絶景かな・・・三上山

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 琵琶湖の東側にそびえる三上山(野洲町)は、わが家からもよく見える。そんな身近な山だが、これまで一度も登ったことがない。先日、春のような陽気になったので、女房とともに三上山をめざした。大津からは車で1時間もかからない。

 この山の標高は432mと高くはないが、まるで独立峰のように見え、その優美な姿から「近江富士」と呼ばれる。古来から京に至る道しるべになっていたに違いない。古事記にも記録が残っており、松尾芭蕉には一句があるそうだ。

 山の麓から少し離れた所に、三上山をご神体とする御上神社がある。藤原不比等の時代にさかのぼる由緒も格式もある神社だ。国宝の本殿にお参りした後、田んぼの道を通って登山口へ。山を見上げれば、余りの急こう配に尻ごみする。

 登山道は「表」と「裏」があって、表は健脚向きらしい。われらは健脚ではないが、景観の良い表から登ることにした。登山道の入り口には鉄柵があり、これを開けて登るが、閉め忘れは禁物。イノシシが侵入するからだ。ご神体の山もイノシシの脅威にさらされており、山全体を柵で囲んである。

 登山道はいきなり急斜面で、長い階段が続いている。杉やヒノキ、コナラなどの樹林が覆いかぶさり、薄暗い。そんな中に、皮をむいた赤いヒノキが全山で見られた。社殿の屋根を葺く桧皮(ひわだ)を採取したのだろう。

 しばらく行くと、「割れ岩」の標識があった。なるほど、高さ5mほどの巨岩が二つに割れたような形になっている。ここを通り抜けたらご利益があるのだろうか。人一人がやっと抜けられるような狭さで、メタボや妊婦は無理である。私は細身だが、近年出っ張ってきた腹がつかえてなかなか前に進めない。意外や、女房は苦戦しておらず、不思議である。

 ここから急な岩場をよじ登る。すると一気に視界が広がり、素晴らしい景色が飛び込んできた。雪を戴く比良の峰々。その奥に、比良山地最高峰の武奈ヶ岳がかすかに見えた。左に目を転じると、天台密教の聖地・比叡山だ。眼下には野洲川が蛇行し、琵琶湖に注いでいる。

 ここでは多くの登山者が足を止め、景観に見とれていた。私たちも15分ほどとどまった。再び歩き始めたが、山頂はすぐそこだった。所要時間は登山口から1時間余り。狭い山頂には鳥居と祠があり、天から降ってきたような巨岩にはしめ縄が巻かれていた。さすがご神体の山である。

 東向きの岩場で昼食にした。おにぎりとスープ代わりのカップ麺だ。前方には新幹線が走り、名神が緩やかな曲線を描いていた。高層の大津プリンスホテルの向こうに、わが家のある住宅街も見えた。今頃、愛犬ぴーが寝そべりながら留守番をしているだろう。

 別の鳥居をくぐって下山した。岩がごつごつした登山道は歩きにくく、登りよりも時間がかかったと思う。それにしても、実に景観豊かな山だった。そして、大津京や壬申の乱の舞台、紫香楽の宮など古代ロマンをかき立てられる山歩きだった。

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生石高原は凍っていた・・・

 標高800mの生石高原は、冬になると凍りつくような寒さである。これが嫌で、冬の間だけ高原の山小屋から大津の自宅に帰っている。比叡おろしの風も冷たいが、それでも山小屋に比べたらうんと過ごしやすい。これからは三寒四温で春が近づき、4月になれば高原にも遅い春が来る。そうすれば和歌山に帰ろうと思う。

 大津での暮らしは退屈だ。女房は知り合いが多いが、私は地域とかかわりなく働いてきたので、近所の人とは挨拶を交わす程度である。暇つぶしという訳ではないが、歩いて片道30分ほどの図書館に通うのが午前中の日課である。お陰で、余り為にならない週刊誌情報だけは詳しくなった。

 自宅には小さな庭があり、ヒヨドリ、スズメ、メジロが姿を見せる。ミカンを割って置いておくと、メジロがやって来るが、私の姿を見ると逃げてしまう。可愛げのない野鳥である。それに比べると、山小屋に来る野鳥は多種多様で、さえずりも美しい。とくにヤマガラは手に乗って餌をついばみ、孤独な老人の心の中に入ってくる。

