キノコの菌を打つ・・・

 生石高原の山小屋から、冬季限定で大津の自宅に移って3週間ほどになる。例年師走に入ると、高原は氷点下になる日が多いが、こんなに暖かい日が続くとは思わなかった。今は、山を下るのが早過ぎたと後悔している。山小屋にもう少し留まっておれば、ボートを出して釣りが出来たし、焚き火も楽しめたはずだ。

 それに、この陽気でキノコが出ているのではないかと、心配にもなった。そこで先日、山小屋の様子を見に行った。案の定、季節外れのナメコがたくさん出ていた。傘が大きくなり過ぎていたが、もったいないので採って帰った。大根おろしにポン酢で食べたが、味に遜色はなかった。

 シイタケの原木にも、小さな芽がたくさん出ていた。これからはもっと寒くなるので、急に大きくなるとは思わないが、1月か2月に様子を見に行く必要がありそうだ。この秋が暖か過ぎたせいか、シイタケだけでなくヒラタケやクリタケなども余り収穫出来なかった。キノコは微妙に気温の影響を受けやすいのだと思う。

 折角山小屋へ来たのだから、伐採しておいた原木にキノコの菌を打つことにした。2月ごろに予定していたが、その頃は一番寒く、水洟をたらして作業するのが嫌になり、急に早めることにした。シイタケ、ムキダケなど4種類の菌はすでにネットで購入してあり、問題ない。

 原木の数は50本ほどで、乾燥させるためシートをかぶせて積み上げてある。長さ90センチほどの原木を専用の台に乗せてドリルで穴を開ける。直径10センチほどの木であれば、穴は40個ほど。菌をしみ込ませてある鉛筆の先ほどの駒を木槌で打ち付けるのだ。

 穴の開いた木に女房が駒を入れ、私が打ち込む。夫唱婦随の作業である。ドリルで穴を開けるのは中腰のままの作業で、これが結構疲れるのだ。今も腰が痛くてかなわない。

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 山から帰り、パソコンで年賀状を作った。現役で働いていた頃は、300通くらい出していたが、今は次第に減り、100通ほどだ。いつもながら、誰に出すか大いに迷う。本当は50通ほどに減らしたいのだが、なかなかそうもいかない。

 わが家の年賀状は、女房との連名で近況を書くことにしている。今回は、物忘れがひどくなった夫婦のことや、女房の西国三十三か所巡礼の満願、私の白馬三山の登山、山小屋に落ちた雷のことを書いた。宛名を書き終えると、しみじみ1年の終わりを実感する。日々、駆け足で過ぎて行く・・・。

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女房の西国巡礼が結願

 冷たい雨が降る中、大津の自宅を車で出発し、岐阜県の美濃地方を目指した。ここには、西国三十三か所の最後の霊場、谷汲山(たにぐみさん)華厳寺(天台宗)があり、この日、女房はここに参拝し、めでたく巡礼を終える。満願成就、結願の記念すべき日である。

 女房が巡礼を始めたのは平成16年8月だから、結願まで11年4か月もかかったことになる。実にのんびりした巡礼である。せっかちな私なら、3年もあれば回り終えると思う。先を急がないそんな性格は悪くないが、そばから見ていて歯ぎしりしてしまう。

 長くかかったのには、もうひとつ理由がある。1番青岸渡寺から始まって、2番金剛宝寺、3番粉河寺というように順番に巡礼するのだ。どこかへ行ったついでに参拝することはせず、あくまでも順番を守る。道を曲がる時、直角に回るような性格なのだ。

 華厳寺へは、名神高速の大津ICを経て大垣ICで降り、北上すれば2時間余りで行けるはずだ。しかしわれら夫婦にお金はないが、時間はあるので、琵琶湖の西を走って岐阜へ抜ける道を走ることにした。ひなびた風景を楽しめるドライブコースである。

 車窓の左に見える比良山系は、雪に覆われていた。暖冬で例年になく遅い雪だ。反対側の琵琶湖には多くの渡り鳥が来ていたが、こちらも暖冬の影響で飛来が少ないと、新聞が報じていた。琵琶湖の最北端に来ると雨もやみ、東の岐阜方面には青空が見えた。

 北国街道のかつての宿場町・木ノ本から国道303号線に入り、揖斐川方面に向かう。雪を戴いた県境の山々と清流を眺めながら走った。点在する民家が自然と溶け合っている。時々車を降りて、一幅の絵のような風景に見とれた。

 やがて「八草峠」のトンネルにさしかかった。岐阜県に抜ける長いトンネルで、10数年前に開通した。私たちは40年以上も前にここへ来たことがあるが、峠は断崖のような所だった。「八草」という名前には隠れ里のような響きがあり、印象深かった。八草村には100人余りの人が住んでいたが、大正時代に廃村となり、人々は北海道へと移住したらしい。

