森に暮らすひまじん日記

第二の人生を歩む私たち夫婦は、和歌山の生石高原に近い森の中で暮らしています。豊かな自然の恵みにあずかりながら、有機栽培で野菜を育てたり、近くの渓流や海で魚を釣ったりする気ままな日々です。そんな暮らしぶりを綴っています。 
 

会津への旅(3)

 会津の市中を歩くと、歴史的な建物が意外と少ないことに気が付く。戊辰戦争はすさまじく、なだれ込んできた新政府軍によって焼かれ、壊されてしまったのだ。有為な人材や若い命も失われ、そうした墓石ばかりが目立つ。

 砲弾を浴びた鶴ケ城は取り壊され、今の優美な城は復元された建物である。一族21人が自刃した家老西郷頼母邸があった場所には石碑が建っているだけだ。藩校日新館は全国有数の師弟教育の場だったが、これも天文台の石の土台を残すのみである。

vcm_s_kf_repr_468x351_20120418182120.jpg

vcm_s_kf_repr_351x468_20120418182150.jpg

 戊辰戦争で会津藩の敗色が濃くなると、江戸あたりの道具商や、たちの良くない男たちが姿を現した。戦火に追われる商家などから家具や漆器を買い叩くためにやって来たのだ。こうして、会津伝統の価値ある工芸品が散逸してしまった。

 再現された西郷頼母の武家屋敷があると聞き、行ってみた。建物の一角にある史料室で、思いがけない戊辰戦争の「遺物」を目にすることになり、驚いた。それは、味付け海苔ほどの大きさの赤い布切れである。

 紛れもなく、「泣血氈(きゅうけつせん)」だった・・・。

vcm_s_kf_repr_468x351_20120418182228.jpg

 JR会津若松駅から甲賀町通りを歩くと、城の手前に「白露庭」という武家の庭園がある。戊辰戦争が終結すると、この庭園の近くの通りに緋毛氈を敷き、新政府軍と会津藩との間で降伏式が行われた。

 藩主松平容保公がひざまずき降伏と謝罪の書を差し出すと、政府軍を代表して薩摩藩の中村半次郎が受け取った。彼は「人斬り半次郎」の異名で呼ばれ、会津藩にしてみれば、そんな格下の人物が代表を務めるのは屈辱的な仕打ちに映った。ただ、彼だけが敗軍の将に頭を下げ、敬意を表したとの説もあるのだが・・・。

 いずれにしても、屈辱の儀式だった。降伏状を書き、儀式を取り仕切った秋月悌次郎は、式場の緋毛氈を切り刻み、「この日の屈辱を忘れまい」との思いを込め、藩士たちに配った。これが、血の涙を意味する「泣血氈」である。

 額縁に入れられた「泣血氈」は、少し斜めに切られており、急いで刀で切ったように見える。緋毛氈はかなり上物だったようで、140年余り経っているが、緋色をとどめていた。

 布切れは、何を語りかけているのだろう。薩摩に騙され、将軍慶喜や徳川幕府から捨てられ、朝敵、賊軍の汚名を着せられた。「なぜだ!」と言う叫びなのだろうか。

 それから10年、西南戦争が起きた。会津にしてみれば、西郷隆盛たち薩摩兵相手に戊辰戦争の恨みを晴らし、一矢報いる機会が到来したのだ。続々と会津出身の士族が集まり、政府軍の一員として薩摩に向かった。

 その一人、佐川官兵衛は戊辰戦争の城外隊を率いた家老で、「鬼官兵衛」と呼ばれた猛将である。薩摩との戦を死に場所と決めていた節がある。抜刀して薩摩兵に斬りかかり、戦死した。ある小説では、鬼官兵衛は「薩摩の芋侍、恥を知れ」と叫びながら、白兵戦に挑んだとある。「薩摩よ、恥を知れ!」は、西南戦争に加わった会津人共通の思いだったに違いない。

