愛犬ぴーちゃんの逆襲

 親バカという言葉があるけれど、自分の犬を過剰に褒めるのは何と呼ぶのだろう。まさか「犬バカ」とは言わないだろうが、愛犬を自慢したくなる気持ちはよく分かる。私もそんな人種の一人である。

 わが家の犬はシーズという種類で、オスの9歳だ。名前は「ぴー」。元は娘が飼っていたのだが、転勤でペットを飼えない住居に住むことになり、娘はぴーの養育を放棄し、私たちに押し付けてすでに6年が経っている。

 今年は戌年で、ぴーは年男である。実は先日、その彼がちょっとした騒動を引き起こしたのだ。詳しくはもう少し後で書くが、その前に自慢話を少々・・・。

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 ぴーは私が引きこもっている部屋で一日の大半を過ごしている。私のまたぐらやソファの上で寝そべり、大きないびきをかいたり、意味不明の寝言を発したりしている。夜は家内の布団で眠り、家内にも甘えている。そんなバランス感覚に優れ、如才のない性格である。

 なかなか聞き分けもよく、「待て」も「よし」も理解している。外出が好きだが、「お留守番」と言えば観念し、悲しげな表情で見送ってくれるのだ。水が飲みたい時、コタツの中に入りたい時など前足でちょいちょいとシグナルを送る利口者でもある。

 さてその騒動だが・・・。私の部屋で新聞を読んでいると、視野の片隅に異物が目に入った。よく見ると、それは犬のウンチであり、ゴルフボールほどの大きさだ。散歩の時以外にウンチをすることはなく、体調がおかしいのかもしれない。ともかく、始末してもらうため、家内を呼びに行った。

 すっ飛んできた家内は「ぴーちゃん、何したの。だめじゃない。あほ」と言葉汚く糾弾した。これくらいでやめておけばいいのに、ウンチをした場所にぴーの顔を近づけ、執拗に罵倒し続けた。すると、穏健で人懐っこい彼もついに態度を豹変させ、「ウー」と唸って歯をむいた。それがまた家内の怒りに油を注いでしまった。

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 まぁ、それだけのことならよくある話だが、さらに強烈な続編があった。

 騒動のあった晩、家内はいつものように自分の部屋でぴーと同じ布団で眠った。家内の話によると、午前2時ごろ、ふと目が醒め、何気なく布団から手を出すと、顔のすぐそばで柔らかい物に触れた。電灯をつけると、何とまぁ、彼のウンチがとぐろを巻いていたのだ。

 慌しい音で私も目覚め、家内の部屋を覗いてみた。家内は布団の上にへたり込んでゲラゲラ笑っていた。自分の鼻先に大量のウンチをされ、気付かなかったのだから怒る気力も失い、ただあきれ返っていたのだ。そのそばでピーは、何事もなかったようにキョトンとしていた。

 賢いぴーがなぜこんなことをしたのだろう。家内からこっぴどく叱られたことへの仕返しに違いないが、しかしもう一つ。新年は娘や息子夫婦、孫が来てにぎやかだったが、逆にぴーをかまってやれず、淋しい思いをさせた。ウンチをして振り返ってほしかったのだと思う。今はそれに気付き、ぴーをひしと抱きしめている・・・。

家宝の軸を掛ける

   明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

 新年を迎え、戌年にふさわしい一幅の軸を掛けた。「初笑」の 墨書に、子犬が描かれている。この掛け軸は24年前の戌の年に、表千家の千宗左・十四代家元から戴いたものだ。家元直筆の掛け軸は、わが家の家宝である。

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 このように書くと、家元と懇意のように思われるが、そうではない。実は、表千家、裏千家、武者小路千家の茶道三千家はそれぞれ、新春恒例の行事として政財界などの有力者を招いて初釜を催すのだが、私はわが社の社長の代理、そのまた代理の代理として末席にかしこまったのだ。

 初釜では、表千家の由緒ある茶室で、家元が点(た)てた濃茶を約20人ほどの参加者が回していただく。茶碗はどんぶり鉢ほどの大きさで、結構重い。作法はそれほど難しいものではないが、恥をかかないよう知り合いから手ほどきを受けて本番に臨んだ。余談だが、濃茶をいただくと口の周りがべっとりと緑色になり、拭き取らないと失笑を買う。

 これが終わると別室に移り、お屠蘇をいただきながら抽選会が行われる。私が引いたくじは三等賞だった。その景品として頂いたのが家元直筆の掛け軸で、桐の箱には花押が記されていた。