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 峠を下ると、龍神伝説が伝わる「夜叉が池」登山口の案内板があった。この池は、滋賀、岐阜、福井の3県にまたがる三国岳の原生林の中にあり、写真でしか見たことはないが、神秘的な池だそうだ。ぜひ、登ってみたいと思っている。

 車を運転しながら、ある女性のことを思い出していた。彼女は小学校の先生を辞め、四国遍路を3回も歩いて巡礼した猛者であり、西国三十三か所もほとんどを歩いて結願した。彼女とは仕事を通じて知り合い、ずいぶん昔だが、自著の「西国33所 徒歩巡礼ガイドブック」をもらった。女房はこの本を携え、三十三か所巡ったのだ。

 大津を出て3時間余り、やっと谷汲山に着いた。店が軒を連ねる長い参道を歩き、山門をくぐった。その先の石段を登り切ると、赤い提灯がぶら下がる本堂だ。本尊は秘仏の十一面観音である。寺の歴史は古く、798年の創建と伝えられ、観音霊場としても一番古いとされる。

 女房はここで納経帖に印をもらい、長きに渡った巡礼を終えた。本堂の左右二本の柱には銅製の「精進落としの鯉」が取り付けられ、巡礼を終えた人たちはこれに触れて精進生活から解放されるのだ。鯉に触れた時の女房の心境はうかがい知れないが、多分、感慨ひとしおだったろう。巡礼の運転手を務めた私にも、いくばくかのご利益をいただきたい・・・。

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女房の爆食いが心配・・・皿うどん

 例年、師走の頃に大文字山を登る。いつもは私一人で行くが、今回は珍しく女房が一緒に登りたいという。大文字山から下山するのは銀閣寺の門前で、ここからさほど遠くない今出川通に「まつお」という店があり、女房はここの長崎名物の皿うどんが食べたいのだという。

 この店を知ったのは30年以上も前で、それ以来、時々ここの暖簾をくぐる。当時厨房に立っていたのは高齢の人だったが、今は若い人に代替わりしている。メニューは皿うどんとちゃんぽんだけで、今も先代の味が引き継がれている。女房は、私が大文字山に行くと聞いて、急に皿うどんが懐かしくなったのだろう。

 この日も季節外れの暖かさだった。JR大津駅で乗車、次の山科駅で下車して山麓の毘沙門堂に向かった。いつも静かな門前に人だかりが出来ていた。赤穂浪士討ち入りにちなんだ山科義士祭りの当日だった。大石内蔵助が山科に住んでいたのは有名だが、毘沙門堂とのゆかりは知らなかった。

 家に帰って調べてみると、毘沙門堂の門跡は、時の将軍綱吉から浪士の処分について意見を求められた。そこで、「生きながらえるより、切腹によって忠義の志を後世に残すべき」と具申し、綱吉は切腹を命じる決断をしたと伝えられる。将軍なら生かすも殺すも決められそうだが、義士に同情的な元禄の世論を気にし、門跡の口から言わせたと思うのはうがち過ぎだろうか。

 それはさておき、毘沙門堂に一礼し、境内の紅葉を見ながら大文字山に向かった。標高460mほどの山で、山科側からはなだらかな登山道が続く。逆に、銀閣寺側から登ると急な階段や滑りやすい箇所が多い。

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 杉林の中を歩き、尾根に出ると頂上はもうすぐだ。歩き始めて2時間ほどで頂上に着いた。京都市内はもちろん、伏見や西山方面もきれいに見える。私はこの街で、二度にわたって通算6年勤務していた。だから地形には明るく、たくさんの思い出も詰まっている。

 頂上には数分間いただけで、すぐ下山した。急な坂道を下ると、再び一気に前が開ける。五山送り火の「大文字」の現場である。巨大な文字だから大量の薪が必要で、麓からケーブルで運び揚げられる。右手の遠くには右大文字、舟形、妙法が見える。

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 下り道では多くの登山者とすれ違った。大文字山は手軽で、景観も良く、人気がある。軽い汗をかき、銀閣寺に下山した。門前通りは、平日なのに多くの観光客でにぎわっていた。やはり外国人が多い。

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 お腹もすいていたので、早足で歩き、「まつお」へ向かった。暖簾をくぐると、店内はほぼ満員だったが、何とか私たちは座ることが出来た。注文を取りにきたので、私は「皿うどんの並」を注文したが、女房は何の恥じらいもなく「皿うどんの大盛り」。食べ過ぎを心配したが、「久しぶりやから」と平然としている。

 その大盛りを私より早く平らげたのだから、二度目のビックリポン。まさに、「爆食い」である。胃の感覚がマヒしているのだろうか。その食いっぷりに、言いようのない不安を感じた・・・。