 大津で暮らしてちょうど二か月になるが、ホーム炬燵の中で過ごす時間が長い。女房は「外を掃除して」「ごみ袋出して」と口うるさいが、面倒なので石灯籠のように動かない。つけっ放しのテレビに目をやっているうちに、興味のない芸能情報にも詳しくなり、女房に誰が不倫した、結婚したなどの情報を教えている。

 朝起きるのは5時から6時の間である。まず石油ストーブをつけるが、急には暖かくならない。寒さのため水鼻は垂れるし、涙も出る。ティシュで拭き、まるめてゴミ箱に放り投げるが、これが入らないのだ。

 ゴミ箱までは1・5mほどの距離、口の広さはは25cm四方くらいだ。こんな距離なのに、なぜ入らないのか。以前は3mくらい離れていても、難なく入っていた。ゴルフをしていた時は、距離感と方向性が求められるアプローチショットは得意だった。それがこのザマである。間違いなく老化である。ご同輩、一度試されたらいい。

 山小屋の様子が気になったので、二日前、和歌山へ向かった。紀の川のほとりでは梅が咲いていた。生石高原への坂道を上り、中腹の札立峠を越えると、日蔭では薄っすら雪が積もっていた。頂上の高原はかなり雪が残っており、山小屋近くの道路は雪のわだちがカチンカチンに凍っていた。

 山小屋には変化はなかった。昨年12月に大津へ帰る時、シイタケの原木に小指の先ほどの「芽」がいっぱい出ていたが、まったく大きくなっていなかった。春にはこれが立派に成長するだろう。畑の玉ネギは寒さに耐えて元気だ。肥料をまいておいた。家の中の薬缶の水は凍っていた。

 大津では、頬をなでる風にいくらか春の兆しを感じるが、高原はまだ冬の真っただ中だった。早く帰りたいが、まだ先のことだろう。山小屋には2時間ほど滞在し、山を下った・・・。

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140円で琵琶湖一周の旅・・・

 「JRの特定区間って知ってる?」と女房が聞いた。いや、聞いたことがない。「今日は特定区間を利用して琵琶湖を一周しましょう」と言う。ぐるっと回っても運賃はたったの140円だそうだ。嘘のように聞こえるが、どうやら本当らしい。

 A駅からB駅に行く場合、直接B駅に行くのも、遠回りして行くのも同じ運賃だそうだ。ただし、東京や大阪など特定地域の路線しか利用出来ず、しかも一度通った路線を二度通ってはルール違反である。途中下車もダメである。

 琵琶湖一周だと、私の住んでいる大津市の膳所駅で大津駅までの切符を買う。140円である。膳所駅から大津駅とは反対方面の電車に乗り、長浜、近江今津、堅田、山科を経由して大津駅に帰って来るという訳だ。

 電車マニアの間ではよく知られた乗り方だそうだ。女房は以前、近所の奥さん連中と伊勢方面へ遠征したり、琵琶湖を一周をしたりしたことがあるという。1区間の運賃で1日たっぷり遊ぶのだから、いじらしいほどの格安旅行である。

 私にとって、これはもう究極の暇つぶしである。膳所駅近くでラーメンをすすり、午後1時過ぎの電車に乗った。少しダイヤが乱れており、米原方面への新快速には乗れず、各駅停車で北上した。天気は良く、眩しい光が車内に差し込んでいた。

 能登川駅で新快速に連絡し、乗り換えた。天気は晴れから曇りに変わり、彦根駅を過ぎると田んぼなど一面雪景色だ。北国街道が通る長浜はかなりの積雪で、20cm近くありそうだ。北へ行くにつれ、チラチラ降っていた雪が激しい吹雪になった。

 琵琶湖北端にある余呉駅の積雪は50cm以上はあろう。すぐそこにある周囲4キロの余呉湖は、横殴りの雪に遮られていた。この時期、ワカサギ釣りでにぎわうが、桟橋にはそれらしき姿が見えない。こんな吹雪の中で釣りをする酔狂な人などいるはずもない。

 余呉駅の先のトンネルを抜けると、この電車の終点近江塩津駅だ。ホームや待合室は人で埋まっていた。ここから先の福井県境で、雪による倒木で敦賀方面への北陸線が不通になっているのだ。開通の見通しが立っていないといい、気の毒だった。幸い、われらの湖西線には影響がなかった。

