釣りは秋の陣・・・まずはアオリイカ

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 久しぶりの釣行だ。私の場合、秋ともなればやはりアオリイカ狙い。由良湾にボートを浮かべ、空を見上げると秋らしい雲が浮かんでいた。9月中旬に旅行から帰ってきて初めて見る青空だ。日本を直撃する台風が多かったせいもあるが、夏の終わりから秋口にかけてすっきりしない天気が続いた。

 私は鮎釣りと海釣りの二刀流だ。有田川の鮎は盆ごろまでまったく不調で、8月後半になってやっと本格化した。いずれも午前中の釣果だったが、8月25日は34匹、その2日後には28匹と好調が続いた。さぁこれからと思っていた矢先の29日、大雨が降って有田川は増水し、濁流が渦巻いた。鮎釣りは当分不能になった。

 ならば海釣りにと思ったが、雨だったり、風が強かったりで、釣りの機会に恵まれなかった。今回の釣りは晴天だったが、その晴天も長続きせず、昨日も雨。今日30日は晴れたが、明日から10月初旬にかけてもすっきりしない天気が続くとの予報。さらに台風18号が発生し、追い打ちをかけそうだ。もう、いい加減にしてほしい。

 愚痴はこれくらいにして、釣りの本題に入ろう。衣奈の漁港で生きたアジを仕入れ、由良湾の漁港に向かった。漁港の防波堤には4人の釣り客があり、全員がアオリイカ狙いのようだ。状況を聞きに行くと、先端に陣取った若者が竿を曲げていた。夜中から来ているらしいが、当たりはこれが初めてだという。

 しばらくして、イカを引っ掛けるヤエンを装着して海中に投入した。イライラするほどゆっくり寄せていたが、しかしうまく掛けた。正真正銘のアオリイカで、胴長20センチ足らずだ。9月下旬のこの時期なら、これくらいの大きさはレギュラーサイズだろう。小さくても刺身にすれば甘くて美味しい。イカの王様である。

 ボートに釣り道具などを積み込み、沖に向かって走らせた。海は静かである。少し波気がある方が釣りにはいいと思うが、それは欲というもの。20分ほど走り、磯に近い場所にアンカーを下ろした。この時期は数釣りで、うまくすれば10杯以上釣れるはず。生きたアジの尻尾に針を打ち、自由に泳がせる。

 しばらくすると、張っていた糸が緩み、アジは沖の方に行っているようだ。イカがアジに抱きつき、移動しているのかもしれない。1分ほど待ち、イカが食い付いているか竿先で聞いてみると、少し重みを感じた。多分、小さいイカだろう。さらに1分ほど待ち、少し糸を張ると、グイーンと引いた。

 アオリイカの引きは、独特である。グレやチヌなどの魚は尾びれを振り、引きは鋭角的だが、アオリイカは漏斗(ロート)から海水を噴射して逃げる。ゴムを引っ張るような感じの引きだ。それでいて力は強い。

 慎重に寄せてヤエンを入れ、イカに到達した頃合いを見計らい、合わせを入れた。小さくてもイカはイカ、生意気にも大量の墨を吐いて潜った。この秋最初のイカだから、慎重に網ですくった。胴長20センチほどだった。

 もう1匹追加した後、今までより強い当たりがあった。引き寄せている間に2、3回走られたのでまずまずのサイズだろう。ヤエンを糸に装着したが、水中に下ろす時、2か所あるゼンマイ式フックの1か所がなぜか外れてしまった。ヤエンが横を向いたまま海中に没していったので、イカを掛けることはまず無理。逃がしたイカは大きかった。

 この失敗で頭に血が上っていたのか、2回連続で失敗してしまった。ここは心機一転、場所替りすることにした。10分ほど走り、小さな入り江で竿を出した。ここは、いつも最後に勝負をかけるポイントだ。リールから強く糸を引き出すような当たりは少なかったが、何とか4杯追加し計6杯となった。

 この日は、真夏がぶり返したように暑く、長袖のポロシャツを脱ぎ、ランニングシャツだけで釣りをしていた。余りの暑さに参ってしまい、熱中症が怖くて11時ごろ港に帰った。目標の二桁釣りには届かなかったが、秋イカの初戦としてはまずまずだろう。

