪の概念であり、これは冷戦時代のカビの生えた思想である。朝日の記者には、猛々しい反国家の思想がヒロイズムに通じているのだ。

 権力を監視し、政治を正すのは正常なジャーナリズムである。それは何者にも侵すことが出来ない報道の自由という最高法規だ。だからと言って、事実をねじ曲げ、ねつ造し、嘘を書いていい訳がない。

 朝日に批判的な全国紙は産経、読売だが、ここに来て自分とこへの飛び火を心配したのか、毎日も同調し始めた。それよりも、テレビは問題が多い。ABCもTBSも誤りを認めた朝日の報道を取り上げることが驚くほど少なかった。ABCの報道番組に高名な朝日新聞の編集委員が出演しているが、ほとんどコメントしなかった。これも朝日の一面である。

 ねつ造、虚報のレッテルを貼られた朝日新聞は、自らジャーナリズムとしての命を絶ったと思うのだが・・・。
 

北穂高岳・・・その2

 涸沢小屋から北穂高岳(3106m)山頂に向けて歩き始め、3時間近くが経過した時だった。ガスに包まれた頂上付近を見上げ、目を足元に戻すとグラッと体が揺れた。そして、たたらを踏むように足取りが乱れた。

 実はその少し前、軽い吐き気がし、冷や汗のようなものが出た。どうやら高山病らしい。3000m級の山はいくつも登っているが、このような症状が出たのは初めてだ。これまで、高山病は他人事だと思っていた。

 涸沢から頂上まで標高差で700mほどあり、急な斜面をよじ登って高度を稼ぐ。いくら私が鈍足でも、この高度差が影響したのだと思う。前夜、よく眠れなかったのも遠因になったのかもしれない。

 症状はごく軽いものの、それでもフラフラして岩にぶつかりそうになったこともあった。高山病には下山が最大の良薬だが、ここまで登って下山するのはいくらなんでも無念だ。しっかり岩をつかみ、一歩一歩、慎重に登った。

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 何とか、涸沢岳方面への分岐まで来た。ここでしばらく休息をとると、吐き気が治まるなど、症状はだいぶん改善した。ここから山頂まで200mだ。もうひと踏ん張りだが、なかなか頂上に辿り着けず、もどかしい。

 ガスをかき分けるように登ると、突如、山頂に着いた。「3106m」の標識が立っている。そこは、10m四方くらいの広さで、絶壁の上にある。ガスで下は見えないが、晴れていたら高度感があり、ゾッとしたはずだ。

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 そこから階段を少し下ると、猫の額ほどの場所に北穂高小屋があった。まるで岩にしがみついているように見えた。前回書いたが、小屋は戦後間もなく、小山義治さんが独力で建設した。この人は、穂高に数々のルートを開拓した山男だが、なかなかの文化人でもあり、絵画や音楽を愛した。小屋で定期的に行われるレコード・コンサートは有名だそうだ。

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 小屋のテラスから眺める槍ヶ岳は絶景であり、私たちもそんな景観を楽しみにしていたが、もちろんテラスはガスの中。小屋に入り、煎れたてのコーヒーを飲んだ。寒かったので、熱いコーヒーはおいしかった。コーヒー茶碗には、高山植物のイワツメグサの花が描かれており、小屋のトレードマークになっている。

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 山頂にこれ以上留まっても、ガスが晴れることはないだろう。絶景を見られなかったのは残念だったが、それでも夫婦でともに山頂に立つことができ、それはそれで大きな喜びである。小雨が降り続く中、ゆっくりと下山することにした。

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 長い梯子と鎖場が続く北穂一番の危険な場所に来た。下を見ると、ピンク色の雨具を着た女性に、二人の男性が寄り添っている。何をしているのだろう。ここは一方通行なので、彼らが登って来るのか、下るのか見極めるため、しばらく様子を見ていた。しかし3人は座り込んだまま、動こうとしない。

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 私たちは下ることにした。女房が先に行き、女房が下り終えたのを確かめて私が下った。私の高山病は高度が下がったので、すっかり治っていた。座り込んだ3人に話しかけると、年配の男性は「登る途中、女房が滑って落ちたんです。どうやら肩を脱臼したようです」と言い、女性は苦痛で顔を歪めていた。もう一人の男性はたまたま通りかかったらしい。

