中仙道の柏原宿・・・佐々木道誉の足跡を訪ねる

 先日、滋賀の中仙道に軒を連ねる柏原宿へ行った。ここの町並みは東西約1・5キロにも及び、中仙道では最大級の宿場町だ。昔は伊吹特産のもぐさを売る店が10軒ほどあったらしく、今も1軒が店を開いていた。木曽路の馬籠宿、奈良井宿のような観光地としてのにぎわいはないが、落ち着いた旅籠の風情が残っていた。

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 もぐさと言えば、お灸である。悪さをすると、「やいとすえたろか」とよく言われたものである。子供のころ、父はよく母にお灸をしてもらっていた。腰のあたりにもぐさをひとつまみ置き、線香か何かで火を付けるのだが、母は父から「熱いがな、アホ」とよく叱られていた。昔は、銭湯に行くと、お灸の痕が生々しいお年寄りを見かけたものだ。

 ところで、なぜ柏原宿を訪ねたか・・・である。私と女房は昨年夏、吉川英治の大作「私本太平記」(全8巻)を回し読みした。これをきっかけに、この本に出てくるゆかりの地を訪ねてみたいと思うようになり、今回も所用で湖北地方に行ったついでに立ち寄ったのだ。太平記と言えば足利尊氏の生涯を描いた作品だが、京を中心とした近畿地方にその足跡が多いのはもちろんだ。

 鎌倉末期から南北朝時代にかけ、北近江を本拠にしていたのが守護大名の佐々木道誉で、居館はここ柏原宿に近い伊吹山の麓だとされている。尊氏は若いころ、京都見物に行った帰り、道誉の招きで居館に泊まり、道誉との関係を深めるきっかけになった。その後道誉は、尊氏による室町幕府樹立の立役者となった。

 この小説を面白くしているのは、尊氏の恋人・藤夜叉の存在だ。小説の記憶はあいまいだが、藤夜叉は道誉の庇護を受けていた近江猿楽一座の一員で、道誉の居館に泊まった際、知り合った。その後、尊氏の子を産んだが認知されず、悲運の美女として描かれている。やがて藤夜叉は道誉に犯され、壮絶な死を遂げるのだ。夜叉の能面をつけた亡霊が怨念の舞いをする能舞台を観る思いだった。

 道誉に深い関心を抱くのは、彼が「婆娑羅(バサラ)」その人だったからだ。婆娑羅とは、粋で派手な服装を好む当時の美意識で、大名たちの豪奢な生活、傍若無人な振る舞いも婆娑羅の特徴だ。太平記にも道誉の婆娑羅ぶりが描かれている。ド派手な衣服をなびかせ、中仙道を馬で疾駆したであろう道誉の姿を想像してみるのも、一興である。

 宿場町を見学した後、佐々木京極氏の菩提寺があると聞いたので、行ってみた。田んぼの中の道を歩いていると、雪が消えた伊吹山が圧倒的な山容を見せていた。宿場から1キロ余り北へ歩くと、静かな里山の一角に菩提寺の「清龍寺徳源院」があり、道誉の墓もあった。ただ、滋賀県甲良町の勝楽寺が墓所とされる説もあるという。

 境内には、「道誉ざくら」と名づけられた桜がピンクのつぼみを付けていた。樹齢300年という古木である。三重塔もあり、古刹の雰囲気がある。伊吹山を見上げる小説の舞台を歩いてみると、婆娑羅の道誉や絶世の美女藤夜叉への想像が膨らみ、もう一度、小説を読み直したいと思わせる。

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小鮎が釣れ、琵琶湖はすでに春の盛り

 西から東から、桜の便りが聞かれるようになった。今年の開花は、去年よりも数日早いそうだ。月末に満開になる所も多いだろう。さて、私たちが暮らすここ大津はどうか。散歩がてら見て回ったが、ほんのりとピンク色にはなっているものの、開花まであと一息の感じだ。北風が琵琶湖を渡る滋賀は、やはり気温が低い。

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 山手にあるわが家から15分も歩けば、湖畔に出る。浜大津港の岸壁に立つと、低い音の汽笛が鳴って観光船ミシガンが出航して行った。湖国に観光シーズンの幕開けを告げるびわ湖開きは3月12日に行われ、ミシガンから黄金の鍵が投下された。今出た船には結構多くの人影が見えた。ただこの日は北西の風が吹き、デッキに出る客も少ないだろう。