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下宿のような部屋で考えたこと・・・

 和歌山の山小屋から大津の自宅に帰って1週間が過ぎた。自宅では、南西に面した暖かい部屋で過ごしている。その真ん中には、何十年も使っている古びたホーム炬燵が鎮座していて、ここでテレビを見たり、本を読んだりしている。眠たくなると、壁際のソファーベッドでうたた寝する。

 この部屋に、女房は滅多に入って来ないので、まことに気楽である。いつも愛犬ぴーが居て、胡坐をかいた私の股の間で寝そべっている。寒くなると、私の腕を引っかくようにして炬燵布団を上げさせ、中に入って丸くなっている。

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 このような生活は、学生時代の下宿生活にどかこか似ている。下宿は6畳のひと間だけだったが、狭い分、真ん中に敷いた万年布団からは新聞や本など必要な物は何でも手に取れたし、実に居心地が良かった。たまに悪友が訪ねてくることがあったが、おそらく、部屋に染み付いた悪臭に閉口していたに違いない。

 そんな当時を思い出しながら、今日もつけっ放しのテレビを見るともなく見ている。民放の番組のほとんどがバラエティー番組と思えるほどで、知性をくすぐるような番組など皆無に等しい。毎日毎日、ひな壇に並ぶお笑い芸人やタレントが下らない話に馬鹿笑いしており、国民の白痴化に拍車をかけている。

 グルメ番組なども亡国番組のひとつだろう。レポーターの表現力もひどいもので、極上の味を表現する時は、なぜかキスシーンのように目をつむる。そして、口をもぐもぐさせたまま「おいひー」と感動して見せるのだ。1年365日、グルメを垂れ流ししている。狭い日本にそんなに多く美食があろうはずがない。ほとんどは普通の味に毛を生やした程度だろう。

 近年、テレビCMにもひどいものが多い。「血液サラサラ」「セサミン」「グルコサミン」などはまぁ許せるが、「抗菌」「除菌」と名のつくCMには辟易するすし、中には許し難い映像もある。まな板を除菌しないとばい菌がはびこる映像は、人の恐怖心を煽っている。菌を培養した実験用の皿を見せるのもグロテスクである。

 わが家ではまな板を洗う時、除菌のための溶剤を使った試しはなく、丁寧に洗うだけだ。それでこれまで病気になったことは一度もない。連日、このように抗菌だ、除菌だというCMを流されれば、子を持つ若い奥さんは恐怖心を起こすだろう。このようなCMの手法は見直されるべきだと思う。

 話が飛躍するかもしれないが、「戦争法案」「徴兵制」も恐怖心を煽るという意味で似たり寄ったりだろう。安保法案は戦争が出来る法案であり、その先には徴兵制があり、若者が戦場に送り込まれるという荒唐無稽のロジックである。このような言葉は、人の弱い所に訴えるものであり、除菌CMに共通するものがある。

 昭和に生まれた私たちは、抗菌も除菌もへったくれもない不潔な世代である。泥んこになって遊び、土の付いた手で鼻をふいたり、落とした菓子をそのまま食べたりした。しかし、不潔が原因で病気をしたことはない。大人になった今も清潔には無頓着なところがあり、むしろ土を食べたので体の中に様々な抗体が出来ているように思う。

 実は医学界では、子供の泥んこ遊びが見直されているそうだ。土の中には何億種類という微生物が棲んでおり、手足で触れることによって有用な微生物が体内に取り込まれる。その中には人の精神を和らげるものや健康に良いものが多くあるらしい。現代のように清潔を追求する余り、失ったものも多いのだ。かわいい子供には土と遊ばせよう・・・。

寒い生石高原から大津へ・・・新生活を始める

 今日、大津の自宅に小さな小包が届いた。かねて注文していたWI-FIのレンタル機器である。和歌山の山小屋には電話回線が来ているが、大津の自宅は電話を引いておらず、ネットを利用するためにはWI-FIが必要なのだ。

  ネットがつながり、こうしてブログを書いていると、大津での新生活が始まったことを実感する。追い立てられるように、厳寒の生石高原を逃げ出して来た訳で、暖かくなる来年4月まで大津で過ごす予定だが、その間をどのように、何をして過ごすかは少し楽しみでもある。

 一昨年の冬からは、関西を中心に十一面観音を訪ね歩いた。特に、井上靖の小説「星と祭」に登場する北近江の観音さんについては、秘仏を除いて多くを拝観した。これからも巡拝を続けるが、これとは別のことにも興味を持ってみたいと思っている。年を取ってもそれなりの好奇心が湧いてくるのは、健全な年寄りであり、有難いことだ。

