南米ペルーを行く・・・天空のマチュピチュは夢か幻か

 いよいよマチュピチュを訪ねる朝が来た。前日、古都クスコからバスと鉄道を乗り継ぎ、マチュピチュ村のホテルに泊まっていた。午前5時ごろ目覚めると、屋根に打ちつける雨の音がした。それも激しい降り方だ。

 部屋のカーテンを引くと、強い雨が降り、あたり一面濃い霧に包まれていた。地球の裏側まで来て、何だこの天気は・・・。思わず、悪態をつきたくなった。写真やテレビの映像で何度も、何度も見た夢の空中都市。胸に膨らんでいた期待の風船が、一気にしぼんでしまった。

 朝7時半ホテルを出発し、シャトルバス乗り場に向かった。幸い雨は止んでいたが、霧は依然として濃い。ベテラン添乗員は「心配いりません。必ず晴れます」と強気である。朝に雨が降ると、次第に晴れるという長年の経験が、そう言わせたのだ。

 バス乗り場に着くと、10台近いバスが列をなしていた。マチュピチュ村に来るためには、歩いて来るか、鉄道に乗るかしかなく、車が通る道は一切ない。それなのに、なぜここにバスがあるのだろう・・・。よく考えれば、鉄道の貨車にバスを乗せて運べばいいのだが、咄嗟にそんなそんな簡単な答えが思い浮かばなかった。

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 前日ここに来る列車の窓から、険しい山の斜面に延々と続く道が見えた。これが「インカ道」だ。われら一行が列車に乗ったオリャンタイタンボ駅から先には車が通れる道はなく、先住民の人々は、このインカ道を歩いたのだろう。現代では、バックパッカーが3泊4日でマチュピチュまで歩くという。私がもう少し若ければ、歩いてみたい。

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 マチュピチュ村は標高2000mほどで、ここからバスでヘアピンカーブを縫うように登り、標高差400mを登り詰めて空中都市へ。所要時間は半時間ほどだ。道には10cm角ほどの石が敷き詰められ、右側は絶壁になっているがガードレールなどはない。

 これとは別にインカ道も頂上に向けて延びており、この急斜面を直登する猛者がたくさんいた。インカの人々には、車輪を転がすという発想がなかったと聞いたことがある。この急な山道を見て、なるほどなぁと思った。アンデスは荷車で物を運べるような地形ではなく、もっぱらラクダ科のリャマという家畜の背を借りたという。

 道路は朝の雨で濡れ、バスがスリップしないか心配だった。しかし運転手は助手席の仲間とおしゃべりをし、時々前を見ていないこともあった。車窓から見える釣鐘を吊るしたような山には霧がかかっており、添乗員から「晴れる」と明言されていても、気持ちは暗かった。

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 バスの終点は、芋の子を洗うような混雑ぶりだった。マチュピチュの見学は4時間と長時間だが、中にはトイレも売店もなく、ここでトイレを済ませておいた。水のペットボトルをバスの中に置き忘れたため、売店へ買いに行った。ここも長蛇の列で、一行を10分余り待たせてしまった。水はマチュピチュ料金の3ドル・・・。高ぁー。

 ここからしばらく歩いた所に入場門があり、パスポートとチケットを提示して遺跡の中に入った。下の写真のような小道歩いたその先に・・・。

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 圧倒的な迫力で現れたのは、写真で何度も見たあの遺跡群だ。背後の山には少し雲がかかっている。それがまたいい。この場に立たなければ体感できないものがある。アンデスに吹く風、天からに降り注ぐ白い光線、日なたと日陰の温度の差・・・。そんな自然に触れながら見るマチュピチュは、実に感動的だった。長い旅の末にここまで来た甲斐があった。

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 マチュピチュが発見されたのは、日本の明治時代末期にあたる1911年のこと。アメリカ人の歴史学者が「断崖の上に石の建築物がそびえている」という一文をヒントに、探検に乗り出した。地元の人に案内を乞うたところ、「毒蛇がうようよいる」との理由で断られたが、少年の案内で草に覆われた遺跡を発見したという。