 下衆な話だが、花押は鑑定書のようなもので、これを書いてもらうのには結構な謝礼が必要である。もし金に困ったわが子孫が、掛け軸を「なんでも鑑定団」に出して売り飛ばすようなことがあっても、花押を記した箱書きがあるのでしかるべき値段が付くだろう。

 余談をもう一つ。同じ24年前、初釜の先陣をきって行われた裏千家の初釜のことである。表千家と同じように、お屠蘇の後に抽選会があり、三宝から最後に残った一枚を引いた私は、一等賞の幸運に恵まれた。残り物に福があったのだ。景品は、唐津焼14代中里太郎右衛門の抹茶茶碗だった。

 裏千家の人から「これを売るようなことをしてはいけません。出所が分かるようになっています」と慇懃(いんぎん)にクギを刺された。それにしてもこの年の初釜で、1等と3等をゲットする幸運に恵まれた。この時、私の人生の幸運をすべて使い果たしたのか、その後、特別いいことはない。

 あれから24年、もうそろそろ幸運がやって来てもいい頃である。平成30年はいい年になるだろうか。そんな願いを込めて、「初笑」の掛け軸を見つめている・・・。

好奇心を失わず・・・前を向いて

 自分の部屋でうたた寝していると、スリッパを鳴らす女房の足音がやけに大きく聞こえて来る。掃除機の音も普段よりうるさく感じる。日がな一日、ぐーたら過ごしている負い目からか、それらの音が嫌味に聞こえるのだ。「手伝おうか」などと声をかければ、あれやれ、これやれと返り血を浴びるので、頬かむりして息を潜めている。

 今年もあと三日。この時期、新聞やテレビで10大ニュースが報じられるが、ある全国紙の1位は「14歳棋士・藤井四段の29連勝」、2位が「天皇退位の特例法成立」、続いて「日馬富士の暴行問題」、「眞子さま婚約内定」、「衆院選で自民圧勝、立民が野党第1党」と続いている。

 わが家を振り返ると、それほど良いこともなかった代わりに、特別悪いこともなく、おおむね平穏だった。

 1月にエジプト旅行が出来たのは良かった。世界各地でISのテロが相次ぎ、エジプトも彼らの標的にされていただけに、いざ行くとなると少し勇気がいった。カイロに着いてみると、要所で兵士が自動小銃を構えていたし、大型のショッピングモールに入るにもセキュリティーチェックを受けた。

 それにしてもピラミッドは大きかった。どのようにして巨石を積み上げたのか、色々と説があるようだが、実際におびただしい巨石を前にし、手で触れてみると、到底人知の及ぶところではないと実感した。背を低くして内部にも入り、通路で時々頭をぶつけたが、これもまた驚くべき構造物だった。古代エジプト文明は凄かった。

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 年の初めにいつも願うのは、好奇心を失わず、積極的に生きようということだ。しかし寄る年波に勝てず、体力が衰え、何かにつけて億劫になる。毎年、何種類かのキノコを栽培するため、原木を伐り、菌を植えてきたが、今年は1本の原木も作らずに終わった。

 釣りも同じだ。ボートを出すのが面倒で、春も秋もそれぞれ2、3回行っただけだった。釣果も少ないので、冷凍庫の中はガラ空きである。ただし、鮎釣りはよく行き、よく釣った。ただ10月初めごろ、膝下くらいしかない浅瀬で石に足を取られ、転倒した。ところがなかなか起き上がれず、溺れそうになった。「調子に乗るな」という警告なのだろう。

 今年は、北陸の白山(2702m)に登った。1日目は中腹の山小屋で宿泊。2日目は頂上に立ち、七つの池を巡って下山したが、歩行時間は9時間近い。今頃気付くのは遅いが、高齢者は1日の歩行時間を6時間以内に抑えるべきだと痛感した。下山の最後のほうでは足が前に出ず、ひどい目にあった。ただ、山に登りたいという意欲は衰えていないのが幸いである。

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 もう一つ、わが家で特筆すべきは、女房がスマホを買ったことだ。さっそくLINEを始め、東京と大阪で働いている娘と近況などをやり取りし、大いに盛り上がっているようだ。時々女房が画面を見せてくれるが、泣いたり笑ったり、ちゃかしたり、怒ったり・・・これがまた抱腹絶倒の連続である。