 家に帰って風呂に入ると、背中や腕がヒリヒリした。背中を鏡に映すと、真っ赤になっていてランニングの跡がくっきり。軽いやけどだ。今日も下着が肌にこすれると、痛い。9月も終わりなのに暑く、雨の日も多い。温暖化のためか知らないが、何か変な気候だ・・・。

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旅行ボケを脱し、山の日常へ・・・

 ペルー旅行から帰ってきて2週間ほどになり、ようやく旅行後遺症から抜け出しつつある。それまでは、写真のスライドショーを見ながら、旅の記憶を思い起こし、「あぁ、終わってしまった」とため息をついたりしていた。これが人生最後の長旅かもしれない・・・そんな寂しさも感じることがあった。

 辛かったのは、夜に眠れないことだった。10時ごろに床につくが、1時か2時に目が覚めてしまう。女房が寝ている階下の部屋を覗くと、女房も暗闇でパッチリと目を見開き、携帯電話の画面を見ていた。眠れないのは私だけではなかった。

 眠るため、私はウイスキーを黙々と飲んだ。女房はパソコンの前に座り、旅行のページなどを読んでいる。「眠れんなぁ」というのが、深夜に交わす短い会話だった。夜中に飲む酒は、生活のリズムを狂わせた。

 これが時差ぼけというのだろうか。未明に羽田を発ったが、12時間後ロスに着くと夜遅くだ。ここで5時間待って未明の便でペルーのリマへ約8時間。日付変更線を超えるような旅は慣れていないので、日本時間を足したり引いたりし、何が何だけわからなくなっていた。

 このところやっと朝の5時ごろ目覚めるようになり、平常に戻った。ペルー旅行のブログも3回書き終え、ひと息ついたところだ。ご無沙汰している釣りの計画を立てられるような余裕も生まれた。今日はボートに空気を入れ、漏れがないかも調べた。

 ペルーに行く前はまだ咲いていなかった彼岸花は、旅行から帰ると、田んぼのあぜ道や畑で満開になっていた。あっという間の旅行だったが、しかるべき時が流れていた。いつの間にか、ウッドデッキに置いている野鳥のための餌台に、キノコが生えているのにはびっくりした。

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 餌台は、椎の木の切れ端をチェンソーで加工した力作だが、2008年12月に作ったから、もう17年が経っている。キノコが発生したのは初めてのことだ。全部同じ種類で、赤味がかっており、形はヒラタケに似ているが、食べる勇気はない。餌台はキノコが発生するほど朽ち始めた証拠なのだろう。

 わが家への階段脇にはたくさんホトトギスの花が咲いていた。このかわいらしい花が咲くと、生石高原の秋は足早に深まる。やっと旅行ボケを脱し、身の回りにも目を向ける余裕が出てきた。落ち着いた山の生活を過ごしたいと思う・・・。

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南米ペルーを行く・・・天空のマチュピチュは夢か幻か

 いよいよマチュピチュを訪ねる朝が来た。前日、古都クスコからバスと鉄道を乗り継ぎ、マチュピチュ村のホテルに泊まっていた。午前5時ごろ目覚めると、屋根に打ちつける雨の音がした。それも激しい降り方だ。

 部屋のカーテンを引くと、強い雨が降り、あたり一面濃い霧に包まれていた。地球の裏側まで来て、何だこの天気は・・・。思わず、悪態をつきたくなった。写真やテレビの映像で何度も、何度も見た夢の空中都市。胸に膨らんでいた期待の風船が、一気にしぼんでしまった。

 朝7時半ホテルを出発し、シャトルバス乗り場に向かった。幸い雨は止んでいたが、霧は依然として濃い。ベテラン添乗員は「心配いりません。必ず晴れます」と強気である。朝に雨が降ると、次第に晴れるという長年の経験が、そう言わせたのだ。