 遺跡の発見は、インカ帝国がスペイン人に滅亡させられてから400年が経っていた。マチュピチュは15世紀ごろ建設されたらしいが、深いジャングルと断崖に守られ、征服者に発見されることはなかった。なぜ、要塞のような都市が造られたのだろう。

 インカは文字を持たなかったので、その記録は残っていない。インカ帝国復興を願った人々が造った秘密基地だったという説。他の部族の進入を防ぐ目的もあったかもしれない。個人的には、太陽神を崇めたインカの人が天に近い断崖に築いたのは自然のことだったと思うが・・・。マチュピチュをめぐる論争は百家争鳴である。

 いずれにしても、強固な要塞としての機能は持っていたはずだ。一番高い所に見張り小屋があり、高い城壁もあった。

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 見学にはたっぷり時間があるので、ガイドが「兵隊道」を案内してくれた。片道20分ほど。急斜面を登ると、平坦な道に出た。下にアンデスの源流ウルバンバ川が見えた。この上流にダムがあり、ここから山にトンネルを掘って水を流し、水力発電をしているという。電気はマチュピチュをはじめクスコにも送っているらしい。

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 この先からは、足がすくむ道の連続だ。道幅は1mもない所もある。右側は垂直に切れ落ちており、足を踏み外せば100%死ぬ。左側にワイヤーが取り付けられている場所もあったが、断崖側に防護柵などはない。ここを行くのは自己責任。一行の大半は途中で止まってしまったが、われら夫婦は蛮勇をふるって先に進んだ。

 断崖の先に木製の柵が設けてあり、それより先には行けなかった。柵の向こうには危うそうな木の橋が架けられ、石の階段が続いていた。兵隊の道というから、侵入者があればこの断崖で迎え撃ったのだろう。

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 添乗員が予想したように、青空のいい天気になった。下の写真のように、まるで絵葉書のような光景で、来年の年賀状に使えそうだ。背後の山はワイナピチュ山(2690m)といい、現地語で若い峰の意味らしい。実は、マチュピチュ山(2940m)はこの反対側(下の写真)にそびえており、マチュピチュは老いた峰の意味だそうだ。

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 遺跡の一番高い広場に、太陽神への生贄を供える奇妙な石があった。生贄はラクダの一種リャマだったらしい。石には丸い穴が開けられれおり、リャマをつなぐのに使われたという。そんなリャマは今、アルパカとともにマチュピチュの観光大使として遺跡を闊歩し、愛嬌を振りまいている。

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 マチュピチュで一番神聖な場所は、太陽の神殿だ。巨大な自然石を土台に造られている。ここにもインカの石積みの技法がみられ、隙間なく積まれていた。この近くに日時計があり、暦を作ったのかもしれない。上部の石はきっちり南北を指しているという。

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 三角形の石積みは住居だった。石と石の間に材木を渡し、2階建てになっている。1階と2階には別々の出入り口があり、家族間のプライベートに配慮したのだろう。遺跡には、背後の山から湧き水を引き、水道のような水路が整備されていた。

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        ↓ 丸太を渡して2階部分が造られた
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        ↓ このような水路と水汲み場があった。

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 この空中都市に、一体何人くらいが住んでいたのだろう。一般的には住居の数などから500人~1000人と言われるが、最盛期には1万人いたという解説書もあった。目もくらむような角度で造られた段々畑は3000段あるという。ジャガイモ、トウモロコシが栽培され、自給自足の暮らしが成り立っていたとされる。

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 今も遺跡の発掘調査が行われている。マチュピチュは15世紀のころの建設だが、文字を用いなかったため記録がなく、手がかりを求めて終わりのない調査が続けられる。調査は空振りだったらしく、埋め戻しが行われていた。ここを最後に遺跡の見学を終えた。夢のような4時間だった。石の間に生えた赤い蘭の花が見送ってくれた・・・。

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 マチュピチュ村まで下りるシャトルバスには長蛇の列が続いていたが、バスは次々到着し、30分ほどで乗れた。土産物店で最後の買い物をし、列車とバスでクスコに向かった。列車からは、雪をかぶったアンデス山脈が次々と見えた。