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 湖面にはカモなどの野鳥が羽を休め、時々潜っては海草などを食べている。北へ帰るため、体力を付けているのだろう。どれくらいの時間潜っているか、時計で測ってみると、最長12、3秒だった。別に驚くことではないが、ひとつ賢くなった。湖面を見渡すと、鳥の数はひところのように多くはない。すでに北への帰還が始まっているのだろうか。

 目立つのは、くちばしから額にかけて白い筋のある黒い鳥だ。てっきりカモの仲間かと思っていたが、ネットで調べてみると、ツルの仲間の「オオバン」という水鳥である。体長は30~40センチ。琵琶湖ではここ10年で3倍に急増し、6万羽が渡って来るという。どうも、環境の悪い中国に見切りをつけ、移住して来るらしい。ここにも中国問題が及んでいる。

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 城の形をした琵琶湖文化館の方へ歩いた。休日とあって、散歩する人やランニングする人、犬を散歩させる人が行き交っていた。湖岸には小鮎釣りの人が大勢、竿を出していた。ここでは2月ごろから釣りを始める人がおり、春の風物詩である。今釣れる小鮎は小指ほどの大きさで、体が透き通っている。湯通したり、佃煮にして食べる。

 京都から来たという40歳前後の男性二人に声をかけた。持ち物や竿捌きからかなりのベテランらしい。先週は余り釣れなかったが、今週は好調と言い、2匹、3匹と連で釣れていた。魚を入れるケースにカウンターがぶら下げてあり、釣れる度にカウントしていた。昼までに4、500匹も珍しくないらしい。

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 ここは私の散歩コースで、時々釣り人に声をかける。平日は老人会の趣があり、冗談を言い合って楽しそうだ。見知らぬ者にも気安く会話に応じる。私は和歌山の港で釣りをすることが多いが、たまにひどく閉鎖的な人が集まる港もある。釣り竿を持って岸壁に行くと、ジロリ、人を寄せ付けない視線が突き刺さってくる。「釣れますか?」と声をかけても、「さぁ、腕次第や」と言って笑い合っている。

 さて、琵琶湖の水もぬるみ、本格的な春は近い。大津での生活もあと少し、4月初旬には和歌山の生石高原へ帰る予定だ。来年の冬に大津へ戻ってきた時には、小鮎釣りの仲間に入れてもらおうと思っている。

抜き差しならない関係に・・・犬の話

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 愛犬「ぴー」が1週間ぶりにわが家へ帰ってきた。大阪にある女房の兄の家へ遊びに行っていたのだ。兄は会社経営の一線から退き、今は悠々自適の生活だが、「ぴーをしばらく預かりたい」と言ったところをみると、「悠々」の生活に少々退屈していたのだろう。

 帰ってきた「ぴー」は、きれいにカットしてもらい、男前を上げていた。散歩にも連れて行ってもらい、わが家にいるより快適な生活を送っていたのだろう。誰にでもなつく性格で、夜は兄の布団の上で寝ていたらしい。セラピーとしての役割を十分果たしていた。

 犬種はシーズで、二代目である。初代は「すぎ」という名前で、手前味噌で恐縮だが、足が長く、顔も貴公子然としていた。その彼が死んだのは9年前だった。二つの病院に入院し、治療を受けたが、ひと月ほどして息を引き取った。原因は分からなかった。7歳の短い生涯だった。

 私たち夫婦は泣き続けた。号泣してもまだ足りず、また号泣した。「すぎ」は賢い犬だった。私が家のインターホンを押して帰宅すると、押し方の特徴をちゃんと聞き分け、土間でくるくる回って迎えてくれた。そんなことを思い出してはまた泣き、今も目頭を熱くすることがる。

 こんな悲しい思いをするくらいなら、二度と犬は飼うまいと思った。大阪で暮らす長女は犬好きで、またシーズを飼い出した。それが二代目の「ぴー」である。ところが長女は東京に転勤となり、ペットを飼えないマンションに入居。このため私たちに養育を押し付けた。

 でも、「ぴー」と暮らせるのはうれしかった。情愛はますます深まり、われら老い行く夫婦にとって、孫のような存在になった。「すぎ」も賢かったが、「ぴー」はそれを凌ぐ賢明さである。アイコンタクトで何かを要求し、前足で引っかいて自己主張する。どこの犬もこれくらいのレベルだと思うが、そこはもう親バカである。