 ここで近江今津行きの電車に乗り換えた。京都方面への新快速は、半時間ほどの待ち時間があったので、待合室に行ってみると、琵琶湖の魚を売る店が開いていた。途中下車はいけないが、駅員の目を盗んで鯉の甘露煮を買った。ぶつ切りにした鯉の腹には大きな子が詰まっており、これはもう絶品中の絶品である。

 電車に揺られ、湖西線を南下した。堅田付近では雪が消え、空は晴れていた。同じ滋賀でも、湖北はまるで違う世界である。山科駅で琵琶湖線に乗り換え、次の大津駅で降りた。約4時間、たった140円の琵琶湖一周の旅だった・・・。

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携帯の電話帳が消えた・・・

 携帯電話から突如、大事な電話帳が消えた。これはもうパニックである。

 その経緯はこうだ・・・。先日の午前中、友人から私の携帯に「飲みに行かない?」という電話が入った。退屈していた私に異論はなく、飲み屋と時間を決め、「女房にも都合があるかもしれないので、後でもう一度電話する」と言っておいた。

 買い物に出かけていた女房に「今夜は飲みに行くので、晩ご飯はいらない」と電話した。そして2、3時間後、友人に電話しようと携帯を開くと、画面に今まで見たこともない小さなマークが三つ表示されていた。マークは意味不明である。

 携帯の電話帳で友人の番号を検索しようとしたが、「登録されていません」という文字が出てくる。友人の番号を記憶していないので、お手上げである。近くのドコモショップに行き、携帯を見てもらった。

 女性店員は携帯の裏ぶたを開けるや、「これ、ダメです」と断言した。裁判で言えば、審理せずに即判決である。説明によると、バッテリーなど3か所にピンク色の点が印刷されており、水や湿気に侵されると、点が面に広がり、このようになるとデリケートな電子機器は故障するという訳だ。

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      ↑ 写真のように点がピンク色に広がると故障のシグナルだ

 ともかく携帯を買うしかない。電話とメールしか使わないので、ガラケイで十分だ。店員は、故障した携帯から電話帳をCDに取り出せるか試してみると言う。しばらくして店員は「取り出せたみたいです」と笑顔で言った。

 新しい携帯にCDの電話帳を移す作業を始めた。ところが、えらく時間がかかっており、そのうち3人が顔を突き合わせてヒソヒソと話をし始めた。しばらくすると店員がやって来て、「お気の毒ですが、電話帳を移すことはできませんでした」と、ご臨終を告げるような表情で言った。

 店員によると、登録されている件数だけは分かったものの、名前と電話番号はすでに壊れていて取り出せなかったという。店員に文句を言っても始まらないので、「さよか」とうなだれるしかなかった。

 そう言えば、昨年夏、鮎釣りをしていて川の中で転倒、携帯を濡らしたことがある。家に帰ってヘアドライヤーで乾かし、その時は使えるようになっていた。しかしその後、じわじわと腐食のような症状が進み、突然ダウンしたのだろう。デジタルは正常か故障かのどちらかで、中間がない。そこが、電子機器の怖いところだ。

 電話帳には、それぞれの人々が何年も、何十年も積み上げてきた歴史がある。仕事の関係先、付き合いのあった人々、馴染みの居酒屋、ゴルフ場、釣り船・・・様々である。

 年末になると会社の手帳が配られ、まず最初に電話帳に新たな番号を書き込むなど更新をしたものだ。この電話帳は財布のお金よりも大切なものだ。水浸しになっても何とか復元できる。しかし携帯の電話帳は壊れればそれまでである。

 バックアップという知恵があればよかったのだが、何せアナログ人間である。年賀状や名刺などで一人ずつ追跡し、登録するしかない。困った、あぁ困った。途方に暮れている・・・。

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         昔、手帳にはさんでいた電話等

お年寄りの転倒に相次ぎ遭遇

 これは1週間ほど前の出来事である・・・。

 図書館へ行った帰り、JR大津駅前の道を歩いて自宅に向かっていた。すると、すぐ前を歩いていた70歳くらいのご婦人がよろめき、そのまま路上に倒れそうになった。私は咄嗟に両手で彼女を受け止め、その場に座らせた。

 「どうしましたか」と声をかけると、目をつむったまま「ちょっとふらつきました。でも大丈夫です」とか細い声で答えた。しかし自分で立つことが出来ないし、顔面蒼白である。これはもう救急車を呼ぶしかないと思い、携帯電話で119番した。

 彼女はずっと私に体を預けたまま救急車を待った。小柄で、品のいいご婦人である。話を聞くと、電車の時間に間に合うよう少し急ぎ足になっていたらしく、これまでにもこんなことがあったと言っていた。