 標高3000m近くを走るバスから見た星空は、宇宙のガスが見えそうなくらい澄んでいた。首をかしげて上を見ると、四つの星が一段と明るく輝いていた。それを繋ぎ合わせると十の文字になる。きっと南十字星だと思ったが、あとで調べるとニセの南十字星もあると書かれていた。旅のロマンだから、本物と信じればいい。

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 クスコに戻ってきた。丘の上を走るバスから美しい夜景が見られた。まるでアニメ映画のようだった。もうペルーに来ることはないと思うが、もしそんな機会があるなら、クスコに何日も居続けたいと思う。征服者スペイン人が消しても、消しても、消えなかったインカの匂いが、ここには染み付いているのだ。

 夜はクスコのお洒落なレストランで食事をした。最後の晩餐だ。

 食事を始めると、いかにもインディオらしい彫りの深い4人が登場し、アンデスの音楽を演奏した。雄大な自然が広がっていくようなメロディーだ。やがて軽快なリズムになり、ボーカルが「パッチャ、マンマー」(大地の母の意味)と叫ぶ。私も「パッチャ、マンマー」と叫んだ。手拍子を打って興奮していたのは、私を入れて3、4人くらいだった。「俺は軽い男だなぁ」・・・とつくづくそう思った。

 最後に「コンドルが飛んでいく」が演奏されると、今回の旅で目にした光景が次々と蘇った。ナスカの地上絵、クスコの街、マチュピチュの遺跡、そして土産物店の女性の熱い視線、アルパカの少々硬い肉料理・・・。音楽を聴いていて、なぜか感極まり、目頭が熱くなった。

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   ↓ ボーカルが自分たちのCDを売りに来た。もちろん買った。
     旅行記はCDを聞きながら、アンデスの気分に浸って書いた。

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                                                 (終わり)









南米ペルーを行く・・・インカ帝国の首都クスコ

 「♪コンドルが飛んで行く」・・・。これは、南米アンデスを代表するなじみの曲だ。1970年代、サイモン&ガーファンクルが歌っていたのを覚えている。曲が流れると、アンデスの大空を飛ぶコンドルの雄姿が目に浮かんだ。

 今回のペルー旅行は、そんなアンデスの世界を見てみたいと思い、不相応の大枚をはたいてツァーに参加したのだ。ナスカの地上絵を飛行機から見物した翌日、いよいよ、アンデスの核心部、つまりインカ帝国の首都として栄えたクスコへ行く。午前8時過ぎ、リマ空港からラタム航空に搭乗した。

 クスコまでは1時間半ほどの飛行だ。離陸からほどなく、湖が点在する山岳地帯の上空にさしかかった。やがて、頂上に雪を頂いた高峰の上を通過、遠くには白い山脈が横たわっていた。これがアンデス山脈か・・・。山好きの私は窓際に座る女房に席を替わってもらい、子供のように見入った。

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 飛行機は、クスコ郊外の空港に着陸した。小高い丘の斜面に民家がへばりつくように建っている。空港は意外にも近代的な建物で、ロビーの壁には、金色のレリーフが掲げられていた。インカは太陽神をあがめ、黄金に彩られた帝国だったが、レリーフはこの二つを象徴的に表現したものだろう。

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 クスコの標高は3400メートル。富士山に比べて少し低いだけだ。旅行社の添乗員は「クスコではゆっくり行動してください。決して走らないでください。深呼吸してください」としつこく注意していた。もちろん、高山病を予防するためだ。

 バスで市の中心部に向かったが、若い女性二人は早くも顔面蒼白になっていた。多くの人が大なり小なり、ふらつき、めまい、むかつきなどの高山病の症状に悩まされていたようだ。女房も食欲がなくなり、私も少し体がふらついた。登山のようにゆっくり登れば高山病になりにくいが、いきなり富士山の山頂に立ったようなものだから、体が高度に順応できない。

 クスコの街は、まるごと世界遺産だ。カミソリの刃一枚入らない美しく精巧なインカの石組み。その上に建てられたスペイン風の建築物。それらが独特の雰囲気を漂わせていた。その代表的なサントドミンゴ教会をめざして、坂道をゆっくり歩いた。その途中に赤い美しい花が咲いていた。ガイドからカンツータという名前の「ペルーの国花」と教えてもらった。

