森に暮らすひまじん日記

第二の人生を歩む私たち夫婦は、和歌山の生石高原に近い森の中で暮らしています。豊かな自然の恵みにあずかりながら、有機栽培で野菜を育てたり、近くの渓流や海で魚を釣ったりする気ままな日々です。そんな暮らしぶりを綴っています。 
 

光明寺の会津墓地に参る

 厳しい寒さが一段落したので、京都に出かけた。左京区にある金戒(こんかい)光明寺にある「会津墓地」にお参りするためだ。大津から京阪電車に乗って蹴上で降りた。お寺までは、歩いて半時間くらいだろう。

 琵琶湖疏水のインクラインを右手に見ながら歩いた。まずは南禅寺の境内をぶらぶらしようと思った。朝も早いのに、すでに観光客がたくさん来ていた。京都は季節を問わず、どこへ行っても人が多い。さすが千年の都である。

 参道を進むと、右手に煉瓦造りの疏水の水路閣が見えてくる。古刹の中にあって少しアンバランスな構造物だが、あたりの景観に溶け込んでいるのが不思議である。疏水の大事業は、明治天皇が京都のために残されたご加護金によって建設された。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130228102636.jpg

vcm_s_kf_repr_351x468_20130228104519.jpg

 南禅寺は、亀山上皇の離宮跡に建てられた臨済宗総本山だ。巨大な山門を見上げながら、ふと、明治天皇が東京に移られて何年になるのだろうと思った。暗算は苦手だが、答えは145年。明治は遠くへ行ってしまった。

 明治天皇は「ちょっと行ってくる」と言われて東京に向かわれたという。本当にそうおっしゃったかどうかは分からないが、京都の人々からすれば、いずれ京都御所にお戻りになると思っている。地元政財界も同じ思いで、京都御苑に迎賓館を誘致する活動を繰り広げ、実現させた。

 そもそも、江戸城の城壁と堀に囲まれた皇居は、どこかいかめしい感じがする。それに対し、京都御所は京の町と同じ地平にあり、もちろん城壁も堀もない。物理的にも心理的にも、国民との間に敷居がないのだ。昔からそれほど大きな自然災害のない京都に、なるべく早くお戻りになればいいと思う。

 細川家別邸などが建ち並ぶ岡崎の邸宅街を歩き、光明寺に向かう。京都に通算6年もいたことがあるが、ここへお参りするのは初めてだ。NHK大河ドラマ「八重の桜」は会津ブームを巻き起こしているが、今回の「会津墓地」へのお参りはそれと関係がない。

 チャンバラ好きの私は新撰組ファンである。新撰組を配下に置いていた京都守護職の会津藩にも親しみを感じ、薩長や一部公家にはめられて戊辰戦争に追い込まれた会津に深く同情するようになった。戊辰戦争の戦死者を埋葬した光明寺へは、いつかお参りしようと思っていた。会津贔屓の私にとって、それは宿題のようなものだった。

 黒谷の小高い丘にある光明寺には、多くの参拝者が訪れていた。用心深かった徳川家康が、京都に変事があれば陣を張れるようこの寺を城構えにした。知恩院も同じだと言われる。多くの人員を収容できる広さがあり、京都御所にも近い。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130228103547.jpg

vcm_s_kf_repr_468x351_20130228103638.jpg

 天誅や攘夷の声ととともに生首がポンポン飛んだ動乱の幕末、治安維持の命を受けた京都守護職松平容保公は藩士千人を率いて光明寺に入陣した。これが会津滅亡の始まりだった。

 この本堂で、容保公は藩士を前に悲壮な覚悟を述べたのだろう。越前藩主松平春嶽はずるい男で、自分で守護職を引き受ければいいのに、病気で伏せっていた容保公の枕元にまで押しかけ、再三にわたって守護職就任を迫った。薩長や公家を敵に回し、出費も膨大な損な役回りで、国元家老西郷頼母が体を張って就任を諌めたことでも知られる。

 三重塔がそびえる黒谷の丘には墓地が拡がり、その一角に会津墓地があった。それぞれの墓石は小さく、肩を寄せ合うように建てられている。墓石に刻まれた「会津」のかすれた文字が痛々しい。会津の悲劇に同情する人たちだろうか、一人二人と訪れ、線香を手向けている。私の目に熱いものが込み上げてきた。

vcm_s_kf_repr_351x468_20130228103757.jpg

vcm_s_kf_repr_351x468_20130228103853.jpg

vcm_s_kf_repr_351x468_20130228103954.jpg

vcm_s_kf_repr_468x351_20130228104040.jpg

 幕末、京都に「会津の小鉄」という侠客がいたという。会津藩の口入れか密偵だったのかもしれない。鳥羽伏見の戦いで多くの藩士が戦死し、そのまま放置されていた。藩に恩義を感じていた小鉄は遺体を収容し、光明寺の墓に埋葬したという話を何かの本で読んだ。近年まで京都にあった「会津小鉄会」というヤクザ組織はそのなごりかもしれない。

 このあと吉田山を越え、今出川通りに出た。この通りには皿うどんと長崎ちゃんぽんの店がある。昔、子供たちを連れてよく食べに来た。皿うどんの具は薄味だが、味に切れがあった。懐かしいので20年ぶりくらいで店に入った。店内の様子は昔と何も変わらなかったが、親父の姿はなく、息子に代替わりしていた。皿うどんの味も少し変っていた。

vcm_s_kf_repr_468x351_20130228104120.jpg

 鴨川の遊歩道を歩き、帰途についた。途中、亀の形をした飛び石を越え、対岸にも渡ってみた。若者が能楽らしき笛を練習していた。そばの石に腰かけ、空気を裂くような鋭い笛の音色にしばし耳を傾けた。鴨川の風に少し春を感じた。いい日和に、念願の会津墓地に参ることが出来て良かった・・・。

スポンサーサイト
   10:52 | Comment:0 | Trackback:0 | Top
 
 
Comment
 






(編集・削除用)

 

管理者にだけ表示を許可
 
 
Trackback
 
http://yoko87.blog74.fc2.com/tb.php/814-8f0602cf
 
 
カレンダー
 
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
 
月別アーカイブ
 
 
カテゴリー
 
 
ブログ内検索
 
 
全記事表示リンク
 
 
 
訪問者数
 
 
ランキング参加中!
 
 
リンク
 
 
PR
 
 
PR
 
 
PR