 会津への4泊5日の一人旅を終え、ブログを書きながら司馬遼太郎の言葉を噛みしめている。

 「あの時代に会津藩というものがなく、三百藩すべてが利に走っていたら、私は日本という国を信じなかった」・・・と。

                                          (終わり)
 
スポンサーサイト
   08:39 | Comment:4 | Trackback:0 | Top
 
 
Comment
 
 アガタ・リョウ [URL] #-
 お早う御座います。もっも、もっも読んで居たい、教えて欲しい気持ちです。

 時折、兄貴が東北に対する熱くも深い共鳴感をお持ちなのは、書かれている処なのですが、東北に寄せられている、その想いの中にこそ、現代日本、日本人への精神性の衰退への兄貴の怒り、歯がゆさ、情け無さが、行間を深く染めて居る・・・

 そんな思いで拝読させて頂いて居ります。知識の深さ、想いの強さを平易な文章で、中学生にも理解させる。それが出来る兄貴は、素晴らしいお方です。何時に無く兄貴の琴線に触れた想いがしました。もっと、もっとボリュームが欲しいと思うのは、愚弟の欲と云う物でしょうか・・・最良の雰囲気を頂戴致しました。感謝感謝。
愚弟より賢兄へ。 2012.04.20 (金) 09:42 [Edit]
 森に暮らすひまじん [URL] #-
 
  アガタ・リョウさんへ

 素晴らしいコメントをいただき、有難うございます。
私には大した知識も素養もありませんが、このような教養に裏打ちされたコメントをいただくと、うれしくなります。アガタさんのような読者が読んでいて下さるとのですから、変なことが書けません。
 各地で「維新塾」が出来ていますが、もちろん明治維新をイメージしての命名でしょう。明治維新は、間違いなくクーデターであり、謀略によって幾多の血が流れました。薩長による新政府は統帥権を盛り込んだ憲法を制定し、それが軍部の独走につながり、太平洋戦争に突入して行きました。
 そんな歴史がありながら、「維新だ、維新だ」と騒いでいる輩が馬鹿に見えます。いかがでしょうか・・・。
 2012.04.20 (金) 18:41 [Edit]
 タマモクロス [URL] #-
お久しぶりです

そろそろ生石高原に、訪問したいです♪

>司馬遼太郎の言葉
30年ぐらい前でしょうか?
司馬遼太郎の「関が原」をTVで見ました
ワシのバイブルです

家系図が紛失し証拠がありませんが、親から聞いた話では、石田三成の右腕が先祖だそうです・・・
それ以来、大谷刑部、真田幸村など義に生きる方を崇拝しております

人は理に弱いという、真田幸村の父真田昌幸の教えはもっともですが、生き難い平成の世
誰もが心では、そう思うのではないでしょうか?

人の本質に孔子や韓非子がありますが、現実は後者、理想は前者の狭間で揺れ動いております
 2012.04.21 (土) 21:29 [Edit]
 森に暮らすひまじん日記 [URL] #-
   タマモクロス さんへ

 こんばんわ。今日は大雨の予報でしたが、今のところ大した雨ではありません。
 気候も良くなってきたので、生石高原のわが山小屋を訪ねてみて下さい。ボートを出して、ガシラでも釣りましょう。アオリイカも釣れますよ(確立は低いですが・・・)お待ちしています。奥様、娘さんもどうぞ。
 石田三成の右腕ということは、ひょっとして島左近ですか。三成に過ぎたものが二つある。佐和山城と島左近。もしそうなら、三成ファンとしては、今後は言葉遣いに気をつけねばなりません。 
 2012.04.22 (日) 18:27 [Edit]






(編集・削除用)

 

管理者にだけ表示を許可
 
 
Trackback
 
http://yoko87.blog74.fc2.com/tb.php/716-6233a0f0
 
 
カレンダー
 
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
 
月別アーカイブ
 
 
カテゴリー
 
 
ブログ内検索
 
 
全記事表示リンク
 
 
 
訪問者数
 
 
ランキング参加中!
 
 
リンク
 
 
PR
 
 
PR
 
 
PR