 当方のブログのタイトルは「森に暮らす」だが、これからは「街に暮らすひまじんの独り言」になる。ぼちぼち、身近な話題を綴ろうと思っており、引き続き目を通してもらえれば幸せである。

今年最後のボート釣り、アオリイカにガシラ・・・

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 雪国の生まれなので、寒さには強かった。真冬でも素足でいることが多かった。しかし、年を取るにつれて寒さが身にこたえるようになり、釣りに行ったり、外で作業をしたりするのが億劫になっている。

 生石高原で暮らすようになって7年になるが、最初の5年は冬もここで暮らしていた。しかし高地にあるわが山小屋の寒さは耐え難く、冬の間だけ大津の自宅に帰るようになった。今年もあと数日で高原を後にする予定だ。

 大津へ帰るまでにあと一回、釣りに行きたい。そんな思いが通じたのか、波のない釣り日和が巡って来た。早速、軽トラにボートを積んでいつもの由良湾に向かった。私はアオリイカ、女房はガシラを釣りたいが、釣り場が異なるので釣りの時間をどう配分するか、悩ましい。

 まずはアオリイカから始めた。地磯の近くで竿を出したが、イカの反応はない。1時間を過ぎた頃、やっとフリーにしているリールから、ジリ、ジリッと少しずつ糸が出始めた。泳がせているアジにイカが食い付いたのだ。続いて、イカは猛然と走り、10m近く糸を引き出した。

 一進一退を繰り返しながらイカを寄せた。頃合を見て掛け針のヤエンを投入、慎重にイカへ送り込んで行く。そして、竿を下げて軽く合わせると、うまく掛かったようだ。繰り返し、繰り返し、イカは潜ろうと抵抗する。ようやく玉網に納まったイカは700グラムほどの良い型だ。固唾を飲んで見守っていた女房が手をたたいた。

 しかしその後は当たりがないまま1時間が過ぎ、場所を移動することにし、1キロほど離れた場所でアンカーを入れた。ここでも当たりがなく、女房にガシラを釣らせたいので、そろそろイカ釣りを終わろうと思っていた時だ。激しく糸が出た。イカが乗ったのだ。

 すると、反対側に出していた別の竿からも糸が出た。アジが大きいので、食われるまでに時間がかかるはずで、焦ることはない。1本目の竿のイカを確実に取り込んでから、もう1本に対応すればいい。

 最初の竿にヤエンを取り付け、海中に落とした。どうしたわけか10mほど先でヤエンが前に進まず、ブランコのようになっていた。糸を張ったり、ゆすったりしたところ、何とか海中に入って行った。するといきなりイカが走り、糸を出す暇もなく思わず合わせてしまい、空振りに終わった。

 後悔している暇はなく、もう1本の竿に対応しなければならない。すでに時間が経っていたので、すぐヤエンを入れた。最初のイカより引きが強く、何回も糸を出してやり取りした。ガバッと水面を割ったイカは900グラムはありそうだ。激しく墨を吐き、ボートの片側が真っ黒になった。これで先の失敗が帳消しになり、イカ釣りに踏ん切りがついた。

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 さぁ次は、女房が得意なガシラ釣りである。ところがバッグの中を調べると、釣りに必要な10号のオモリがない。忘れてきたのだ。これでは楽しみにしていた女房に申し訳ない。釣具店へ買いに行くしかないが、車で買いに走るより、湾の一番奥にある店までボートを走らせる方が早い。

 幸い、店のすぐ近くにボートを繋げる場所があり、オモリを買うことが出来た。それにしても肝心なオモリを忘れるなんて、ボケが回ってきたとしか言いようがない。

 シーアンカーを入れて広い範囲を探ると、女房はまず小さなタコを釣った。クーラーに入れるにはちょっとかわいそうに思ったが、女房は「タコ飯が作れる」と喜んだ。次には、「ウミヒゴイ(海緋鯉)」という真っ赤な魚を釣り上げた。11月9日のブログでも書いたが、女房がこの魚を釣ったのは二度目だ。美味しさは「抜群」と言っていい。

 その後は女房がいい型のガシラを釣り続け、オモリを忘れた時に見せた仏頂面は消えた。計8匹の釣果である。余り言いたくないが、私は2匹だけ。今年はいつも女房に負け続け、最後の釣りも大敗に終わった。ただし、この日の釣果を金銭に換算すると、良型のアオリイカ2杯に軍配が上がると思うが、どうだろう・・・。

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 あの小さなタコが、翌日、タコ飯になった。哀れ・・・。

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 《釣果報告》 これより1週間前、漁港の岸壁でイカ釣りをし、2杯釣った。寒さに耐え切れず、昼前に退散した。知り合いの漁師から太刀魚をもらったので、数日間、太刀魚料理を堪能した。

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