 私も来年あたりスマホに買い替えようと思っているが、今使っているガラケイでも別に不便はしていない。LINEもしてみたいが、娘たちから「男子禁制」といって煙たがられるかもしれない。メッセージを送っても無視されれば、これまた癪である。そんなこんなで間もなく1年が終わる。来年も駄文にお付き合い下さい・・・。 

能年玲奈をいじめる芸能界を一喝

 図書館で月刊誌の「文芸春秋」新年号を拾い読みしていると、女優能年玲奈さんについて書かれた記事が目に入った。「あまちゃんからの4年半」というタイトルである。いい年して気恥ずかしいが、私は彼女のファンである。

 パソコンを置いている机の引き出しに、郵便局からもらったかんぽ生命のメモ帳をこっそりしまっている。その表紙には、能年さんの写真が印刷してある。ツンと上を向いた鼻、清純な瞳、そして透き通るような白い肌。完璧に美しい。

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 2013年、能年さんがNHKの朝の連続ドラマ「あまちゃん」に登場すると、たちまち国民的ヒロインになった。彼女の演技は初々しく、少し猫背のところも、おどけた表情も、彼女にしか出せない味だった。毎朝ドラマを見ないと、私の一日が始まらないほどはまってしまった。

 文芸春秋の記事の筆者は、ノンフィクション作家の小松成美さんである。能年さんへのインタビューは数度にわたっているが、「あまちゃん」の頃のことは一切語らない約束だった。その裏に、所属事務所との契約問題がこじれた複雑なj事情があるらしい。

 そもそも「能年玲奈」は彼女の本名だが、事務所との契約で本名を名乗ることが出来なくなった。そこで「のん」に名前を替えることになったのだが、村八分同然で芸能界からはじき出されたことに、われら応援団は怒り、切歯扼腕していた。

 ところが昨年11月、「のん」さんに再びスポットライトが当たった。アニメーション映画「この世界の片隅に」の主人公すずの声優として見事に復帰したのだ。すぐ映画を観に行ったが、「のん」さんの代わりは誰にも務まらないほど見事な演技だった。国内外の数々の賞に輝いたし、記録的なロングラン上映も続いている。

 映画監督の片淵さんは「すずの声優はのんさんしかあり得ない」という思いで出演を交渉しようとしたが、村八分にされたのんさんの所在は分からなかった。さらに、スタッフの間からも事務所ともめている女優を主役にすれば映画制作が危うくなる、という意見が噴出した。 

 こんな状況に片淵監督の怒りは頂点に達し、次のように怒鳴りつけたと、著者の小松さんは書いている。「どこまで一人の若い女優をいじめれば気が済むんだ!才能ある女優をいったいいつまでないがしろにして放っておくつもりなんだ!」

 のんさんをいじめ続ける芸能界の偏狭さ。プロダクションに気兼ねして声を上げないマスコミたち。片淵監督の一喝がもやもやした私の気持ちを晴らしてくれた。そして、大いに溜飲を下げた・・・。

ゴッホの温かさ

 イギリス映画「ゴッホ ~最期の手紙~」を観に行った。とりわけ日本ではゴッホファンが多いし、私もその端くれである。しかし、なぞの多いこの天才画家について知っていることはたかが知れており、ファンと言ってもはなはだ薄っぺらい。

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 映画は、ゴッホの絵に満ちあふれている。制作に当たって世界から100人以上の画家が集められ、6万5000枚の絵が描かれた。それらはゴッホの色彩、筆圧までそっくりで、すべての場面がこの絵によって構成されている。

 ゴッホは37歳の時、ピストルで腹を撃ち自殺したとされているが、この映画は死の真相を追うサスペンスである。ゴッホはどうやってピストルを入手したのか、なぜ突然自殺したのかなど謎が多く、他殺説を唱える専門家もいる。

 映画は、若い郵便配達人がゴッホの死んだフランスの田舎町を訪れるところから始まる。ゴッホが泊まっていたホテルの女性や銃弾の傷を診察した医師など関わりのある人々から話を聞き、なぜ死んだかを探ろうとする。

 これらの人々の口から、ゴッホは物静かな人だった、孤独な人だった、邪悪な男だったなどと語られたが、真相を知ることは出来なかった。だが、配達人は赤毛の少年から後をつけられるようになった。少年は知恵遅れで、何らかの理由で発砲した疑いが持たれた。

 しかし、これといった証拠が出てきた訳ではないが、ゴッホが少年をかばっているような筋立てである。ベッドに横たわるゴッホは死の直前、「誰にとっても、この方がいいんだ」と意味深長な言葉を語らせてもいる。