 私たちは、携行していた鎮痛剤と湿布を使ってもらおうと思ったが、彼女はすでに痛み止めを飲んでいた。それにしても、雨に濡れたこの場所は危険だ。後で聞いた話だが、女性はかなりの登山のベテランで、北穂高小屋に泊まるため頂上に向かっていたと言う。ベテランでも、ちょっとっした油断が事故を招くのだ。

 手を貸そうと思ったが、われらには偉そうに言えるほどの体力も脚力もない。夫婦はすでに救助隊を呼んでおり、先に下山することにした。その途中、山小屋に詰めている救助隊が次々と登ってきた。われらが涸沢小屋に着いてしばらくすると、女性は救助隊にかつがれて下山してきた。

 半時間もしないうちに、ヘリコプターが飛来し、女性とご主人を収容して飛び立って行った。これがもし民間のヘリなら50万円ほど請求されるらしい。登山には様々な危険が潜んでおり、気の毒なこの夫婦を見て、改めて安全な登山を胸に刻んだ。

 上高地に下山してからの話だが、バスの待ち時間に登山相談所の人としばらく話した。彼によると、雨の多かったこの夏、事故は毎日のように起きており、この日も北穂高の別の場所で転落事故があったという。さらに、薬師岳では京大生2人が沢に流された。この翌日知るのだが、二人とも遺体で見つかった。

 相談所の彼は憤慨しながら早口でまくしたてた。「先日は、登山ガイドが付き添っていながら登山者が100m転落して死亡した。とくに、経験の少ない若者の事故が多い。大きな声では言えないが、経験の浅い人の入山を拒否したいほどだ」。

 話が前後したので、元に戻そう。ヘリに収容された夫婦を見送りながら、この日涸沢小屋に泊まるか、それとも3時間かけて横尾山荘まで下るか迷っていた。私は北穂に登って疲れていたが、女房は次の日が楽になるので横尾へ下ろうと言い出した。仕方なく、とぼとぼと女房の尻を見つめながら下山し、この日は横尾山荘に泊まった。

 翌日の最終日は、上高地まで3時間ほど歩くだけだ。前夜は風呂に入れたので、すっかり疲れがとれた。横尾山荘を出発してしばらくすると、ヘリコプターが飛んで来た。ブルーの機体に赤い線が入っており、県警のヘリだろう。その後何回も行ったり来たりしており、また事故があったに違いない。

 徳沢を過ぎたあたりで、梓川の向こう側に虹がかかっており、思わず美しい光景に見入ってしまった。それにしても、この夏の天気予報ほどあてにならないものはなかった。今回は、好天の予報がまさかの連日の雨。山の天気だから、愚痴を言っても始まらないが・・・。

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                                                          (終わり)

北穂高岳・・・その1

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       ↑ 北アのパンフレットより(右が北穂高岳)

 北アルプス3000m級の名峰北穂高岳に登るため、毎日、毎日、好天が到来するのを待ち続けていた。この夏の異常気象は文字通りの異常で、長期予報をチェックしながらやきもきするばかりだった。夏山登山を予定していた人たちも空を見上げ、深いため息をついていたに違いない。

 ところが9月に入ると、北アルプスのピンポイント予報に晴れマークが現れ、登山に適する「Aランク」の文字が3日連続で並んだのだ。われら夫婦の決断は早かった。予報が出た翌日には、軽トラで奥飛騨の平湯温泉を目指していた。

 次の日、シャトルバスで上高地に入り、河童橋から北アルプスの峰々を眺めた。西穂高、前穂高もきれいに見える。明神岳の上に少し雲がかかっているのは気になったが、おおむねわれらの判断は正しかったようだ。

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 登山届を提出し、歩き始めた。梓川はいつ見ても美しい。釣り好きの私は、岩魚の魚影を求めて川面を見つめるが、これまで一度もその姿を見たことがない。北アルプス登山の黎明期、この川で岩魚を釣り、生活の糧にしていた上高地の主の嘉門次、若い登山者にいつも岩魚を振る舞ったお人好しの常次郎たちの名前が浮かんだ。