 「ぴー」は8歳である。まだ6年か7年は生きるはずだ。しかしいずれは別れが訪れ、「すぎ」の時のように悲嘆に暮れなければならない。女房は「それなら先に死んだらいいじゃない」と憎らしいことを言うが、確かにこちらが先に死ぬこともある。最善はどちらも長生きすることである。

 余談になるが、先日びわ湖畔を散歩していたら、金持ちそうなご婦人がシーズを散歩させていた。ベンチに座り、婦人と少し話した。彼女は「前飼っていたシーズは18年も生きました。ドッグフードは与えず、お肉ばかり食べさせましたのよ」と、どこか上から目線。肉などもらえない「ぴー」が少し不憫に思えた・・・。

湯田中の記憶を追って・・・青春18切符で長野

 春本番のような暖かい朝、琵琶湖の東岸を走る東海道線は霧に包まれていた。伊吹山も霧にかすんでいる。午前6時ごろ大津駅を出発した鈍行電車は、米原を経て名古屋に向かった。名古屋で中央線に乗り換え、長野に行くのだ。青春18切符を利用したわれら夫婦二人の1泊弾丸ツアーである。

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 長野の路線は大好きだ。大糸線は北アルプスの絶景、飯田線は南アルプスと渓谷美、そして今回の中央線は、木曽川沿いに肩を寄せ合う赤い屋根の家々と里山が魅了だ。木曽路の道々には木の工芸品が売られ、お六櫛を挽く音も聞こえてきそうだ。これらの線路には、青春時代の思いが出いっぱい詰まっており、いつも追憶の旅になる。

 鈍行電車はやがて塩尻駅に着いた。塩尻と言えば釜飯である。大学生だったころ、スキーからの帰りに食べたが、こんなに美味しいものがあるのかと思った。そして忘れられないのは、この駅で行われるスイッチバックだ。寝ぼけまなこで外を見ていたら、列車が反対に走っているのだ。あわてて腰を浮かせた。直通運行となったのは1982年だった。

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 約9時間かけて長野駅に着いた。少々お尻が痛い。今回の旅行の目的は、第一に善光寺参りだ。女房は昨年末、12年近くかけて西国三十三か所観音霊場の巡礼を終えた。最後に善光寺で納経帖に朱印をもらえば、めでたく巡礼が完結するのだ。そのほとんどに同行した私にも、ほどほどのご利益があっていいと思う。

 私にとって善光寺は、3回目である。若いころ、妙高高原からの帰りに寄った記憶がある。次は1998年の長野冬季五輪の直前、競技施設の見学に行ったついでに参拝した。今回初めて知ったのだが、善光寺は寺のようでいて本当は神社なのだという。仏教が伝来する前に創建されたためらしいが、どうも二股とか、八方美人を連想させる。

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 女房が善光寺参りするなら、ぜひ湯田中温泉に泊まりたいと言った。あれは40年ほど前だった。記憶はおぼろげだが、湯田中の湯に入ったのは間違いなく、熱くて湯船から飛び出したことを覚えている。後にも先にもあんな熱い温泉に入ったことはない。夕食前、どこの旅館だったか思い出すため、温泉街を歩いたが、分からなかった。

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 その夜、悶々と記憶を辿った。この時は、同じ会社の先輩と二人で志賀高原へスキーに行く途中に立ち寄ったのだが、よく考えてみれば、安月給の私たちに温泉旅館に泊まるお金の余裕などなかったはず。だとすると、共同浴場に入ったのかもしれない。そんな話をしていると、女房が旅館の近くに共同浴場があったと言う。

 翌朝、旅館の人に浴場の鍵を開けてもらい、浴室に入った。その瞬間、「ここや!」と思わず大声を上げた。隣の女風呂から、「それは良かったわねぇ」という女房の声が聞こえた。木枠の浴槽の幅は1mほど、浴室の凝った造り、湯の熱さもドンピシャだった。当時の記憶が蘇り、過去と現在が完璧につながった。もう、これだけで湯田中まで来た甲斐があった。