 映画からは、ゴッホの温かみ伝わってきた。彼の作品にあふれる黄色こそが、そんな彼の心の内を物語っているようにも思えた。映画の最後に、こんなテロップが流れた。「油絵800点を残したが、生きている間に売れたのは1点だけだった」・・・。

          ※        ※       ※

 蛇足とは、余計なつけ足たしの意味だが、憚りながらそれを一つ。私がウイスキーを飲む時、傍らにゴッホがある。愛用しているウイスキーの陶器の容器にゴッホの「ひまわり」が描かれているのだ。この作品は、ゴッホが愛した南仏アルルで描いたひまわり7点のうちの一つだ。

 「CAMUS COGNAC」と書かれたこの陶器は、昔、誰かからいただいたものだ。中身はとっくにないが、20年以上もウイスキーを詰め替えて使っている。安物のウイスキーを高級に見せかける偽装である。

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貴乃花親方に見る武士道

 テレビのチャンネルをひねれば、日馬富士による暴行事件ばかりやっている。もうひと月以上もこんな状態が続いているのだ。テレビに顔を出すコメンテーターは、相撲など見に行ったこともないようなタレントや政治評論家たちもいる。憶測の上に憶測を重ねるいい加減なコメントにうんざりしている。

 テレビが面白がっているのは、暴行を受けた貴ノ岩関の師匠貴乃花親方のだんまりにあるのだろうが、それほど目くじらを立てるほどでもないと思う。わが子が上級生に殴られ、怪我を負わされた親の気持ちにも似ている。若いうちにモンゴルからやって来た貴ノ岩関は、親方が親代わりであり、親方とすれば白黒をつけないと引き下がれないのだ。

 何はともあれ、貴乃花親方が相撲協会の聴取に応じていないことが不評を買っているようだ。単に頑固なのか、自らの信念による沈黙なのか分からないけれど、深いところで相撲のあり方を問うているのだろう。相撲は国技である。ならば伝統にのっとった品格が求められる。不器用だが、そう訴えているのだろう。

 何も、角界のゴタゴタを書きたい訳ではない。実は、貴乃花親方がゆっくり歩く姿をテレビで見て、おっ、これは武士道に通じるのではないかと思った。マスコミからマイクを突きつけられようが、矢のような質問をされようが堅く口を閉ざし、微動だにせず前を向いて歩く。とっさに、武士道のバイブル「葉隠」を思い出していた。

 「葉隠」は、佐賀・鍋島藩の山本常朝が武士の心得として口伝したもので、これを解説した三島由紀夫著「葉隠入門」は私の愛読書でもある。この本は和歌山の山小屋に置いてあるので正確に書けないが、確か、武士たる者はみだりに走ってはいけないし、角を曲がる時も直角に曲がれと書いてあったように思う。

 次のような話も出てくる。城内で武士が口論の挙句、刀を抜いた。片方は斬られて死亡した。城内での刃傷沙汰はご法度であり、喧嘩両成敗になると思われたが、そうではなかった。斬った方は罪に問われなかった。死亡した武士は背中を斬られており、逃げたと判断されたのだ。
 
 貴乃花親方が目指す相撲道に通じるところがある。横綱たる者、立ち合いで変化したり、白鵬のように張り手をくらわすことは恥ずべきことなのだ。常に真っ向勝負、いわゆるガチンコ相撲で横綱にまで這い上がった親方にすれば、立ち合いで変化するのは卑怯であり、敵に背中を見せて背走する卑怯にもつながる。

 うがった見方かもしれないが、親方は身を挺して相撲道の何たるかを訴えているのではないか。またまた「葉隠」で恐縮だが、主君への最高の忠義は「殿、それ間違っています」と諫言(かんげん)することだと説く。一歩間違えれば腹を切らねばならず、殿を諌(いさ)めることは死を覚悟することなのだ。

 親方が、今の相撲の風潮を諌めていることは間違いない。その覚悟は生半可ではないし、孤立を恐れていないはずだ。検察の処分が決まれば、親方は話すと言っている。それまでは、つまらない解説はもういい・・・。

厳寒の生石高原から逃げ出した・・・

 雪が降りしきる中、軽トラの荷台いっぱいに荷物を積み込み、生石高原の山小屋を後にした。これから春4月まで、大津の自宅で過ごすのだ。標高800mの高原は平地より5度以上も低く、老境に入った身にはきつい寒さである。

 会社を辞めて山の暮らしを始め、最初の数年は厳冬期も山小屋で頑張っていた。新雪を踏みしめて散歩し、気が向けば近くの温泉で体を温めるのも楽しかった。しかし冬の山小屋生活は次第に重荷になっていった。