 バス乗り場に着くと、10台近いバスが列をなしていた。マチュピチュ村に来るためには、歩いて来るか、鉄道に乗るかしかなく、車が通る道は一切ない。それなのに、なぜここにバスがあるのだろう・・・。よく考えれば、鉄道の貨車にバスを乗せて運べばいいのだが、咄嗟にそんなそんな簡単な答えが思い浮かばなかった。

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 前日ここに来る列車の窓から、険しい山の斜面に延々と続く道が見えた。これが「インカ道」だ。われら一行が列車に乗ったオリャンタイタンボ駅から先には車が通れる道はなく、先住民の人々は、このインカ道を歩いたのだろう。現代では、バックパッカーが3泊4日でマチュピチュまで歩くという。私がもう少し若ければ、歩いてみたい。

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 マチュピチュ村は標高2000mほどで、ここからバスでヘアピンカーブを縫うように登り、標高差400mを登り詰めて空中都市へ。所要時間は半時間ほどだ。道には10cm角ほどの石が敷き詰められ、右側は絶壁になっているがガードレールなどはない。

 これとは別にインカ道も頂上に向けて延びており、この急斜面を直登する猛者がたくさんいた。インカの人々には、車輪を転がすという発想がなかったと聞いたことがある。この急な山道を見て、なるほどなぁと思った。アンデスは荷車で物を運べるような地形ではなく、もっぱらラクダ科のリャマという家畜の背を借りたという。

 道路は朝の雨で濡れ、バスがスリップしないか心配だった。しかし運転手は助手席の仲間とおしゃべりをし、時々前を見ていないこともあった。車窓から見える釣鐘を吊るしたような山には霧がかかっており、添乗員から「晴れる」と明言されていても、気持ちは暗かった。

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 バスの終点は、芋の子を洗うような混雑ぶりだった。マチュピチュの見学は4時間と長時間だが、中にはトイレも売店もなく、ここでトイレを済ませておいた。水のペットボトルをバスの中に置き忘れたため、売店へ買いに行った。ここも長蛇の列で、一行を10分余り待たせてしまった。水はマチュピチュ料金の3ドル・・・。高ぁー。

 ここからしばらく歩いた所に入場門があり、パスポートとチケットを提示して遺跡の中に入った。下の写真のような小道歩いたその先に・・・。

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 圧倒的な迫力で現れたのは、写真で何度も見たあの遺跡群だ。背後の山には少し雲がかかっている。それがまたいい。この場に立たなければ体感できないものがある。アンデスに吹く風、天からに降り注ぐ白い光線、日なたと日陰の温度の差・・・。そんな自然に触れながら見るマチュピチュは、実に感動的だった。長い旅の末にここまで来た甲斐があった。

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 マチュピチュが発見されたのは、日本の明治時代末期にあたる1911年のこと。アメリカ人の歴史学者が「断崖の上に石の建築物がそびえている」という一文をヒントに、探検に乗り出した。地元の人に案内を乞うたところ、「毒蛇がうようよいる」との理由で断られたが、少年の案内で草に覆われた遺跡を発見したという。

 遺跡の発見は、インカ帝国がスペイン人に滅亡させられてから400年が経っていた。マチュピチュは15世紀ごろ建設されたらしいが、深いジャングルと断崖に守られ、征服者に発見されることはなかった。なぜ、要塞のような都市が造られたのだろう。

 インカは文字を持たなかったので、その記録は残っていない。インカ帝国復興を願った人々が造った秘密基地だったという説。他の部族の進入を防ぐ目的もあったかもしれない。個人的には、太陽神を崇めたインカの人が天に近い断崖に築いたのは自然のことだったと思うが・・・。マチュピチュをめぐる論争は百家争鳴である。

 いずれにしても、強固な要塞としての機能は持っていたはずだ。一番高い所に見張り小屋があり、高い城壁もあった。

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 見学にはたっぷり時間があるので、ガイドが「兵隊道」を案内してくれた。片道20分ほど。急斜面を登ると、平坦な道に出た。下にアンデスの源流ウルバンバ川が見えた。この上流にダムがあり、ここから山にトンネルを掘って水を流し、水力発電をしているという。電気はマチュピチュをはじめクスコにも送っているらしい。