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 インカ帝国は1532年、スペイン人によって滅ぼされた。サントドミンゴ教会は、インカの「太陽の神殿」を破壊した跡に建てられたという。征服者たちは神殿に入ると、黄金で覆われた太陽の祭壇に目を奪われただろう。壁には金の延べ板がぶら下がり、金の人の彫像もあった伝えられている。

 征服者は、クスコのありとあらゆる場所から黄金の美術品を略奪した。しかも、美術品への敬意もなく、それらの黄金を無残に溶かし、インゴットにしてスペイン本国に持ち帰った。黄金の量は余りにも膨大で、一気にヨーロッパに流れ込んだため、インフレになったという記録が残っているそうだ。スペイン人は、インカの骨の髄までしゃぶり尽くしたのだ。

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 市街を歩くと、あちこちにインカの石組みが見られる。石と石をどのようにして隙間なく組み上げることが出来たのだろう。インカは文字を持たない珍しい文明だから、その技法は記録されておらず、謎のままだ。しかも、鉄を作る技術がなかったため、鉄器は存在しなかった。硬い石をどのように切り出し、加工したのかも分からない。

 石には、正確な丸い穴も開けられていた。そして、窓のような石組みはすべて台形になっていた。ペルーは地震が多く、台形は力学的にも地震に強い構造なのだ。恐るべき技術と知恵が随所に見られた。

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 宗教美術館の石組みに、有名な「12角の石」があった。おびただしい石が積まれているから、ガイドに教えてもらわなければ見つからない。数えてみると、確かに12角あった。なぜ、わざわざ複雑に加工したのだろう。王の一族12人を象徴したという説、1年12か月を表したという説などがあるらしいが、いずれにしてもインカが放った思わせぶりなメッセージである。

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 街を歩いていると、アルパカを連れた先住民インディオらしきおばさんがいた。アルパカと言えばペルーで最も有名な家畜である。写真に撮りたいと思うのが観光客の人情で、1ソル(35円)払えば写真を撮らせてくれる。日がなここに座っているらしく、なかなかいい商売だ。

 アルパカはラクダの一種で、毛は高級な織物になる。実は、クスコ入りする前、リマの空港で私と女房のセーターを買った。カードで支払おうとしたが、女房はカードの暗証番号を登録するのを忘れ、持ち金のドルをはたいてしまった。ペルーでは円をドルに両替してくれる所はなく、帰国するまで土産代にも事欠く始末だった。

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 クスコをもっと見学したかったが、翌日はマチピチュに行くので、その玄関口ともいえるオリャンタイタンボ駅までバスで移動しなければならない。クスコの近くからマチピチュ駅まで鉄道が敷かれており、オ駅はその中間にあり、運行便数が多い。

 バスはアンデス山脈の2000mを超える山ろくを走った。車窓からは、美しい山々が見え、アンデスの人々の生活の匂いが伝わってきた。約2時間の最も素晴らしいバスの旅だった。

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 夕方、オリャンタイタンボ駅に着いた。ものすごい観光客の数にびっくりした。マチピチュへは入場制限があり、1日4000人だとの説明を受けた。それくらいの数なら、日常的な光景なのだろう。

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 マチピチュ駅に着くと、坂道を下ってホテルに向かった。道の両脇はおろか、路地にまで土産物店がぎっしり立ち並び、これだけの店の数で商売がやっていけるのか、余計なお世話だが心配になった。私たち宿泊したホテルは、ガラス張りのおしゃれな建物だった。アンデスの山村には、しっくりこないと思った・・・。

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                                                   (続く)

南米ペルーを行く・・・アンデスの宝、ナスカの地上絵

 旅行社のツァーに参加し、南米ペルーに向かった。ペルーの首都リマまでは空路で正味20時間。地球の裏側まで行く旅は長い。ツァーの一行は関東、東海、山陽、北陸、そしてわれら関西勢の面々19人で、羽田空港で合流した。

 午前零時過ぎのデルタ航空機に搭乗し、一路ロスへ。これから8日間の長旅を考えると、しっかり眠っておくことだ。機内食を食べながら、眠りを誘うため赤ワインを飲んだ。飲み終わる頃、タイミングよく客室乗務員が両手にワインボトルを持って現れ、グラスを満たしてくれた。旅情に浮かれて3杯も飲み、ほろ酔いになった。