 冬の間を大津の自宅で過ごすようになって4年になるが、そもそもは自然の中に身を置きたいと始めた山の暮らしである。「不便もまた楽しい」と粋がっていたのに、一時的にしろ大津に逃避するというのは余りにも信念がなく、不甲斐ない。

 それはそれとして、これからブログで何を書けばいいか、毎年悩んでしまう。ブログのタイトルは「森に暮らすひまじん」だが、森に住んでいないからほとほと困ってしまうのだ。女房などは「4月まで休めばいいし、誰も困らない」と言うが、そうもいかない。

 ブログを始めた2008年以来もう10年も続いており、ブログを書くのは私の生活のリズムにもなっている。書くのをやめればボケが一層ひどくなる懸念もあるし、中断すれば「さては重病か」「ついに死んだか」などという余計な憶測まで呼びかねない。

 これまで10年間で書いたブログの数は、計1254件にも上る。駄文を重ねただけだから自慢にならないが、自分の中ではよくぞ書き続けたという感慨はある。だから女房に「中断したら」と軽々に言われたくないのだが・・・。

 ともかく、何を書くか悩ましい問題だが、これからも駄文にお付き合いいただければ、幸いである。

値切った薬缶

 所用があって大津に5日ほど滞在した後、和歌山の生石高原の山小屋に戻った。留守が長いと、家のログ材は冷え切ってしまい、薪ストーブで大量の薪を燃やしても、なかなか暖まらない。ログの家の難点は、一旦冷えると暖かくなるまで時間がかかることだ。

 2時間ほど燃やし続けると、やっと暖まってきた。ストーブの上に載せた薬缶が、コトコトと心地よい音を立てている。薬缶は昔から日本人の暮らしに寄り添ってきたし、山で生活する私たち夫婦の仲間のような存在でもある。

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 薬缶は、京都・鴨川に近い丸太町通りの古道具屋で手に入れた。この店には時々立ち寄り、ランプや木製品などを買ったことがあるが、20数年前のある春の日、夫婦で古道具店を訪ね、掘り出し物がないか物色していた。

 店の奥に進むと、銅製の薬缶が無造作に置かれていた。一枚の銅版を打ち出して作られたもので、表面に付いた打ち出しの痕が銅の趣を醸していた。丸みを帯び、どっしりとした存在感を放っており、無性に欲しくなった。

 女性の店主に値段を聞くと、確か3万円近かったと記憶している。注ぎ口の根元に少し傷のようなものが見受けられ、「この部分は大丈夫か?」と聞くと、店主は薬缶に水を張って戻ってきた。

 すると、根元のあたりから水が滲んでおり、「なーんや、漏れてるじゃない」とケチを付けてみた。店主が「じゃ、半額でいい」と言い、それでも高いと思ったが、このおおらかなフォルムの魅力にとりつかれ、買ってしまった。

 家に帰って修理できるかどうか確かめるため、水を入れてみた。ところが一滴の水も漏れないのだ。あの時、なぜ水が滴っていたのだろうか。水漏れを指摘したことに忸怩たる思いもあったが、店は決して損はしていないはずだ。骨董とはそんなものだと思う。

 薬缶がいつごろ作られたものか分からないが、100年以上は経っていると、勝手に思っている。蓋のつまみに彫られた桔梗の家紋からすると、武士の家系を持つ旧家の蔵から出てきたものかもしれない。

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 桔梗紋と言えば、信長を討った明智光秀の家紋だ。裏切りの家紋として忌み嫌われ、家紋を替えた武家もいらしい。坂本竜馬の家も桔梗紋である。司馬遼太郎の小説「竜馬が行く」の中で、坂本家は近江・坂本城の城主だった光秀の家来だったようなことが書かれていたように思う。

 あれ以来、桔梗紋の薬缶は薪ストーブの上に鎮座し続けている。薬缶は余りに重くて湯を注ぐのに少々難儀するのだが、焼酎のお湯割りを作ったり、コーヒーをいれたりしている。その重量感がまた、たまらない・・・。

スモークサーモンを作ってみた

 先日、月1回の蕎麦打ち教室に行った。麺棒で蕎麦を円形に延ばしていると、教室を主宰する師匠が「スモークサーモンも美味しいよ」と耳打ちした。そういえば、ずっとサーモンに挑戦しようと思いながら、宿題のようになっていた。