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 この先からは、足がすくむ道の連続だ。道幅は1mもない所もある。右側は垂直に切れ落ちており、足を踏み外せば100%死ぬ。左側にワイヤーが取り付けられている場所もあったが、断崖側に防護柵などはない。ここを行くのは自己責任。一行の大半は途中で止まってしまったが、われら夫婦は蛮勇をふるって先に進んだ。

 断崖の先に木製の柵が設けてあり、それより先には行けなかった。柵の向こうには危うそうな木の橋が架けられ、石の階段が続いていた。兵隊の道というから、侵入者があればこの断崖で迎え撃ったのだろう。

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 添乗員が予想したように、青空のいい天気になった。下の写真のように、まるで絵葉書のような光景で、来年の年賀状に使えそうだ。背後の山はワイナピチュ山(2690m)といい、現地語で若い峰の意味らしい。実は、マチュピチュ山(2940m)はこの反対側(下の写真)にそびえており、マチュピチュは老いた峰の意味だそうだ。

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 遺跡の一番高い広場に、太陽神への生贄を供える奇妙な石があった。生贄はラクダの一種リャマだったらしい。石には丸い穴が開けられれおり、リャマをつなぐのに使われたという。そんなリャマは今、アルパカとともにマチュピチュの観光大使として遺跡を闊歩し、愛嬌を振りまいている。

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 マチュピチュで一番神聖な場所は、太陽の神殿だ。巨大な自然石を土台に造られている。ここにもインカの石積みの技法がみられ、隙間なく積まれていた。この近くに日時計があり、暦を作ったのかもしれない。上部の石はきっちり南北を指しているという。

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 三角形の石積みは住居だった。石と石の間に材木を渡し、2階建てになっている。1階と2階には別々の出入り口があり、家族間のプライベートに配慮したのだろう。遺跡には、背後の山から湧き水を引き、水道のような水路が整備されていた。

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        ↓ 丸太を渡して2階部分が造られた
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        ↓ このような水路と水汲み場があった。

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 この空中都市に、一体何人くらいが住んでいたのだろう。一般的には住居の数などから500人~1000人と言われるが、最盛期には1万人いたという解説書もあった。目もくらむような角度で造られた段々畑は3000段あるという。ジャガイモ、トウモロコシが栽培され、自給自足の暮らしが成り立っていたとされる。

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 今も遺跡の発掘調査が行われている。マチュピチュは15世紀のころの建設だが、文字を用いなかったため記録がなく、手がかりを求めて終わりのない調査が続けられる。調査は空振りだったらしく、埋め戻しが行われていた。ここを最後に遺跡の見学を終えた。夢のような4時間だった。石の間に生えた赤い蘭の花が見送ってくれた・・・。

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 マチュピチュ村まで下りるシャトルバスには長蛇の列が続いていたが、バスは次々到着し、30分ほどで乗れた。土産物店で最後の買い物をし、列車とバスでクスコに向かった。列車からは、雪をかぶったアンデス山脈が次々と見えた。

 標高3000m近くを走るバスから見た星空は、宇宙のガスが見えそうなくらい澄んでいた。首をかしげて上を見ると、四つの星が一段と明るく輝いていた。それを繋ぎ合わせると十の文字になる。きっと南十字星だと思ったが、あとで調べるとニセの南十字星もあると書かれていた。旅のロマンだから、本物と信じればいい。

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 クスコに戻ってきた。丘の上を走るバスから美しい夜景が見られた。まるでアニメ映画のようだった。もうペルーに来ることはないと思うが、もしそんな機会があるなら、クスコに何日も居続けたいと思う。征服者スペイン人が消しても、消しても、消えなかったインカの匂いが、ここには染み付いているのだ。

 夜はクスコのお洒落なレストランで食事をした。最後の晩餐だ。

 食事を始めると、いかにもインディオらしい彫りの深い4人が登場し、アンデスの音楽を演奏した。雄大な自然が広がっていくようなメロディーだ。やがて軽快なリズムになり、ボーカルが「パッチャ、マンマー」(大地の母の意味)と叫ぶ。私も「パッチャ、マンマー」と叫んだ。手拍子を打って興奮していたのは、私を入れて3、4人くらいだった。「俺は軽い男だなぁ」・・・とつくづくそう思った。