 「大湯」という名の共同浴場は明治19年に建てられ、今の建物は二代目だそうだ。小林一茶も一句を詠んでいる。建物の前に、共同浴場の番付けが掲げられていた。東の横綱がここ湯田中、西の横綱が道後である。腰痛の女房は、家に帰ってからも「痛くない」と喜び、湯の効用は本物らしい。

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 朝食後、バスで送ってもらい地獄谷の猿を見に行った。雪が降る中、露天風呂で体を寄せ合う猿たちを「スノーモンキー」と呼ぶそうだが、外国人観光客がこれをネットで発信し、一気に人気が高まった。管理事務所の職員は、多い時で1日2000人もの客が入ると言っていた。餌に困らないためか、猿たちは品行方正だった。

 この日は暖かく、温泉に浸かる猿は少なかった。入場料500円の見返りサービスではないだろうが、子猿が露天風呂を延々と泳ぎ回り、愛嬌を振りまいていた。もう1匹の大人の猿は、水面すれすれに顔を近づけ、ずーっと見つめていた。湯に映る自分の顔に得心していたのだろうか。

 昼前、長野電鉄で帰途に着いた。いつまでも車窓に映る妙高、黒姫の名峰は素晴らしかった。JR長野駅で銘酒「八海山」を買い、木曽路のひなびた風景を眺めながらチビリ、チビリと紙コップを傾けた。青春18切符の旅は疲れるが、でもまたひとつ、思い出を刻んだ・・・。

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生石高原へ・・・久し振りの仲間たち

 自宅の庭の片隅で、福寿草が小さな黄色い花を付けている。茎が短く、地面のすぐの所に花を咲かせるので、地下から這い上がってきたような感じだ。沈丁花も白と紫の花を咲かせ、いい香を放っている。

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 きのうは啓蟄。地中から虫が這い出す頃だ。春は、もうそこまで来ている。和歌山の山小屋から、冬の間だけ大津の自宅に移ってちょうど3か月になる。和歌山の森の生活が恋しく、大津の生活にも少し飽きてきた。

 3日ほど前は雪が舞っていたのに、この日は一転して春めいた日差しである。定年後の生活は毎日が日曜日。思い立ったらすぐ行動できるのがいい。この日は好天の予報。山小屋の様子を見に行くため軽トラを転がし、奈良経由で和歌山に向かった。

 大津から3時間ほど走ると、桃の産地・桃山町だ。3月末になると、桃の木にピンクの花が咲き、いよいよ春本番を迎える。生石高原高原への道をひたすら登る。標高800mの高原はまだまだ寒く、春が実感できるにはまだ1か月ほど待たなければならない。

 留守にしていた山小屋は、どこにも異常がなかった。寒いので、とりあえず焚き火だ。杉林に入って枝や落ち葉を拾い、火を付けた。風がほとんどないので、山火事になる心配はない。しばらくして、畑の近くの陽だまりで弁当を食べた。愛犬ぴーは、時折、目を細めて眠そうにしている。

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 今日は、キノコの原木になる木を伐らなければならない。年末にキノコの菌を打ち込んだが、菌が少し残ったのでもったいない。シイタケとムキダケはコナラ、ヒラタケは山桜を使う。一本づつあれば事足りるので、伐採はすぐ終わった。

 ひと息ついていると、山小屋下の道路からクラクションの音が聞こえた。山の仲間のPが通りかかったのだ。「兄貴、変わりないか。家も大丈夫か」といつもながら優しい声をかけてくれる。「俺、もう薪ないよ。兄貴の薪を盗むよ」と、それほど流暢でない日本語でいつものように笑わせた。

 しばらくして今度は同じ山暮らしの女性が上がってきた。「下に軽トラが止めてあったので、来てるんやなあと思って・・・。私はこれから奈良へ帰るが、月末からはずーっと居るよ」と話した。畑作業のやり過ぎか、最近彼女は杖をついている。急な階段を上がって来てもらって、申し訳ない。

 山小屋の滞在は3時間余りだった。帰ろうとしていると、生石高原の中腹で田舎暮らしをしている夫婦が訪ねてきてくれた。ご主人と私はよく釣りに行くし、奥さんは話好きで、女房も気が合うようだ。山暮らしの良き仲間である。ちょっと山小屋の様子を見に来ただけで、4人の仲間と久し振りに出会えた。