 眠りにつこうとしていた時、通路を歩いてきた大柄の女性乗務員に足を蹴られた。振り向きもせず、「ソーリー」の一言を残し、スタスタと歩いて行った。足の指に痛みが走り、ちょっとムカついた。こんなこともあって、まどろんだだけだった。ロスでの乗り継ぎには5時間も要し、ラタム航空でリマに向かった。

 ロスから8時間40分、リマに到着した。南半球に足を踏み入れるのは初めてだ。リマの季節は日本と逆の春先。空港に降り立つと、生ぬるい風が吹いていた。

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 観光の第一歩は世界遺産のリマ歴史地区。大聖堂は南米最古と言われるだけに、風格ある建物だった。この広場に面した豪壮な大統領府は、自動小銃を手にした警備員に堅く守られており、ペルーの複雑な国情を物語っていた。中庭の両側に駐車していた黒塗りの10数台の公用車(?)はすべてトヨタの最高級車レクサスだった。政界に食い込む日本企業の一端が見られ、少しうれしくなった。

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 ペルー3000年の歴史を語りかけるラルコ博物館。コロンブス以前の金銀の美術品、陶磁器の数々が時系列で展示され、これはもう圧巻だった。日本語の説明文も付いており、理解が深まった。エロチックな秘宝館も併設されており、ご婦人方は頬を赤らめながらも、まじまじと見つめておられた。夜の10時まで開いており、写真撮影も自由。お役所的な日本の博物館とは違う。

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 夜はオプショナル・ディナーに参加した。ワカブクーヤナという古代ピラミッドに隣接したレストランだ。ピラミッドは紀元後500年ごろ、日干しレンガと粘土で作られた。ライトアップされた遺構を見ながらペルー料理を楽しんだが、料金は110ドルと高めだ。参加者は6人だけだった。

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 翌日は、空からナスカの地上絵を見学する。セスナが飛ぶイカ市の空港までは約300キロ。北米から南米の最南端を貫くパンアメリカンハイウェーに乗り入れ、バスで走った。所要時間は4時間半。車窓にはペルーの田舎町の風景が飛んで行く。

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 イカの空港で1時間ほど待ってセスナに乗った。全員が窓際の席で、2班に分かれた。地上絵は西暦500年前後に描かれ、1939年アメリカ人の考古学者によって発見されるまで長く眠り続けていた。地上絵は現在も次々発見されており、一体いくつあるか分からないと言う。何のために?・・・雨乞いの儀式が有力だが、諸説ある。

 セスナは20分ほど飛ぶと、山々に挟まれた広大な砂漠の上空にさしかかった。副操縦士がたどたどしい日本語で「さあクジラがあるよ。左側に出たー」と叫ぶ。すると、操縦士は真下にクジラが見られるように急旋回。「サル」「ハチドリ」「クモ」など13ある一筆書きの地上絵を回る間に、乗り物酔いのため胃がでんぐり返り、嘔吐寸前だ。

 女房に写真撮影を代わってもらったが、女房もそれどころではないらしく、やはり乗り物酔いを必死にこらえている様子だ。壮大な地上絵はしっかり見ることが出来たけれど、後でカメラのモニターを見ると、絵が何とか分かるのは数枚だけだった。光が強過ぎたためハレーションを起こしたのかもしれない。他の人も同じ事を言っていた。

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       ↓ 口を開けたような地上絵は「オウム」
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       ↓ 展望台の上にも絵が・・・それが何か判別出来ない
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       ↓ 黒い岩に宇宙飛行士が描かれているのだが・・・
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 地上絵の感動を反すうしながら、リマへの帰路についた。ハイウェーの沿道には、廃屋のようなおびただしい建物が見られた。山岳地帯から移住した人が、家と土地の既得権を得るために建てたそうだ。家屋の壁には、赤いペンキで書かれた「KEIKO」の文字が目立った。先の大統領選に出馬して惜しくも落選したケイコ・フジモリを応援するメッセージだ。