 最後に「コンドルが飛んでいく」が演奏されると、今回の旅で目にした光景が次々と蘇った。ナスカの地上絵、クスコの街、マチュピチュの遺跡、そして土産物店の女性の熱い視線、アルパカの少々硬い肉料理・・・。音楽を聴いていて、なぜか感極まり、目頭が熱くなった。

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   ↓ ボーカルが自分たちのCDを売りに来た。もちろん買った。
     旅行記はCDを聞きながら、アンデスの気分に浸って書いた。

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                                                 (終わり)









南米ペルーを行く・・・インカ帝国の首都クスコ

 「♪コンドルが飛んで行く」・・・。これは、南米アンデスを代表するなじみの曲だ。1970年代、サイモン&ガーファンクルが歌っていたのを覚えている。曲が流れると、アンデスの大空を飛ぶコンドルの雄姿が目に浮かんだ。

 今回のペルー旅行は、そんなアンデスの世界を見てみたいと思い、不相応の大枚をはたいてツァーに参加したのだ。ナスカの地上絵を飛行機から見物した翌日、いよいよ、アンデスの核心部、つまりインカ帝国の首都として栄えたクスコへ行く。午前8時過ぎ、リマ空港からラタム航空に搭乗した。

 クスコまでは1時間半ほどの飛行だ。離陸からほどなく、湖が点在する山岳地帯の上空にさしかかった。やがて、頂上に雪を頂いた高峰の上を通過、遠くには白い山脈が横たわっていた。これがアンデス山脈か・・・。山好きの私は窓際に座る女房に席を替わってもらい、子供のように見入った。

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 飛行機は、クスコ郊外の空港に着陸した。小高い丘の斜面に民家がへばりつくように建っている。空港は意外にも近代的な建物で、ロビーの壁には、金色のレリーフが掲げられていた。インカは太陽神をあがめ、黄金に彩られた帝国だったが、レリーフはこの二つを象徴的に表現したものだろう。

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 クスコの標高は3400メートル。富士山に比べて少し低いだけだ。旅行社の添乗員は「クスコではゆっくり行動してください。決して走らないでください。深呼吸してください」としつこく注意していた。もちろん、高山病を予防するためだ。

 バスで市の中心部に向かったが、若い女性二人は早くも顔面蒼白になっていた。多くの人が大なり小なり、ふらつき、めまい、むかつきなどの高山病の症状に悩まされていたようだ。女房も食欲がなくなり、私も少し体がふらついた。登山のようにゆっくり登れば高山病になりにくいが、いきなり富士山の山頂に立ったようなものだから、体が高度に順応できない。

 クスコの街は、まるごと世界遺産だ。カミソリの刃一枚入らない美しく精巧なインカの石組み。その上に建てられたスペイン風の建築物。それらが独特の雰囲気を漂わせていた。その代表的なサントドミンゴ教会をめざして、坂道をゆっくり歩いた。その途中に赤い美しい花が咲いていた。ガイドからカンツータという名前の「ペルーの国花」と教えてもらった。

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 インカ帝国は1532年、スペイン人によって滅ぼされた。サントドミンゴ教会は、インカの「太陽の神殿」を破壊した跡に建てられたという。征服者たちは神殿に入ると、黄金で覆われた太陽の祭壇に目を奪われただろう。壁には金の延べ板がぶら下がり、金の人の彫像もあった伝えられている。

 征服者は、クスコのありとあらゆる場所から黄金の美術品を略奪した。しかも、美術品への敬意もなく、それらの黄金を無残に溶かし、インゴットにしてスペイン本国に持ち帰った。黄金の量は余りにも膨大で、一気にヨーロッパに流れ込んだため、インフレになったという記録が残っているそうだ。スペイン人は、インカの骨の髄までしゃぶり尽くしたのだ。