 私たちは4月10日前後に、山での暮らしを再開する予定だ。帰り際、水洗いしておいた巣箱を二つ、木の幹にくくり付けておいた。その頃になれば、ヤマガラが毛のようなものをくわえ、巣箱に出入りする。野鳥の巣作りは見ていて楽しい・・・。
 

紫香楽宮にもし大仏があったら・・・

 私の家がある滋賀県は、情けないほど知名度が低い。ある研究機関の調査によると、魅力度ランキングは47都道府県のうち、下から5番目の42位だ。滋賀県がどこにあるか聞いても、答えられない若者もいる。苦肉の策と言うか、県名を変えてしまおうという声が一時盛り上がり、「近江県」「琵琶湖県」などが候補に上がった。

 しかし、滋賀には二つも古代の都があったことは、自慢のタネである。天智天皇の「近江京」と、聖武天皇の「紫香楽宮」である。近江京は天下を二分した壬申の乱の舞台となった。紫香楽宮は、まかり間違えば、どえらい観光地になっていたかもしれない。奈良東大寺の大仏さんが紫香楽宮に造られていたかも知れないのだ。

 女房は、聖武天皇のころの歴史や小説にはまっていて、そんな紫香楽宮の跡を見てみたいと言い出した。私は何回か行ったことがあるが、女房は初めてだ。向学心や好奇心があるのは、まことに結構なことだ。紫香楽宮へは大津から車で1時間ほどの距離で、店先に狸が並ぶ焼き物の町・信楽に向かって走った。

 宮殿があったあたりは、山に囲まれたのどかな田園地帯である。1300年ほど前と雰囲気はそう変わらないはずだが、新名神高速道路の開通で高い橋脚が現れ、少し様子が変わった。平城京などと比べると土地は狭く、冬は厳しい寒さになるから、聖武天皇はどうしてここに都を造ろうとしたのか、興味深い。

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 聖武天皇は「流浪の天皇」だったとする小説もある。平城京を出て難波京や伊勢などを旅し、京都府木津市加茂には恭仁京(くにきょう)を造営、次は紫香楽にも都の造営を進めた。紫香楽には甲賀寺を建立し、大仏さん(毘盧舎那仏)を安置しようという詔(みことのり)を発した。

 民衆は飢餓や疫病に苦しみ、血なまぐさい権力闘争も相次いだ。こんな時に、天皇は平城京に腰を落ち着けず、大勢の護衛を率いてあちこち旅し続けた。紫香楽宮の造営に加えて、大仏さんまで建立しようという壮大な計画は、巨額の出費を要した。建設の役務に借り出された民衆の強い反発は想像できる。そのためか、紫香楽では放火らしい火事が相次いだという。

 造営から3年後、聖武天皇は突如として平城京に帰ってしまった。臣下から新しい都の建設に賛同が得られなかったからだろう。聖武天皇は腰の定まらない人、精神を病んだ人というイメージを持っていたが、現地の学芸員から「難波京から紫香楽京に至る広大な都を一体的に造営しようとしたスケールの大きい天皇でした」と聞かされ、妙にホッとした。

 残念ながら、大仏さんは紫香楽の構想を引き継ぎ、奈良で造られた。歴史に「もし」はないが、大仏さんが当初の計画通り紫香楽の甲賀寺に鎮座していたら、今頃は内外の観光客が長蛇の列をなし、世界文化遺産にも登録されていたかもしれない。県の名前など変えなくても、大仏さんがいてくれたらそんなに卑屈にならずに済んだはずだ。

 そんなことを空想しながら、東西2キロ、南北3キロに点在する遺跡を歩いた。それらは発掘調査が終わり、今は田んぼの下である。実は大正時代以前は、礎石が多く残る甲賀寺のあたりが紫香楽宮跡と思われていたが、その後の調査で、これより2キロほど北に巨大な遺跡群が発掘されたのだ。

 甲賀寺のあったあたりは、薄日が差し込む森の中にある。今にも、輿にかつがれた聖武天皇が現れそうな雰囲気である。あちこちに大きな礎石が残り、いにしえの神秘に包まれている。礎石の遺構からすると、奈良東大寺の四分の一程度の広さで、今後もっと大きな寺院跡が発掘される可能性があるそうだ。

 この近くには銅を鋳造する大規模な工房跡があり、聖武天皇による大仏建立の決意が固かったことは、間違いない。

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