 しばらくすると、駅員が3、4人駆けつけた。彼女は駅員に抱えられ、駅の事務所に入って行った。間もなく遠くから救急車のサイレンが聞こえ、こちらに向って来るようだ。これで私の役目は終わり、帰ることにした。

 それから数日後のことである。近くのスーパーへ買い物に行っていた女房が帰宅するなり、「そこの坂道でおじいちゃんが倒れたのよ」と言う。

 女房の話によると、前を歩いていた80歳くらいの男性がいきなり転倒した。この道は結構な急坂である。駆け寄って立たせようとしたが重くてどうしようもなく、通りかかった女性に手伝ってもらい道路の端まで引きずり、座らせた。

 住まいを聞くと、私たちと同じ町内の人である。その家なら、うちの娘と小中学時代の同級生である。家族に知らせるため500mほど離れた家へ急いだ。幸いその娘さんがおられ、何とか家に連れて帰られた。後で聞いた話だが、倒れた際、肩の骨にひびが入り、痛がっておられたという。

 それにしても、われら夫婦それぞれが、日を置かずにこのような出来事に遭遇するなんて驚きである。滅多にないことだと思うが、これも高齢化社会を映し出すような事象なのだ。「明日は我が身」と心得るべきだろう。

 昔の話だが、私の父親は80歳を前に転倒して骨折した。それから一気に体が弱り、あっけなく死んでしまった。老いてからの骨折は命取りだ。あのお二人、どうしておられるだろう・・・。

イスラム国の蛮行に思う

 シリアでイスラム国に捕えられたフリージャーナリストの後藤健二さんが殺害された。その前には、湯川遥菜さんが殺されたばかりだ。そのおぞましい結末に、怒りで体が震える。

 日曜朝の報道番組で、毎日新聞の論説委員が「これからは、イスラム国を刺激するような言葉に気を付けなければならない」と発言をしていた。それは、「テロとの戦い」などという勇ましい言葉を軽々に口にすべきでないという趣旨だろう。

 彼は、政府批判をしたくてうずうずしていた一人である。日ごろから右寄りの安倍首相を批判し、首相の中東訪問にも疑問を呈した。そして、日本政府の2億㌦に上る支援がテロリストを刺激し、殺害の引き金を引いたと言わんばかりである。

 このような言動こそ、イスラム国の思う壺なのだ。テロの恐怖心を植え付け、政府と国民を分断しようとする。それでも、メディアや識者と呼ばれる人たちが政府の対応を批判するのは、もとより自由である。今回の事件をめぐる様々な検証は必要だが、それはテロリストにひるむものであってはならないと思う。

 これからは、様々な意見が出てくるだろう。二人の命と家族の悲嘆をおもんばかり、言いたいことを飲み込んできた人も少なくないだろう。その一つは「自己責任」だ。湯川さんの父親は、殺害された直後の会見で「ご迷惑をかけて申し訳ない」と、言葉少なく、実直に頭を下げた。

 一方、後藤さんは「私に何かあってもシリアの人を恨んでくれるな」と言い残して旅立った。戦場ジャーナリストとして立派な覚悟は持っていたと思う。しかし、しばしばテレビに顔を出したお母さんには、少し違和感を持った。

 私はお母さんの口から「息子が迷惑をけて申し訳ない」のひと言が聞きたかった。いや、私が聞いていなかっただけなのかもしれないが、もしそうなら許してもらいたい。お母さんは焦燥感にかられたのか、安倍首相に直接、息子の救出を嘆願しようとした。酷ないい方だが、私は静かに見守ってほしいと思った。

 テロリストは、日本を有志連合に与する敵とみなし、これからは日本人を殺すと宣言した。日本を取り巻く状況は変わったのだ。私たちはそのことを自覚すべきだし、自分の命は自分で守るという当たり前の意識を一層強く持たなければならないと思う。

 なぜ状況が変わったのか。憲法改正や集団的自衛権行使を目指すを安倍政権の姿勢にこそ問題があるとする意見も少なくない。特に、一部の野党はそう主張するはずである。もう一方の意見は、9・11以降、イスラム過激派が台頭し、否応なく敵か味方かが問われる新しい時代に入ったとするものだ。

 今となっては、湯川さんと後藤さんの冥福を祈るしかない。さぞ、無念だったろう・・・。

 

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