苦悩する大仏さん・・・

 東大寺の大仏さんに参拝するため、大津駅からJRで奈良に向った。自宅のある大津の市街には正月に降った雪が残っていたが、京都から奈良にかけてはまったく見られない。やはり大津は北陸の尻尾のような所だと、つくづく思った。

 小一時間で奈良駅に着いた。正月休みも明けたのに、たくさんの観光客がぞろぞろと東大寺方面に歩いて行く。ここでもやはり外国人観光客が多い。150円のシカせんべいも飛ぶように売れ、商売繁盛のようである。

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 最初に大仏さんを拝んだのは、小学校の修学旅行だったように思うが、遠い昔のことだから記憶は怪しい。アルバムを引っ張り出して調べると、興福寺の五重塔をバックにした記念写真があり、確かに奈良を訪れていた。この写真は、数少ない小学時代の一枚で、懐かしかった。

 その後も何回か東大寺を訪ねたことはあるが、それは普通の観光だった。しかし今回は、ある一冊の本に描かれた大仏造営の物語に触発され、東大寺行きを思い立った。

 この本は、帚木(ははきぎ)蓬生著「国銅」(上下、新潮文庫)で、2003年に出版された長編小説である。主人公は、長門(山口県)の銅山で鉱石を採掘し、銅を作る奴隷のような作業に従事する青年だ。

 青年はある日、仲間15人とともに大仏造営の人夫として奈良に派遣された。瀬戸内海を舟で渡り、難波津から平城京に入った。都で見るものはすべて珍しく、とくに巨大な仏像造営の最新技術の現場は刺激的だった。様々な人間模様を織り交ぜながら飾り気のない筆致で天平の世が描かれている。帚木作品としては、唯一の古代の物語だ。

 「国銅」というタイトルは、聖武天皇の「国中の銅を集めて盧遮那仏(大仏)を造る」という詔から付けられたと思う。西暦745年から7年にわたり、山を削り、土を盛り、銅を作り、木材を運んだ大事業だ。苦役に人々は疲弊し、費用は今のお金で5000億円近くかかったと言われる。

 そんな当時を想像しながら東大寺に向った。金色の甍(いらか)を戴く大仏殿は何と大きいことか。戦乱や地震、火災で何度も被害に遭ったが、復興され続けてきた。今の大仏殿は、創建当時より三分の二ほどの大きさだというから、当時の建築技術の高さに驚く。

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 大仏殿に足を踏み入れると、高さ15mの巨体に圧倒された。砂などで固めた外枠と中枠の隙間に銅を流し込んで作られた。なぜこれほどまでに大きいのか・・・。干ばつや飢饉、疫病に苦しむ人々を救おうとする聖武天皇の願いと、天皇自身の苦悩の大きさの表れかもしれない。

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 聖武天皇は精神を病んでいたとう説がある。蘇我系と藤原系の皇位を巡る争い、その挙句に起きた長屋王の変、藤原四兄弟の相次ぐ病死、身内の怪死などが天皇の心を痛めつけたようだ。呪われた平城京を捨てて紫香楽の宮に遷都しようとした。そして大仏はこの地の甲賀寺に造営する詔を発し、工事が始められた。

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 しかし付近で火事が相次ぎ、造営は平城京に変更された。火事は、大仏造営への民衆の反発が招いたとも言われているが、もちろん真相は歴史の闇の中。もし紫香楽に大仏さんが建立されていたら、その後の日本の歴史はどんな道を辿っただろう。帰りの電車で、歴史の「IF」を想像してみた…。 

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コメント

帚木蓬生は読書家の友人の勧めで2冊読んだことがあります。今調べたら、現役の精神科医なんですね。
そして大津は母が再婚で嫁いだ先で、何度も行きました。
そのあたりのことを聞くと懐かしいです。
奈良の大仏が日本一大きいと思っていましたが、千葉の鋸山のが一番大きいのでした。
でも、奈良の大仏殿は最大ですね。本当に昔の人は気の遠くなるような工事を、よく出来たものだと思います。

     May さんへ

 コメント有難うございます。
私も帚木蓬生の作品を読んだのは2冊目です。
別の本は「水神」(上下)です。いい本でした。
これについては、2012年7月9日のブログで書いています。
時間があれば読んでみて下さい。
 へぇー、お母さんが大津に嫁いでおられたのですか。
大津って、景色がきれいでいい所でしょう?
私の家の食卓からも琵琶湖が見えます。
それなのに、「なんで和歌やなの?」と言われます。
変人なのでしょうね・・・。

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