 KEIKOは、10年にわたって大統領に在職したアルベルト・フジモリの長女だ。そのフジモリ大統領は1997年、日本大使館襲撃事件のテロリストを制圧する作戦を決断した。人質を救出した特殊部隊とともに、拳を突き上げた大統領の姿がテレビに映し出され、今もその映像をはっきり覚えている。決断力と実行力。国のトップはかくあるべきだと思った。

 大統領の強引な政治手法を弾劾され、今は監獄生活をしている。反面、大統領在任中に1万2000もの学校を作ったことで知られる。ペルーではこんな風に言われているそうだ。ローマ人は教会を作り、イギリス人は社交クラブ、中国人は郷土会館を作る。日本人が集まると学校を作る・・・。誇らしい日本人観である。

                                                         (続く) 

土倉鉱山の廃墟を訪ねた

 お盆、墓参りのため女房と娘2人を連れて帰郷した。その帰り、滋賀の湖北地方をドライブしていたところ、長女が「廃墟ツアーしてみる?」と言った。特に行くあてもなかったので、廃墟とやらに行くことにした。長崎の軍艦島が世界文化遺産に登録され、一気に廃墟ブームに火が付いたようだ。娘も多分、そんな付和雷同派の一人なのだろう。

 その廃墟は、「土倉鉱山」の跡だ。明治40年に発見され昭和40年まで銅を採掘していた。最盛期には1500人もの労働者が働いていたという。北国街道の宿場町・木之本から国道303号線を車で半時間ほど走ると、道路の左側に鉱山跡の看板が立てられていた。滋賀と岐阜の県境に近い山中だ。

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 国道を左折して未舗装の細い道を300mほど進むと、いきなり古代遺跡のような廃墟が姿を見せた。鉱石を選別していた建造物で、コンクリートで造られていた。急な山の斜面にへばり付いており、三階建ての構造だ。1階部分には、直径2m近い土管のようなものが埋められており、ここに水を流して選鉱していたのだろうか。

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 ここからさらに1・8キロほど歩くと、もう一つの選鉱跡があるらしく、娘らを残して一人で歩いた。その途中に坑道跡があり、入り口は鉄柵で封鎖されていた。左側を流れる谷川のせせらぎを聞きながら、ひたすら歩いた。この日も真夏日で、汗が噴き出した。やっとそれらしき場所に到着したが、「関係者以外の立ち入り禁止」の看板。へなへなと座り込みたくなった。

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 ここへ行く途中、アメリカ人の一行6人と出会った。日本で英語教師をしている一家で、廃墟ファンだという。帰りには、若いカップルなど4人とすれ違った。なるほど、廃墟ファン、廃墟マニアが多いのだ。全国に多くの廃墟があるが、土倉鉱山跡は隠れたスポットらしく、結構な人気だという。

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 草木が生い茂る鉱山跡を歩きながら、芭蕉が奥の細道の平泉で詠んだ一句を口にしてみた。「夏草や兵どもが夢の跡」・・・。平泉は藤原三代が栄えた地だが、芭蕉が見た平泉は夏草が生えて往時の面影がない。一族の兵(つわもの)どもが追い求めた夢もまた、はかなくついえた。明治から昭和にかけて活気みなぎった鉱山の跡は、私にも寂しく映った。

 「国破れて 山河あり」・・・杜甫が詠んだ詩の一節である。唐の長安は、戦乱によって滅んだが、美しい山河は昔のままだという哀歓がこもっている。苦しいこじつけになるが、ここ湖北地方も戦国の戦乱によって蹂躙されたけれど、自然の美しさは変わらない。土倉鉱山の廃墟もまた風景に溶け込み、ある種の美を醸していた。

 廃墟からは感傷が生まれる。それが廃墟マニアの心を打つのだろう。人の命と同じで、形あるものはいつかは壊れる。滅びの美学である・・・。

外国人が押しかける中山道の宿場町

 
 この春、しばしばJRの「青春18キップ」のお世話になった。特急や新幹線を除く電車なら、1日乗り放題で2370円というお得なキップだが、これを考えたJR職員はなかなかの知恵者だと思う。知恵というのは乗り放題のことではなく、1枚ずつバラ売りせず、1冊5枚綴りにしたことだ。