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 市街を歩くと、あちこちにインカの石組みが見られる。石と石をどのようにして隙間なく組み上げることが出来たのだろう。インカは文字を持たない珍しい文明だから、その技法は記録されておらず、謎のままだ。しかも、鉄を作る技術がなかったため、鉄器は存在しなかった。硬い石をどのように切り出し、加工したのかも分からない。

 石には、正確な丸い穴も開けられていた。そして、窓のような石組みはすべて台形になっていた。ペルーは地震が多く、台形は力学的にも地震に強い構造なのだ。恐るべき技術と知恵が随所に見られた。

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 宗教美術館の石組みに、有名な「12角の石」があった。おびただしい石が積まれているから、ガイドに教えてもらわなければ見つからない。数えてみると、確かに12角あった。なぜ、わざわざ複雑に加工したのだろう。王の一族12人を象徴したという説、1年12か月を表したという説などがあるらしいが、いずれにしてもインカが放った思わせぶりなメッセージである。

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 街を歩いていると、アルパカを連れた先住民インディオらしきおばさんがいた。アルパカと言えばペルーで最も有名な家畜である。写真に撮りたいと思うのが観光客の人情で、1ソル(35円)払えば写真を撮らせてくれる。日がなここに座っているらしく、なかなかいい商売だ。

 アルパカはラクダの一種で、毛は高級な織物になる。実は、クスコ入りする前、リマの空港で私と女房のセーターを買った。カードで支払おうとしたが、女房はカードの暗証番号を登録するのを忘れ、持ち金のドルをはたいてしまった。ペルーでは円をドルに両替してくれる所はなく、帰国するまで土産代にも事欠く始末だった。

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 クスコをもっと見学したかったが、翌日はマチピチュに行くので、その玄関口ともいえるオリャンタイタンボ駅までバスで移動しなければならない。クスコの近くからマチピチュ駅まで鉄道が敷かれており、オ駅はその中間にあり、運行便数が多い。

 バスはアンデス山脈の2000mを超える山ろくを走った。車窓からは、美しい山々が見え、アンデスの人々の生活の匂いが伝わってきた。約2時間の最も素晴らしいバスの旅だった。

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 夕方、オリャンタイタンボ駅に着いた。ものすごい観光客の数にびっくりした。マチピチュへは入場制限があり、1日4000人だとの説明を受けた。それくらいの数なら、日常的な光景なのだろう。

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 マチピチュ駅に着くと、坂道を下ってホテルに向かった。道の両脇はおろか、路地にまで土産物店がぎっしり立ち並び、これだけの店の数で商売がやっていけるのか、余計なお世話だが心配になった。私たち宿泊したホテルは、ガラス張りのおしゃれな建物だった。アンデスの山村には、しっくりこないと思った・・・。

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                                                   (続く)

南米ペルーを行く・・・アンデスの宝、ナスカの地上絵

 旅行社のツァーに参加し、南米ペルーに向かった。ペルーの首都リマまでは空路で正味20時間。地球の裏側まで行く旅は長い。ツァーの一行は関東、東海、山陽、北陸、そしてわれら関西勢の面々19人で、羽田空港で合流した。

 午前零時過ぎのデルタ航空機に搭乗し、一路ロスへ。これから8日間の長旅を考えると、しっかり眠っておくことだ。機内食を食べながら、眠りを誘うため赤ワインを飲んだ。飲み終わる頃、タイミングよく客室乗務員が両手にワインボトルを持って現れ、グラスを満たしてくれた。旅情に浮かれて3杯も飲み、ほろ酔いになった。

 眠りにつこうとしていた時、通路を歩いてきた大柄の女性乗務員に足を蹴られた。振り向きもせず、「ソーリー」の一言を残し、スタスタと歩いて行った。足の指に痛みが走り、ちょっとムカついた。こんなこともあって、まどろんだだけだった。ロスでの乗り継ぎには5時間も要し、ラタム航空でリマに向かった。