 師匠は以前、私に生ハム作りのノウハウを教えてくれた人だ。その通りに行程を進めると、50日後に美味しい生ハムが完成した。燻製名人の彼から教えてもらえば、スモークサーモンも美味しいものに仕上がるだろう。

 女房に甘塩のサーモン半身を買ってきてもらった。値段は千円ほど。まずは1リットルの水に塩100グラム、砂糖10グラム、白胡椒、セージをそれぞれ小さじ1杯、ローリエを3枚入れ、煮立ててソミュール液を作った。

 熱をさました液をフリーザーバッグに注ぎ、その中に中骨を取ったサーモンを入れて冷蔵庫へ。20時間ほど経ったら取り出し、水につけて塩抜きをする。時々水を取り替え、1時間半ほどで完了。次はサーモンをキッチンペーパーで包み、冷蔵庫で乾燥する。この行程は10時間ほど。

 これが終われば、いよいよスモークをかける。前にも書いたが、燻製には「熱薫」「温薫」「冷薫」の3種類があり、スモークサーモンは冷薫だ。燻製はどれも温度管理が重要で、味を左右する。ちなみに燻製の定番であるベーコンは温薫だ。

 冷薫は最も難しく、これが出来るようになれば免許皆伝と言われる。まず、燻製器の中の温度を10度くらいに保つのが理想だ。高くても20度以下にする必要があり、冬場にやらなければならない。味も良ければ、保存性も高いのが冷薫だ。

 スモークした日の気温は3度だった。スモークウッドはクルミを使った。一度火が付けば、気温が低いのでそのままにしておいてもいい。4時間ほど経ったので、完成だ。サーモンを削って女房に食べさせると、「塩っ辛い」と辛らつな批評をした。

 確かに、少し塩辛かった。失敗したと思ったが、冷蔵庫でひと晩寝かせると、まろやかな味になった。初挑戦にしてはいい出来だった。但し、同じ冷薫の生ハムに比べると、味わいに深みがない。やはり、50日も熟成させた生ハムにはかなわなかった。

     ↓ ソミュール液に漬け込む
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     ↓ 水道水で塩抜き
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     ↓ クルミのスモークウッドで燻製
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     ↓ 4時間の燻製で完成。ムベの実を添えてみた
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秋が素通りして冬になった・・・

 今年は、秋らしい日和が少なかった。ここ生石高原だけではなく、全国的にも同じだったのではないか。紀伊半島には、台風21号と22号が相次いで襲来、その前後から雨の日ばかりだった。そして今月中旬あたりからは急に寒くなり、秋を素通りしていきなり冬が来た。

 生石高原の初雪は11月19日だった。この日は雪というよりあられだったが、翌20日には5ミリほど積もった。気温は氷点下1度だった。

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 例年だと、このころからシイタケが収穫できるが、今年は10個ほどとれただけだ。原木を見回しても発生する気配が見られない。これ以外にナメコ、ヒラタケ、クリタケ、ムキダケを栽培しているが、クリタケ以外はわが家で食べる分だけしか発生せず、親類や知人に送ることが出来なかった。

 こんなことは過去になかった。キノコが発生するメカニズムはよく知らないが、台風前後の長雨が原因ではなかったと疑っている。キノコは秋の味覚だが、その秋をすっ飛ばして初冬が来てしまったので、これも原因の一つかもしれない。

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 悲惨だったのは、干し柿作りだった。生石高原の中腹で農業を営む知人の好意で、ヒラタネという渋柿を採らせてもらうことになった。柿はたわわに実っており、私は「もうやめとけ」と言ったが、女房は欲を出して200個ほど高バサミで切り取った。

 女房は干し柿が大好きで、異様な情熱を注ぐのだ。夜なべして柿の皮をむき、一連5、6個づつビニールのヒモにくくり付けた。カビを防ぐため、熱湯に数秒くぐらせ、私も手伝って軒下にぶら下げた。軒下には冷たい北風が当たるので、一段と甘みが増すはずだった。

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 ところが台風22号が紀伊半島を直撃し、横風が吹いて干し柿に雨が降りかかった。油断していたため屋内に取り入れるのが遅れ、多くの柿がびしょ濡れになった。200個のうち半分が溶けるようになってしまい、泣く泣く捨てた。

 残りは再び熱湯にくぐらせ、干し直した。上出来とは言えないが、何とか干し柿らしくなったのは不幸中の幸いだった。キノコも干し柿も、秋の恵みだと当たり前に思っていたが、自然はどっこい、人の思うままにはならないのだ・・・。

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