 春夏冬の学校が休みの期間、鈍行電車に乗れば一目瞭然だが、18キップを利用するそれらしき旅行者の多くは中年以上の夫婦である。夫婦が1冊買って1泊2日の旅行をすると、1枚余ってしまう。もったいないので、もう1冊買って旅行したいと思うのが人情だろう。このように、もう1冊買わせるのが知恵者の狙いだったと思えて仕方がない。

 私たち夫婦は、18キップが使える春休みの期間中、長野県の善光寺と湯田中温泉へ1泊2日の旅行をした。1枚余ったのでもう1冊買い、今度は2泊3日で山陰の温泉へ旅行に行った。そして、余ったキップ2枚を使い切るため、日帰りで木曽路を歩くことにした。5枚綴り2冊分で合計2万3700円。ずいぶん遠くまで、何度も旅をさせてくれたので、何だかんだ言っても有難いキップだ。

 木曽路を歩いたのは、4月5日だった。ネットをつなぐWIFIの契約期限が切れたので、この旅のブログをアップするのが遅くなったが、そのころは多くの地域で桜が満開になっていた。桜並木を歩きながらJR大津駅へ向かい、午前6時前の快速電車に乗った。米原駅と名古屋駅で乗り継ぎ、岐阜県の中津川駅に着いたのは午前9時44分だった。

 ここから中山道の馬籠宿行きのバスに乗った。最初に乗り込んだのはわれら夫婦だが、しばらくすると外国人が次々乗ってきた。大きなリュックをかついでおり、若者のカップルもいれば、家族旅行の人たちもいた。アジア系は一人もおらず、青い目の西洋人ばかりだ。外国人の数を数えてみると、全部で25人、日本人は私たち夫婦ともう一人の3人だけ。バスは満席だった。

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 馬籠宿に着くと、これまた驚いた。平日なのに、土曜、日曜のようなにぎわいだ。しかも西洋人の旅行者が圧倒的に多い。他の観光地では中国、台湾、韓国などアジア系が目立つが、ここでは少数派だ。もちろん日本人も少なくはないが、図体が大きく、派手な装いの西洋人はどうしても目立つ。彼らに古い町並みを通し、日本への理解や興味を深めてもらうのはいいことだ。
 
 昨年の訪日外国人は、ほぼ2000万人だった。私たちは1年のうち8か月を和歌山の山奥で生活しているので、外国人の多さを実感することはない。冬の間だけ大津に戻っているが、たまに京都に出かけると、確かに外人観光客は多かった。しかしそれは、京都が観光の中心地だから別に不思議に思わなかった。ところが木曽路に来てみて外国人の多さに驚き、日本人にしか分からないと思っていた地方の伝統や文化が大きな観光資源であることに、遅まきながら気付かされた。

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 馬籠宿に来るのはこれで3度目だが、歩いてその先の妻籠宿に行くのは初めてだ。約8キロの道のりで、その三分の一は結構急な上り坂。これを上り切ると、後はだらだらとした下りが続く。沿道には椿が多く、花が散り始めていた。椿の花は根元からコロンと落ちるので、首を落とすようなこの花は武士にとっては縁起がよくない。そんな花が、中仙道を往来した参勤交代の時代にも植えられていたのか、少し気になった。

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 木曽ヒノキに囲まれた沿道には民家が点在し、庭先にはスイセンなど様々な花が咲いていた。かなり昔のことだが、江戸末期に日本を旅した英国人女性の紀行文を読んだことがる。そこには、花が咲き、掃除が行き届いた民家の庭先の美しさが、驚きとともに記されていた。英国といえばガーデニングの国だが、そんな国の彼女が日本の素朴な美に感動していたことに、へぇー、そんなものかと思った。

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 歩き始めて3時間ほどで妻籠宿に着いた。中仙道には六十九の宿場があり、妻籠は江戸から数えて四十二番目の宿場だ。馬籠は明治時代に家並みが全焼し、その後復興されたが、妻籠宿の人たちは宿場を守るため、「売らない、貸さない、壊さない」という住民憲章を制定し、江戸時代の町並みを守ってきたという。その一角にある蕎麦屋で昼食をとり、再び鈍行電車に揺られたて家路についた。座りっ放しで、尻が痛かった・・・。

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