 ロスから8時間40分、リマに到着した。南半球に足を踏み入れるのは初めてだ。リマの季節は日本と逆の春先。空港に降り立つと、生ぬるい風が吹いていた。

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 観光の第一歩は世界遺産のリマ歴史地区。大聖堂は南米最古と言われるだけに、風格ある建物だった。この広場に面した豪壮な大統領府は、自動小銃を手にした警備員に堅く守られており、ペルーの複雑な国情を物語っていた。中庭の両側に駐車していた黒塗りの10数台の公用車(?)はすべてトヨタの最高級車レクサスだった。政界に食い込む日本企業の一端が見られ、少しうれしくなった。

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 ペルー3000年の歴史を語りかけるラルコ博物館。コロンブス以前の金銀の美術品、陶磁器の数々が時系列で展示され、これはもう圧巻だった。日本語の説明文も付いており、理解が深まった。エロチックな秘宝館も併設されており、ご婦人方は頬を赤らめながらも、まじまじと見つめておられた。夜の10時まで開いており、写真撮影も自由。お役所的な日本の博物館とは違う。

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 夜はオプショナル・ディナーに参加した。ワカブクーヤナという古代ピラミッドに隣接したレストランだ。ピラミッドは紀元後500年ごろ、日干しレンガと粘土で作られた。ライトアップされた遺構を見ながらペルー料理を楽しんだが、料金は110ドルと高めだ。参加者は6人だけだった。

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 翌日は、空からナスカの地上絵を見学する。セスナが飛ぶイカ市の空港までは約300キロ。北米から南米の最南端を貫くパンアメリカンハイウェーに乗り入れ、バスで走った。所要時間は4時間半。車窓にはペルーの田舎町の風景が飛んで行く。

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 イカの空港で1時間ほど待ってセスナに乗った。全員が窓際の席で、2班に分かれた。地上絵は西暦500年前後に描かれ、1939年アメリカ人の考古学者によって発見されるまで長く眠り続けていた。地上絵は現在も次々発見されており、一体いくつあるか分からないと言う。何のために?・・・雨乞いの儀式が有力だが、諸説ある。

 セスナは20分ほど飛ぶと、山々に挟まれた広大な砂漠の上空にさしかかった。副操縦士がたどたどしい日本語で「さあクジラがあるよ。左側に出たー」と叫ぶ。すると、操縦士は真下にクジラが見られるように急旋回。「サル」「ハチドリ」「クモ」など13ある一筆書きの地上絵を回る間に、乗り物酔いのため胃がでんぐり返り、嘔吐寸前だ。

 女房に写真撮影を代わってもらったが、女房もそれどころではないらしく、やはり乗り物酔いを必死にこらえている様子だ。壮大な地上絵はしっかり見ることが出来たけれど、後でカメラのモニターを見ると、絵が何とか分かるのは数枚だけだった。光が強過ぎたためハレーションを起こしたのかもしれない。他の人も同じ事を言っていた。

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       ↓ 口を開けたような地上絵は「オウム」
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       ↓ 展望台の上にも絵が・・・それが何か判別出来ない
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       ↓ 黒い岩に宇宙飛行士が描かれているのだが・・・
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 地上絵の感動を反すうしながら、リマへの帰路についた。ハイウェーの沿道には、廃屋のようなおびただしい建物が見られた。山岳地帯から移住した人が、家と土地の既得権を得るために建てたそうだ。家屋の壁には、赤いペンキで書かれた「KEIKO」の文字が目立った。先の大統領選に出馬して惜しくも落選したケイコ・フジモリを応援するメッセージだ。

 KEIKOは、10年にわたって大統領に在職したアルベルト・フジモリの長女だ。そのフジモリ大統領は1997年、日本大使館襲撃事件のテロリストを制圧する作戦を決断した。人質を救出した特殊部隊とともに、拳を突き上げた大統領の姿がテレビに映し出され、今もその映像をはっきり覚えている。決断力と実行力。国のトップはかくあるべきだと思った。

 大統領の強引な政治手法を弾劾され、今は監獄生活をしている。反面、大統領在任中に1万2000もの学校を作ったことで知られる。ペルーではこんな風に言われているそうだ。ローマ人は教会を作り、イギリス人は社交クラブ、中国人は郷土会館を作る。日本人が集まると学校を作る・・・。誇らしい日本人観である。

                                                         (続く) 

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