 横尾大橋を渡り、涸沢に向かう平坦な登山道を歩いた。左手には覆いかぶさるような屏風岩。やがて、多くの登山者が休憩する本谷橋に着き、私たちは渓谷の岩に腰掛けてコンビニのおにぎりをほうばった。ここからは急な登山道が続く。涸沢方面を見上げるとガスがかかっており、少し不安になってきた。

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 前方に涸沢ヒュッテが見えた。ガスが立ち込める中、ヘリコプターによる荷揚げ行われている。急坂を登り切り、登山道を右に曲がると、今夜泊まる涸沢小屋だ。宿泊手続きをした後は、テラスへ一直線。とりあえずは、キンキンに冷えた生ビールである。この一杯のために山を登っているのだろうか。

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 テラスから眺める涸沢カールの景観は、涙が滲んでくるほど感動的だ。しかしこの日のカールは上半分がガスに覆われ、恐竜の背中のような前穂、そして奥穂へ連なる弓のような吊り尾根は雲の中。それでも、氷河が削った日本最大のカールは迫力に満ちている。天気予報を信じて登ってきたが、山の天気とは女心のようなものだろう。

 涸沢小屋での一夜は、よく眠れなかった。夜明け前、テラスに出ると、霧が北の方向からカールに吹き上げていた。この分だと、遅かれ早かれ雨になるだろう。涸沢小屋の標高は2350mで、これから3106mの北穂高山頂を目指すが、岩は濡れていて滑りやすい。かなりの困難が待ち構えているに違いない。

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 午前6時過ぎ、雨具を着込んで岩の道を上った。霧が吹きつけ、眼鏡のレンズが曇る。振り返ると、涸沢小屋の向こうに広がるカールはまったく見えない。高山植物の盛期は終わり、お花畑は彩りに欠ける。トリカブトの合間に、結構大きな赤いイチゴがぶら下がっていた。

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 突如、すぐ前を歩く女房が小さな声を上げた。猿が一匹、女房の右足をかすめるように横切ったのだ。猿は夢中になって草むらのイチゴを食べ出した。女房との距離は1mもない。猿は登山者に慣れている。

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 岩稜はいよいよ厳しくなってきた。雨に濡れた岩はよく滑る。落ちれば軽傷では済まないだろう。われらの後ろを登っていた十数人のヘルメット姿のグループは、いつの間にか途中で下山したようだ。おそらく、山岳ガイドが安全を期したのだと思う。

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       ↑ 途中で下山したヘルメットのグループ

 最初の核心部にさしかかった。長い鎖場が続き、その先には30段以上の梯子が架けられている。砥石のような岩は雨で不気味に光っていた。次の回で詳しく書くが、ここで人が滑って落ちた。第二の核心部は、鎖につかまり、岩にかじりつき、登らなければならない。雨の北穂高は、格段に難度が上がると思う。

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 何年か前に読んだ一冊の本が蘇る。小山義治著「穂高を愛して二十年」(中公文庫・昭和57年出版)。著者は山頂に建つ北穂高山荘の初代オーナーである。麓の横尾谷に作業小屋を作り、山荘の建築用材を作った。そして単身、標高差700mの山頂まで、長さ5・5m、重さ130㎏の梁を担ぎあげたのだ。

 これは戦後間もない時期で、登山用具も今のようなものではない。信じられない偉業だ。今われら夫婦は、小さなアタックザップ一つを背にしただけなのに、急峻な岩稜を前に息も絶え絶えなのだ。想像を絶する苦難を乗り越えて完成した北穂山荘は、穂高連峰の縦走を楽にしたし、槍ヶ岳のビューポイントとしても登山者を楽しませている。

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 歩き出して3時間近く経つのに、まだ頂上は見えない。ガスの向こうに屹立する岩がいくつも見え、気力が萎えてくる。仰いでいた首を元に戻した時、グラッと体が揺れた。今まで経験したことのない異変が、私の体の中で起きている・・・。

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                                                              (続く)

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